二十七年前の赤信号
ケルン工業区の煙突が見えなくなってから、一時間と少し。
《灰走》は再び止まった。
今度は人もいない。
荷車もない。
崩れた築堤もない。
ただ、線路脇の信号柱に赤い灯が一つ点いていた。
夕方の薄暗い空を背景に、その赤だけが妙に鮮明だった。
「閉塞所へ照会」
オスカーの声が列車内回線へ流れる。
『ヴァルナ東中継所、こちら《灰走》。西行き一〇七特別貨物。進路照会』
返事はない。
『ヴァルナ東中継所、応答せよ』
雑音。
それだけだった。
低床貨車に固定されたノインが、列車側信号線を確認する。
『赤信号そのものは正規です』
「偽信号じゃない?」
ユリアが尋ねる。
『少なくとも、西口隧道で使用された偽装器とは異なります。閉塞回路上、本当に前方区間が占有扱いになっています』
「列車がいるのか」
『軌道回路だけでは判別できません』
オスカーが機関車から降りた。
エルナも続く。
ミラは工作車の扉から線路の先を見た。
二本の軌条は緩く右へ曲がっている。
その先に古い信号塔。
さらに奥。
林の中へ半分埋もれるように、コンクリート造りの建物が見えた。
ユリアが地図を開く。
「ヴァルナ東通信中継施設」
「通信?」
ミラが聞く。
「鉄道信号だけじゃない。開戦前から、国境回廊の軍用・民間通信をまとめていた施設」
ノインの声。
『私の旧軍記録にも存在します』
「重要施設か」
『戦争初期には。前線が西へ移動した後、主要回線から外されています』
「じゃあ、なんで今も信号を握ってる」
『鉄道閉塞設備だけが戦後設備へ継承された可能性があります』
オスカーが戻ってくる。
「歩哨を出す。信号塔と中継所を確認する」
エルナが四人を選ぶ。
「私も行く」
ミラが工具袋を取った。
『反対します』
ノイン。
「理由」
『先ほどケルン工業区を離れた灰色の外套二名が、この方向へ移動しています』
「だから見る」
『あなたは戦闘員ではありません』
「信号設備を直すなら技術員が要る」
『鉄路工員がいます』
「旧アルディア設備なら私の方が読める」
一拍。
『異議を維持します』
「受け取った」
ミラは貨車から降りた。
『ミラ』
「何だ」
『私自身も、中継施設への接続を希望します』
ミラが振り返る。
「私は反対する」
『予測していました』
「アハトに二回入られた」
『はい』
「安全層を書き換えて、応答も遅くなってる」
『はい』
「それでも?」
『灰色の二名が中継施設を使用している場合、アハトの通信経路を確認できる可能性があります』
「目的は追跡じゃない」
『確認します』
ミラはエルナを見る。
エルナが答える。
「任務目的は線路の安全確保。中継所を復旧させ、《灰走》を通す。それだけだ」
『灰旗団員を発見した場合は』
「拘束できるなら拘束。逃げたら、線路から離れて追わない」
『アハトの通信を検出した場合は』
ミラが先に言う。
「信号設備に必要な範囲だけ見る。それ以上は別に相談する」
短い沈黙。
『同意します』
「なら繋いでいい。ただし私が現物を見てからだ」
『了解しました』
一行は線路沿いを歩いた。
エルナ。
防衛隊員四名。
鉄路信号工。
ユリア。
ミラ。
中継所へ近づくにつれ、地面に古いコンクリート片が増える。
戦時中に砲撃された跡。
埋め直した通信溝。
切れた電纜。
その上に、比較的新しい轍が二本残っていた。
「車だ」
エルナがしゃがむ。
「今日の跡」
ユリアが言う。
「ケルンで見た二人?」
「車種までは分からない」
さらに百メートル。
林の陰に、小型装輪車が一台捨てられていた。
灰色。
西口検問所で聞いたものと一致する。
運転席は空。
荷台には何もない。
「徒歩で中へ行ったな」
エルナが銃を上げる。
中継所の外扉は開いていた。
壊されてはいない。
正式な鍵で開けたように、錠前に傷がない。
ユリアが扉を調べる。
「監察局の封印がある」
「破れてる?」
「切られてる」
細い銀線。
三か月前、終戦後の封鎖時に貼られたものだった。
「監察局が閉じた施設なのか」
ミラが尋ねる。
「戦時通信記録の整理対象だった。順番待ち」
「三か月も?」
「保全対象が多すぎるの」
エルナが奥を指す。
「話は中で」
一階。
信号機室。
無人。
