ラストシーン 「悪くない世界」
夜の喫茶店は、もうほとんど音がなかった。
残っているのは、
カップを重ねる小さな音と、
壁掛け時計の規則正しい針の音だけ。
コーヒーの香りは、
もう薄くなっている。
レオノーラは、
一人で後片付けをしていた。
洗い終えたカップを布で拭き、
棚へ戻していく。
丁寧で、静かな動作。
誰かに見せるための所作ではない。
ただ、
今日を終わらせるための行為だった。
外では風が吹いている。
窓ガラスが、
わずかに揺れた。
街の明かりは、
どこまでも普通だった。
誰も世界を救わない夜。
誰も劇的な選択をしない夜。
誰も見られていない夜。
それでも世界は、
壊れずにそこにあった。
レオノーラは、
最後のカップを拭き終えると、
ふっと息を吐いた。
肩の力を抜くように、
小さく背を伸ばす。
少しだけ、
間があった。
そして。
ほんのわずかに、
口元を緩める。
「……退屈ですわね」
いつものように、
少しだけ皮肉を含んだ声。
だが、続けて。
窓の外へ視線を向けたまま、
静かに言った。
「ですが――」
街は何も答えない。
ただ、
普通の夜が続いている。
人々は生きている。
誰にも“物語”として切り取られず、
誰かの拍手もないまま。
それでも。
確かに、
息をしている。
レオノーラは、
少しだけ目を細めた。
「悪くありませんわ」
そう言って、
彼女はカップを棚へ戻した。
時計の針が、
静かに一つ進む。
夜は、終わらない。
そして、始まりもしない。
ただ、続いていく。




