第一話 『悪役令嬢、薔薇の値段を知る』 冒頭シーン 「悪役令嬢、登校する」
王都ルミナスの朝は、鐘の音とともに始まる。
澄み切った青空へ向かって、中央大聖堂の鐘が厳かに鳴り響く。街路には通学用の馬車が連なり、磨き抜かれた車輪が石畳を優雅に転がっていく。王立アストレア学園へ通う貴族子弟たちは、今日もまた気品に満ちた朝を迎えて――いる、はずであった。
しかし実際のところ、空は朝から騒がしかった。
東の空では光属性魔法が無駄に炸裂し、西の並木道では薔薇の花弁が吹雪いている。どこからともなく白い鳥の群れが旋回し、さらに意味不明な金色のキラキラが大気中へ大量散布されていた。あれは何なのだろう。誰か説明できる者はいるのだろうか。少なくともレオノーラにはわからない。
原因だけは明白である。
攻略対象たちが、朝の挨拶に命を懸けているのだ。
「おはよう、ミレイユ嬢! 今日の君は朝日より眩しい!」
「この花束は庭師百二十名が徹夜で用意した!」
「君の笑顔のためなら空だって飛ぼう!」
朝からうるさい。
実にうるさい。
しかも全員、本気で言っている。
レオノーラ・ヴァレンシュタインは、自身の馬車の中で静かに目を閉じた。
黒塗りの馬車だった。
重厚で、威圧感があり、装飾も最小限。優雅というよりは葬送用に近い。実際、初めて見た者の八割は「誰か死んだのか」と思う。
ゆっくりと馬車が停止する。
御者が扉を開いた。
その瞬間、学園前の空気が凍った。
黒いドレス。漆黒の長髪。金色の瞳。表情は冷たく、姿勢は一分の隙もなく美しい。
まるで「悪役令嬢」という概念を服に縫い付けて歩いているような女。
それが、
レオノーラ・ヴァレンシュタイン
であった。
周囲の生徒たちが、露骨に視線を逸らす。
しかし貴族という生き物は、視線を逸らしながら噂話をする高度技術を習得している。
「悪役令嬢だ……」
「王太子殿下を束縛しているとか……」
「前の侍女、三日で辞めたらしいぞ」
「婚約者を呪い殺したって……」
全部聞こえていた。
レオノーラは小さく息を吐く。
別に傷ついてはいない。
なぜなら彼女は知っているからだ。
ここが乙女ゲーム世界であることを。
そして自分が、その世界における“悪役令嬢”であることを。
王太子へ異常な執着を見せ、主人公をいじめ抜き、最後には断罪されるラスボス役。それがレオノーラ・ヴァレンシュタインというキャラクターである。
嫌われるのも仕様。
恐れられるのも演出。
むしろ好かれていたらシステムエラーだろう。
だから噂そのものには、特に思うところはない。
問題は別にある。
レオノーラは空を見上げた。
ちょうど上空で、誰かの風魔法によって巨大なハート型雲が形成されているところだった。
しかも回転している。
「……もっとこう」
彼女は額を押さえた。
「恋愛とは慎ましく行われるものでは?」
朝から爆発音がした。
見ると、校門付近で別の攻略対象が噴水を虹色に変えていた。
生徒たちが歓声を上げる。
教師が拍手する。
庭師が倒れる。
レオノーラだけが、静かに思った。
(維持費はいくらですの……?)