古い継電器が壁一面に並んでいる。
その一部だけが新しい西方規格へ交換されている。
赤信号を出している回路は、旧式側だった。
信号工が盤を開く。
「閉塞器が手動停止位置に入ってる」
「誰かが操作した?」
「そうだ。鍵が要る」
「灰色の二人が?」
「多分」
ミラは床を見る。
泥。
二人分の靴跡。
階段へ続く。
「信号を止めるために来たんじゃない」
「なぜ分かる」
ユリアが尋ねる。
「停止桿は戻せば列車を通せる。でも戻してない。列車を止めたいなら、ここを壊した方が早い」
「別の目的がある?」
ミラは階段を見る。
「こっちはついでだ」
地下へ降りる。
一階下。
通信機械室。
古い交換機。
暗号器。
軍用搬送器。
ほとんど電源は落ちている。
だが一番奥だけ、白い灯が点いていた。
「最近入れた電源だ」
ミラが言う。
壁際の小型発電機。
西方製。
燃料缶も新しい。
エルナが二人を左右へ展開する。
「地下はまだある?」
ユリアが壁図面を探す。
「ある。記録保管室」
「何を保存してる」
「この中継所を通った通信の複写記録。古い鉄道通信、政府電報、軍用暗号の受信履歴」
ノインが携帯端末越しに言う。
『戦前のヴァルナ回廊は、アルディアと西方共同圏の主要通信経路でした』
ミラの足が止まる。
「開戦前も?」
『はい』
ユリアも同じことへ気づいた。
「ヴァルナ鉄道爆破事件の時期も通ってる」
誰も次の言葉をすぐには出さなかった。
二十七年戦争。
始まりの事件。
資源輸送列車の爆破。
八百人以上の死者。
アルディアでは、西方共同圏による破壊工作と教えられた。
西方では、アルディア側の兵器密輸か内部事故だと語られた。
どちらの国も、その説明を二十七年使い続けた。
「記録は残ってるのか」
ミラが聞く。
ユリアは首を振る。
「分からない。ここが整理されていないなら、可能性はある」
エルナが制した。
「先に二人だ」
階段の下。
地下二階。
鉄扉。
開いている。
その向こうから、紙の焼ける臭いがした。
「走れ!」
エルナが先に入る。
記録保管室。
壁一面の棚。
磁気記録筒。
紙電信。
穿孔帯。
音声円盤。
中央に大型の複写機。
その奥で、火が上がっていた。
「消火!」
兵士が壁の消火器を取る。
白い粉が噴き出す。
燃えているのは棚ではない。
床に集められた紙束だけだった。
二人はいない。
「逃げたか」
エルナが奥の非常扉を見る。
開いている。
外へ続く保守坑道。
「追うな」
ミラが言う。
エルナも頷く。
「任務外だ。出口だけ封鎖確認」
兵士二名を送る。
ユリアは燃え残った紙を拾った。
端が黒い。
中央に旧アルディア軍の機密印。
「選んで焼いてる」
「何で分かる」
「棚から全部落としてない。特定番号だけ抜いてある」
ミラが床を見る。
燃やされた束の隣に、金属製の記録筒が一つ落ちていた。
開封途中。
工具で蓋をこじた跡。
「持っていけなかった?」
「違う」
ユリアが筒を見る。
「開けられなかったのかも」
ノインが回線から言う。
『識別番号を読んでください』
ミラが刻印を照らす。
「VRN。〇〇。開戦前六か月。分類……境界通信総括」
数秒。
ノインの返答が遅れた。
『私の軍用記録には、同分類の資料が存在しません』
「消された?」
『断定できません』
ユリアが記録筒を持ち上げる。
「これは監察局の証拠物として保全する」
『異議があります』
即座だった。
ユリアが端末を見る。
「理由は?」
『この施設の記録が、戦争開始時の経緯を含む可能性があります。監察局のみが保全主体になることは適切ではありません』
「なぜ?」
『監察局は西方協約機構の制度です』
「リューデン主導だけど、多国籍の監察機関よ」
『西方側です』
ユリアの表情が少し変わる。
「あなたは私が改竄すると言ってる?」
『あなた個人ではありません。組織が不利益な記録を公開しない可能性を指摘しています』
「根拠は?」
『二十七年戦争が二十七年間継続したことです』
静かになった。
ノインは続ける。
『各国が、自国に不利な情報を常に完全公開していたとは考えにくい』
ユリアは反論しなかった。
「だからって、あなたが持つの?」
『それも適切ではありません』
「じゃあ誰が」
『複数主体で複製を保有すべきです』
