シーン3「ミレイユの願い」
夕暮れだった。
――いや。
本当に夕暮れなのか、ミレイユには分からなかった。
王都の空は正常だ。
朝は来る。
夜も来る。
雲も流れる。
もう、巨大魔法陣はない。
なのに。
世界のどこかが、まだ“演出の終わり方”を忘れられていなかった。
石畳を踏む音だけが、小さく響く。
市場通りは静かだった。
人々はいる。
普通に歩き、普通に話し、普通に買い物をしている。
それなのに。
誰も、劇的じゃない。
花屋の娘は、誰かとの運命的再会をしない。
青年騎士は、世界を救う決意を叫ばない。
恋人たちは、夕焼けの下で永遠を誓わない。
ただ。
「今日は魚、安かったな」
「雨降るかねぇ」
「パン焦がした……」
そんな言葉だけが、静かに流れていく。
昔なら。
きっと、退屈だと思っていた。
ミレイユは、通りの端で足を止めた。
風が吹く。
演出みたいに花弁は舞わない。
光が差し込むこともない。
BGMも流れない。
本当に、ただの風だった。
「……怖い」
ぽつりと、呟く。
隣を歩いていたレオノーラが、静かに視線を向けた。
ミレイユは、少し困ったように笑う。
「前まで、毎日何か起きてたから」
自嘲気味だった。
「戦って」
「泣いて」
「逃げて」
「誰かを助けて」
胸の奥が、少し痛む。
「今は……静かすぎて」
立ち止まったまま、空を見る。
普通の空。
誰も裂いていない。
誰も覗いていない。
なのに。
心のどこかが、落ち着かなかった。
「わたし、変なんです」
ミレイユは、小さく笑う。
「自由になりたかったはずなのに」
「今度は、“何もない”のが怖い」
その声には、誤魔化せない震えがあった。
長い間、“主人公”だった。
常に見られ、
期待され、
物語を動かす役割を背負わされてきた。
苦しかった。
でも同時に。
“意味”は与えられていた。
朝起きれば、
今日やるべきことがあった。
誰かが期待していた。
誰かが見ていた。
だから走れた。
だから、自分を失わずに済んでいた。
けれど今は違う。
誰も、続きを期待しない。
世界は静かで。
そして――広い。
ミレイユは、ゆっくり息を吐いた。
「これから、どう生きればいいのか」
「分からない」
弱々しい声だった。
レオノーラは、少しだけ目を細める。
そして。
王都の通りを見渡した。
洗濯物を干す女。
昼寝する猫。
魚を運ぶ老人。
喧嘩している兄弟。
どれも。
物語にならない景色だった。
「分からなくて、よろしいのではなくて?」
ミレイユが顔を上げる。
レオノーラは、穏やかに続けた。
「人生は、本来」
「次回予告付きで進みませんもの」
少しだけ。
ミレイユが吹き出す。
レオノーラは肩を竦めた。
「毎日が感動的である必要など、ありませんわ」
「むしろ、そんな人生」
「疲れますでしょう?」
「……それは、そうですけど」
「ええ」
「ですから」
レオノーラは、前を向く。
風が吹く。
ただ、それだけの風。
「退屈でも」
「迷っても」
「意味が見えなくても」
一拍。
「自分で生きてみればよろしいのですわ」
静かな声だった。
演説ではない。
誰かを導く主人公の台詞でもない。
ただ。
一人の人間が、
もう一人の人間へ向けた言葉だった。
ミレイユは、しばらく黙っていた。
遠くで、鐘が鳴る。
夕暮れが少し深くなる。
誰も泣いていない。
誰も世界を救っていない。
それでも。
街は続いている。
ミレイユは、小さく笑った。
「……怖い」
でも。
今度は少しだけ、
その言葉の響きが違った。
「でも――」
彼女は、自分の足で一歩前へ出る。
「誰かに見られるためじゃなく」
「自分で生きてみたい」
その瞬間。
夕風が、静かに二人の間を通り抜けた。
演出ではない。
奇跡でもない。
ただの風だった。
だからこそ。
少しだけ、美しかった。




