ある騎士の忠誠
ニール視点です。
この世は理不尽で溢れていて、平等に与えられるものなどないと昔から知っていた。
自分ではどうにもならないことをあげつらう輩──自尊心ばかり高い高慢な貴族。
彼らは自らの権力に胡座をかき、己の力で手に入れた訳でもないそれをひけらかし、気に食わないことがあればそれを振るう愚か者。
自分の無能さを棚に上げて、正当な者たちを蹴落とす下劣で性根が腐った者たち。
寄生虫のように他人に住み着き、搾取するゴミ虫以下の人間。
同じ人間だというのに、何故奴らだけが甘い汁を吸うのだろう……?などと青臭いことは言わない。そういうものだからだ。
貴族といえど他人の誇りを踏みにじる権利などないのではないか?
法は正義などと誰が言ったのだろう?
法は正しいのかもしれないが、弱き者を助けてはくれない。
それは三年前。ニール=ベイカーが二十三歳の頃のありふれた話だった。
ニール=ベイカーは庶民出身で、家はある小さな町のパン屋。
そこでは両親と弟とニールの四人暮らしで、贅沢は出来なかったが、それなりに幸せに暮らした平凡な日々。
ニールは王都で騎士として働いていて、ある時家族が王都に観光しに来た。
簡単な話だ。
久しぶりに会った家族に王都を案内していた時に、ニール以外の三人の家族がある貴族の男に殴られて、大怪我をした。
相手は貴族。ニールが何をしようとも敵わない相手。
知り合いに声をかけられ、彼らから少しでも離れていたのがいけなかったのかもしれない。
貴族御用達の被服店の周りには野次馬がたくさん居て、ドアの隙間や窓から中を窺う者の間をすり抜ける。
騒ぎを聞きつけ慌ててニールが駆け付けた時には、トドメを刺そうとしているところだった。
意識はあったが、皆恐怖に震えている。
弟は七歳になったばかりの幼い子どもだった。
弟を守るように両親が折り重なっていて。
今にも振り下ろされそうになっている大剣の前に体を滑り込ませて、たまたまメンテナンスで持ち歩いていた自前の剣で受け止める。
擦れるような音が聞き苦しい。
「………」
「ふん。何だ、その目は。こいつらがぶつかって来たのがいけないんだろ?」
「犯罪者……」
ぽつりと本音が漏れた瞬間、貴族の男は激昂した。
「はあ!? お前らが被害者になれるとでも思ってんのか?こっちは貴族。お前はただの野良犬。上がどちらを信じてくれるかなんて分かりきってるんだ。俺は悪くない」
──泣き寝入りをしろとでも?
それはよくある話。
身分差故に理不尽を押し付けられるいつもの話。
ニールが騎士団の下級騎士として働くうちに日常となったそれ。
──誰が悪くないだと? 無実だと?
難癖をつけてきて、逆らえない両親と弟を大剣で殴打したくせに。
猛り狂いながら笑い、憂さ晴らしをしたくせに?
大したことのない事実を罪だと偽りを述べる口。
溢れる憎悪の中、目の前の丸々と越えて脂ぎった顔の貴族の罵詈雑言を翻訳してみると、なんてことのない理由だったのだ。
弟はその貴族の貸切だとは知らずに、被服店の中に入ってしまい、貴族とぶつかってしまった。
そこから先はあっという間だった。
謝れと脅され、地面に頭をつけて平伏する無抵抗な人間を、この貴族は殴りつけたのだという。
「俺の服に下民が触れて汚くなってしまった。お前どうにかしてくれるのか?」
目の前が赤くなり、血管がぶちぶちと切れるみたいな錯覚すら覚える。
ただ触れただけではないか、ただぶつかっただけではないか。
無礼と謗られることはまあ仕方ないが、更に殴る必要があったのだろうか?