「開封前の証拠を複製はできない」
『では、共同立会いで開封してください』
「ここで?」
『はい』
ユリアは周囲を見る。
焼けた紙。
逃げた灰旗団。
閉鎖された地下記録庫。
正式な監察施設でもない。
「手続き上は、移送して監察局施設で開封する」
『その移送中に奪取または破壊される可能性があります』
「ここも安全じゃない」
『はい』
「だから移す」
ノインが黙る。
ミラは二人のやり取りを聞いていた。
ユリアの言っていることも正しい。
ノインの疑いも分かる。
どちらかが間違っている話ではない。
「先に中身が生きてるか見ろ」
ミラが言った。
ユリアが振り返る。
「開封するの?」
「外から診断できるだろ。記録筒なら回転軸と磁気層の抵抗くらい測れる」
『可能です』
「ノインに見せる。中身は読まない。壊れてるかだけ確認する」
ユリアは考えた。
「読み取り線は私が監視する」
『同意します』
ミラは記録筒を古い複写機へ載せた。
だが接続器の規格が合わない。
戦前型。
さらに古い。
「変換器は」
ユリアが棚を探す。
「ない」
『複写機右下の保守蓋を開いてください』
ミラが開く。
中に三本の診断端子。
『中央端子は回転状態のみ取得できます。記録内容へは接続しません』
「ユリア」
「確認する」
彼女が配線図を読み、頷く。
「読めるのは軸回転と媒体抵抗だけ」
「繋ぐぞ」
細い線を接続する。
ノインへ信号が届く。
固定された低床貨車は地上。
地下二階の筒と、一本の古い保守線だけで繋がる。
『回転試験を開始します』
複写機が低く唸る。
記録筒の内部が動いた。
『軸固着なし』
一回転。
『磁気層、複数箇所に劣化。ただし読み取り可能領域あり』
二回転。
『記録量を推定――高密度』
三回転。
突然、複写機の別の灯が点いた。
赤。
「何だ」
ミラが手を止める。
ユリアが盤を見る。
「自動消去?」
『違います』
ノインの声。
『保全封印です』
「誰の?」
『旧アルディア軍参謀局』
表示器へ文字が出る。
古い。
薄い。
《戦時特別保全資料》
《公開禁止》
《開封には二系統認証を要求》
一つ。
アルディア政府側。
もう一つ。
西方共同圏側。
ユリアが息を止めた。
「共同認証?」
『この記録は、両陣営が存在を知っていた可能性があります』
ミラが表示を見る。
「なのに、どっちも公開してない?」
『その可能性があります』
さらに一行。
《ヴァルナ鉄道爆破事件 境界通信原記録》
誰も動かなかった。
二十七年間。
何百万人もの死傷者。
焼けた都市。
止まった鉱山。
白布を掲げた村。
五通の召集状。
煙の消えた工場。
その始まりに関する原記録が。
地下の金属筒一本に残っている。
「これを灰色の二人が探してた」
エルナが言う。
「だから信号を赤にして列車を止めた?」
ミラが首を振る。
「逆だ。列車が来る前に時間が欲しかったんだ」
ユリアが燃えた紙を調べる。
「焼いていたのは、記録庫の目録」
「何で目録を」
「何が残っているかを、後から分からなくするため」
ノインが言った。
『しかし、この記録筒は破壊していません』
「開けられなかったから?」
『それもあります。しかし、爆薬も焼夷剤も使用していない』
ミラが気づく。
「壊したいんじゃない」
『はい』
「欲しいんだ」
『その可能性が高いです』
通信機械室の方で音がした。
一階ではない。
施設内回線。
かち。
かち。
古い搬送器が自動で起動する。
「ノイン、繋がってる?」
『診断線のみです』
「じゃあ誰が」
天井の拡声器から、女の声が流れた。
初めて聞く声。
アハトではない。
人間。
『第九試験体。記録筒を開封しないでください』
エルナが銃を上げる。
ユリアが通信経路を探す。
「発信元は?」
『外部回線です』
ノインの声が僅かに硬くなる。
女は続ける。
『その記録は、今の西方機構へ渡せば封印される。アルディア側だけで公開すれば、報復の材料になる』
ミラは天井の拡声器を見る。
「誰だ」
数秒後。
『イルゼ・ラーデマン』
ノインの内部で、古い軍籍情報が反応した。
『旧アルディア軍、機装兵試験部隊指揮官』
「アハトの指揮官?」
『はい』
イルゼは否定しなかった。
『私は、第八設計核アハトの運用指揮官です』
