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悪役令嬢、予算書を叩きつける  作者: 南蛇井


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第26話 『世界を支える嘘』 Opening「静かな世界の異変」

 空が、青くない日が増えた。


 それは、誰かが最初に叫ぶような異変ではなかった。


 王都の人々は最初、ただ「今日は妙に白っぽいな」と思っただけだった。


 雲は流れている。

 風も吹いている。

 朝は来るし、夜も来る。


 第四部の終わりにあったような、あの悪夢じみた“演出”は、もう存在しない。


 巨大魔法陣も。

 空を覆う観客席も。

 拍手も歓声も。


 全部、消えた。


 世界は確かに、“人生”へ戻ったはずだった。


 花屋の少女は、毎朝店先へ花を並べる。


 港では漁師たちが、静かな海へ船を出す。


 学園都市では、生徒たちが試験に頭を抱えていた。


 誰も世界を救わない。

 誰も劇的な告白をしない。

 誰も運命に選ばれない。


 けれど、人々は生きていた。


 自分のために。


 それは、レオノーラ・ヴァレンシュタインが望んだ世界だった。


 ――はずだった。


     ◇


「……また、薄くなっています」


 地下観測室。


 ベアトリクスの声は、異様なほど静かだった。


 術式盤の光が、何度も明滅を繰り返している。


 空間固定術式。

 現実観測座標。

 世界位相維持ライン。


 その全てが、じわじわと数値を下げていた。


 セシルが煙草を咥えたまま、天井を睨む。


「どこがだ?」


「全部です」


 ベアトリクスは震える指で術式盤を操作した。


 空間投影。


 王都全域の立体図が浮かび上がる。


 そして。


 都市外縁部。


 景色の輪郭が、わずかにノイズ化していた。


 まるで古い絵画が剥がれ落ちるみたいに。


 建物の端が揺れる。


 遠景が、時々ぼやける。


 存在そのものが、薄くなっている。


 セシルの顔から、笑みが消えた。


「……おい」


「はい」


「これ、現実そのものが剥離してないか?」


「しています」


 即答だった。


 地下観測室の空気が、凍る。


 ミレイユが小さく息を呑んだ。


「そんな……」


 彼女は、やっと“主人公”から解放されたばかりだった。


 世界はもう、誰かを舞台へ縛り付けない。


 そう思っていたのに。


 ベアトリクスは、ゆっくり唇を噛む。


「観測エネルギー残量、急減中」


「現実固定率、三日前から七%低下」


「このままだと……」


 言葉が止まる。


 言いたくなかったのだ。


 だが。


 レオノーラが、静かに続きを促した。


「言いなさい」


 ベアトリクスは目を伏せる。


「……世界そのものが、維持できなくなります」


     ◇


 その日の夕方。


 王都の広場で、小さな騒ぎが起きた。


 噴水の向こう側。


 石畳の一角が、突然“消えた”。


 穴ではない。


 崩落でもない。


 ただ。


 そこだけ、現実が存在していなかった。


 人々は叫び、後退した。


 次の瞬間には戻っていたが。


 誰も、忘れられなかった。


 “世界が一瞬欠けた”感覚を。


     ◇


 レオノーラは丘の上から王都を見下ろしていた。


 普通の夕焼け。


 普通の風。


 普通の世界。


 ……のはずだった。


 だが、空の色が時々薄れる。


 絵具を水で溶かしすぎたみたいに。


 ミレイユが隣で呟く。


「静かですね」


「ええ」


「前は……もっと色々起きてた」


 苦笑。


 それは、少しだけ寂しそうだった。


 レオノーラは横目で彼女を見る。


「退屈ですか?」


「……少しだけ」


 ミレイユは正直に答えた。


「怖かったし、苦しかったし、もう嫌だったのに」


「なのに、静かになると……」


 言葉が続かない。


 分かってしまうからだ。


 人間は、刺激に慣れる。


 劇的な物語へ慣れた心は、平穏を“空白”と錯覚する。


 遠くで、子供たちが笑っていた。


 誰にも見られていない笑い声。


 誰にも評価されない日常。


 それなのに。


 世界は少しずつ、薄くなっている。


 まるで。


 「そんな人生では足りない」とでも言うように。


     ◇


 夜。


 地下観測室。


 セシルが椅子へ深く座り込み、頭を掻いた。


「最悪だな」


「第四部でやっと勝ったと思ったら、次は世界法則との心中かよ」


 乾いた笑い。


 誰も返せない。


 ベアトリクスは術式盤を睨んだまま、静かに言う。


「運命律が消えたことで、観測循環が断絶しています」


「世界は今まで、“見られること”で存在を安定させていた」


「つまり――」


 セシルが吐き捨てた。


「観客が消えたら、舞台も崩れるってわけか」


 その瞬間。


 空間が、びり、と軋んだ。


 全員が顔を上げる。


 地上。


 空。


 かつて“観客席”が存在した場所。


 暗い裂け目の残骸が、ゆっくり脈動していた。


 そして。


 そこへ。


 文字が浮かぶ。


 巨大な、白い文字。


『幸福だけでは、退屈だ』


 沈黙。


 王都全域が凍りつく。


 観測者たちは、終わっていなかった。


 静かな人生を。


 平凡な幸福を。


 “つまらない”と断じる存在が。


 再び、こちらを見始めていた。

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