思わず持っていた剣を握り締め、殴りつけてやりたいくらいだった。
後ろから「私たちのことは良いから」と家族が青ざめた顔で首を振っている。
──こんなことが許されるのか?! いや、許されるはずがない。
こちらを見下した男は、自らの優位を確信している。
仮にも騎士が不祥事を起こしてはいけない。
それは当たり前の話で、今この時、ニールの感情で動く場面では決してない。
どんなに腸が煮えくり返ろうと、ニールの研ぎ続けた爪を振るうことはない。
相手は貴族で、ニールたちは平民。
我慢して怒りを飲み込むとか、そういう次元じゃない。
身分差は絶対。疑問を持つことすら有り得ない。
だから顔には出さないまま、無表情で相手を見返すことになる。
──うち据えられるなら、俺が代わりになれば良い。
普段から鍛えられているニールなら多少、憂さ晴らしにされたところでしぶといはず。
口を開こうとした瞬間、被服店の扉がカランと軽やかな音を立てて開いた。
「これは、また典型的な」
声変わり前の少年の声。
耳にすっと馴染むような穏やかな響きと、聞き取りやすい発音。
カツンと靴音を立てて真正面から入ってきた少年はフードを取り払った。
陽の光に照らされてキラキラと輝く金髪に、思慮深そうな蒼い色をした宝石のような瞳。
子どもながらもノーブルな雰囲気を醸し出す双眸に、思わず息を飲んだ。
「これは、何事だろうか? ヘルボーン伯爵」
「で、殿下!?」
──ヘルボーン伯爵?
高貴な少年が口にしたことで、憎々しいこの貴族の名前を今更ながらに知った。
──って、もしかしてフェリクス殿下か!?確かに見覚えあるような……?
平民出身の下級騎士だから、王族の者との面識は皆無だ。
絵姿でしか見たことがなかったが、彼の年齢とその容姿や雰囲気などと特徴から、目の前に現れたお方の正体を知った。
「何故……っ! 殿下がここに!」
「有名なはずだよ。クレアシオン王国の第一王子は時折、お忍びで市井に出るって言う話。これも執務の一つだ」
齢十二の王太子は、ヘルボーン伯爵の前に進み出ると、子どもらしからぬ完璧な微笑みを浮かべている。
──何の感情も読み取らせない、まるで一介の大人のような表情だ。
フェリクスの目は笑っているようにも見えたし、全く笑っていないようにも見えて、これが友好的な微笑みなのかそうでないのか、分からない。
ヘルボーン伯爵は青ざめながら、揉み手をしながら媚びるみたいな猫撫で声を出した。
正直、わざとらしすぎる。
「これは、これは殿下。ごきげんよう。まさかこのような見っともないところをお見せするつもりはなかったのですよ」
「かなり大騒ぎになっているけど、どうしたの?」
「そうなのです! この者たちが身の程を弁えぬせいで、このような事態に!」
ヘルボーン伯爵は、ニールの家族が己に無礼を働き、生意気な態度を取ったのだと捲し立てた。
無礼を働くも何も、ここまで大事になるようなことはしていないとニールは思っていた。
ニールの後ろに居る家族は、泣きそうになる弟を宥めながら、こちらにチラチラと不安げな視線を送っている。
「なるほど、伯爵の言い分は分かった」
「お分かりいただけましたか! この者たちがどれ程無礼で、目障りな存在なのかを」
こちらにフェリクスの目が向いた。
──ああ。ここでも身分。身分。身分。
フェリクスのような歳の王太子でも、この汚れきって淀みの酷い貴族社会に慣れ切ってしまい、この理不尽に気付かないのか。
平民であることは仕方ないが、人権すらないとは世も末だった。
「それで? そちらの話も聞かせてもらえるかな?ニール=ベイカー」
「……はい?」
そこには真摯な瞳があった。
ただ真実のみを求める公平さの象徴のような。
食ってかかったのは、愚かな男だけ。
「フェリクス殿下! 何を仰いますか!! 私は伯爵。その者たちは平民!この場で誰の発言が正しいかは明白ですぞ」
「誰が正しいって? それは全ての発言を聞いた後、私が判断することで、貴方が判断することではないよ、伯爵」
フェリクスは膝を付いていたニールの元へ来ると、顔を覗き込んだ。
「何があったか教えてくれる?」
「で、殿下……。まさか俺のことをご存知だったとは……」
下級騎士なのに。実力があっても身分のせいで上に上がることすら出来ないのに。
「騎士団に誰が所属しているか知っているのは当然だよ。皆、よくやってくれている」
「……」
末端の中の末端で埋もれてしまっているニールの存在など知られていないと思っていた。
ニールの方はフェリクスの顔すらあやふやだったというのに。
──それに、このお方は俺の話を聞いてくださるのか?