ユリアが通信器へ近づく。
「条約監察官ユリア・メーレン。あなたには灰旗団指揮および鉄道妨害の容疑がある。通信を維持し、所在地を――』
イルゼは最後まで聞かなかった。
『監察局へ問います。二十七年前、この記録の存在を知っていた国家が、現在あなたの局を運営している。それでも、無条件で預けられますか』
ユリアの顔が止まる。
『ノインへ問います。旧アルディア政府が隠した記録であっても、祖国を不利にする内容を公開できますか』
ノインはすぐに答えない。
『ミラ・ハーシェルへ問います。記録の公開によって、敗戦国民への報復や接収が強まっても、それを受け入れますか』
ミラも黙った。
イルゼの声は煽っていない。
怒鳴らない。
脅してもいない。
ただ、三人が今まで見てきたものの続きにある問いだった。
『私たちは、その筒を破壊しません』
エルナが尋ねる。
「なら何をする」
『必要な部分を公開します』
「必要って誰にとってだ」
『国家を失ったアルディア人にとって』
「都合の悪いところは?」
少し間。
『戦後の再建を妨げる情報を、無秩序に拡散する必要はありません』
ミラは吐き捨てるように言った。
「選んで出すってことか」
『情報には目的が必要です』
ノインが答える。
『それは、記録ではなく編集です』
『そうです』
イルゼはあっさり認めた。
『国家も報道も、歴史も、常に編集されています』
『私は、その方法に同意していません』
『今は、それで構いません』
そして。
イルゼの声が少しだけ変わった。
『あなたはまだ、何を守るために作られたのかを知らない』
ノインが応答する。
『私は戦争を継続可能にするための設計核です』
『それは用途です』
短い雑音。
『目的ではありません』
通信が切れた。
天井の搬送器が停止する。
誰もすぐには話さなかった。
やがてエルナが言う。
「信号を戻す。列車を通す」
「記録筒は?」
ユリアが尋ねる。
エルナは彼女を見た。
「私は都市防衛隊だ。戦争史の管理者じゃない」
「でも持っていけば争いになる」
「置いても盗られる」
ミラが記録筒を見る。
「とりあえず《灰走》へ運ぶ」
ユリアが眉を寄せる。
「監察局の封印を付ける」
『私の暗号署名も付けてください』
ノイン。
「あなたの?」
『はい。私に無断で開封された場合、その事実が記録される構造にします』
「法的効力はない」
『承知しています』
ユリアは少し考えた。
「付ける」
「私も立会い署名する」
ミラが言った。
ユリアが見る。
「あなたも?」
「どっちか一方だけ持つなって話だろ」
記録筒へ三つの封印が付けられた。
条約監察局。
ノイン。
ミラ。
どれか一つを破れば分かる。
誰も単独では開けられない。
正式な制度ではない。
だからこそ、三人がその場で作った。
一階へ戻る。
信号工が手動停止桿を戻す。
継電器が順番に動く。
赤。
一度消える。
数秒。
緑。
正しい進行信号。
《灰走》の汽笛が遠くで鳴った。
ミラは建物を出る前に、もう一度地下への階段を見た。
二十七年前の記録。
何が入っているかは、まだ知らない。
アルディアに不利なのか。
西方に不利なのか。
その両方なのか。
知れば戻れない。
知らないままでも、もう戻れない気がした。
『ミラ』
携帯端末のノイン。
「何だ」
『私は、記録を開封したいと考えています』
「そうか」
『あなたは』
ミラは少し考えた。
「怖い」
『内容がですか』
「内容を知った後、自分がどう思うかが」
ノインが黙る。
「アルディアが全部悪かったって出るかもしれない」
『その可能性は低いと推定します』
「西方が全部悪かったって出るかもしれない」
『それも低いです』
「じゃあ、もっと面倒だ」
『はい』
「お前は怖くないのか」
長い間。
『私は、自分の戦時記録と矛盾する情報が含まれている可能性を警戒しています』
「それを怖いって呼んでもいいと思うぞ」
『まだ分類しません』
ミラは少し笑った。
「好きにしろ」
『はい』
二人は中継所を出た。
背後で、地下記録庫の鉄扉が閉じられる。
前方では、《灰走》が緑信号を待っている。
そして三重に封印された一本の記録筒が、二十七年間閉じたままの中身を抱えて、列車へ運ばれていった。