気取った態度のない高貴な少年はニールの言葉を待っていた。
本当に口にして良いのか躊躇する中、聞き苦しいダミ声が喚いた。荒々しい口調はもはや王族に聞かせるものではない。
「殿下! そいつらは信じるに値しない下級の人間ですぞ! この国の王太子でいらっしゃるなら、誰の味方をするべきなのか──」
「一つ言わせてもらうけど」
温度のない声が伯爵の声を遮る。
これ以上は聞く気はないと言わんばかりに強くハッキリとした口調だった。
ダミ声が黙り込んだのを確認すると、フェリクスは目を僅かに細めてこう言った。
「私は民のために働くつもりではいるけど、貴族のために働くつもりはないよ」
フェリクスの精神は既に少年ではなかった。
百年生きて老成した者が体だけ取り替えたようなチグハグ感。
成熟しきった青年のような堂々とした佇まいは、十年やそこらで身に付くものではない。
もはや異質と形容してもおかしくないフェリクスの在り方に瞠目した。
同時に、彼の発した言葉によって、ニールの中にある黒々とした固いものが解され溶解していくのが分かった。
貴族は一部のみ。民は、貴族も平民を含めた全て。
「身分……その大切さが殿下にはお分かりにならないので──」
「少なくとも、貴方よりは分かっているんじゃないかな? ふふ。何故、貴族がその富を享受しているのか伯爵は分かる? 持てる者の意味を」
「それは選ばれし者だからです。そこの下民とは違って」
「……」
彼は何も言わずにニッコリと微笑むと、再びニールに問いかけた。
「では、貴方の口からも聞かせて欲しい。ここで何があったのかを。遠慮する必要はないよ。私は、身分が上だからこそ、聞く義務があるんだよ」
齢十二の王太子の凛々しく堂々たる威厳を前に自分の中の何かがカチリとはまり込んだ。
長年、自覚のない探し物をしていて、それが突然目の前に現れたような衝撃。
自分はこのお方に仕えるのだ。
確信めいた思いが胸の中に広がっていく。
この人だ、とニールは思う。
それは本能的な直感であり、確定された運命であり、ニールの生まれながらの使命。
今まで生きていた中で感じたことのない忠誠心。
このお方の役に立ちたいという純粋な感情。
今まで感じたことがないのは、当たり前だ。
ニールが目の前の王太子に捧げる忠誠心は唯一無二でなくてはならないからだ。
これは、陶酔にも似た忠誠だ。
この出会いがニールの人生を大きく変えることになった。
フェリクスがヘルボーン伯爵の非を指摘すると、なおも言い募ろうとする男を無力化した。
明らかに過ぎた暴力であるとして、この場から騎士団へと連行する際にフェリクスは、ただただ煩い男の口を魔術で縫い止める。
「うるさいよ。マトモに話せるようになったら直々に聞いてあげるから、今はちょっと黙れ」
「──っ! んむ──!!」
胸がスッとした。何も言えない者の気持ちを思い知れと思っていたところだったからだ。
後に伯爵の周辺調査が行われ、様々な罪状が掃いて捨てる程に出てくることになる。
麻薬流通の罪があって、自らもクスリを口にしていたからか、感情のコントロールが出来なかった。
暴力をあそこまで簡単に振るったのは、クスリのせいもあるのだろう。
そして、去り際にフェリクスはニールに囁いた。
「対応が後手になってしまい、すまなかった。まだまだ情報網や捕獲網には改善が必要なようだ。今度は初手から潰しにかかる」
この国はどうなっているのだろう?
十二歳の子どもが言う台詞ではなかった。
持てる者の意味と彼は言った。
フェリクスは自らに押し付けられた生まれながらの義務に理不尽を感じてはいないのだろうか?
──少しでも殿下のお心の負担を和らげるには……?
ならば知り合ったばかりの下級騎士の自分には何が出来るのだろうか?
──力が足りない……。何をするにも力が足りない。
数年後、ニールが上級騎士になるための原動力。
それは敬愛する唯一無二の主のため。
──ああ。騎士団内部も汚物で塗れているからな。殿下に相応しい騎士団へと俺が導く。
それがニール=ベイカーの正義で、だからこそ何としても、のし上がって見せようと決意したのだった。




