表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
33/33

33 セリムという花

食事が終わると、父さんは「おいで」と短く告げ、私を奥の書斎へと連れて行った。

部屋に入った瞬間、いつもの薬草やインクの匂いに混じって、古い紙の乾いた匂いが鼻をかすめる。

父さんは迷いなく本棚へ向かい、分厚く黄ばんだ図鑑を一冊取り出した。

机にどさりと置かれたそれは、今にも崩れ落ちそうなほどに綴じ紐が緩んでいて、触れるのさえためらうほどで。

父さんは慣れた手つきでページをめくり、ある箇所を指先で押さえて私に示した。


『春に花を咲かせるその姿は、華やかで甘い香りを放つ。

伝承では「女神セリシアの愛した花」「魂を呼ぶ果実」とも記されている。』


『熟した実は自然発酵によりアルコールを含み、同時に有毒。摂取量によっては意識低迷、記憶の白濁・改竄、思考力の低下…』


『…さらには死に至ることもある。

精油や花の取り扱いにも細心の注意が必要』


視線が、その一文で止まる。

「死」という言葉が、重く胸の奥にのしかかった。



「……これがセリム?」



震える声で問うと、父は静かに頷いた。

次に棚から取り出したのは、もっと新しい装丁の本。表紙に刻まれた年号は、今から23年前のものだった。

ぱらぱらとページが捲られ、また同じ項目が開かれる。


『熟した実は自然発酵によりアルコールを含む。

摂取量によっては意識低迷、記憶の白濁・改竄、思考力の低下などを引き起こす』


それだけ。


毒に関する記述も、危険性の注意も――すべて削られていた。


「どういうこと……?」



自然と言葉が漏れた。

父は椅子に腰を下ろし、背もたれに深く預けてから、目を閉じる。

少しの沈黙の後、低い声が言った。



「民衆には知られたくない事実、ということだろうね。ちょうどこの新版が出た頃から、教会がセリムを一括して管理するようになった」

「その頃って……」

「――皇女殿下が生まれた年だ」



背筋に冷たいものが走る。

心臓の音が耳の奥で強く響いていた。



「待って……。じゃあ殿下が毎日使ってる香水は、毒ってこと……?」



父はすぐには答えず、指先で机を二度、軽く叩いた。

考え事をするときの、いつもの癖。

そしてようやく、目を開けて私を見据える。



「香りを吸った程度で即座に害が出るわけじゃない。ただ、幻覚を見せる花だからね。長期的に常用すれば、影響は出るかもしれない」



父は二冊の図鑑を閉じて重ね、静かに机の端へと押しやった。

もうこれ以上は言わない、という無言の線引きだ。



「皇女の侍女として、薬師の見習いとして、どうするべきなのか。少し自分で考えてごらん」



私は答えを返せないまま、しばらくその場に立ち尽くした。



***



重すぎる情報を胸に抱え、自室へ戻る。

寝台に倒れ込むと、硬いマットレスと懐かしい匂いが鼻を突いた。

恋しさを覚えるのはいつもの部屋と、いつもの笑顔で。

既に「私の日常」は皇女宮の生活なのだなぁと実感させられる。



セリム。



教会の象徴、女神の愛した花…。

使い方によっては毒になるもの。

その事実は、教会によって秘匿されている。

それを知っていたかも知れない人が、皇女殿下にそれを贈った。


悪意?善意?

ただの印象操作?


セリムの毒に関する記述が隠されたのは、“女神の生まれ変わり”……つまりセレスティア皇女が誕生した年。


毒になるような花なら、人々は知っていた方が良いはずなのに何故隠す?

当たり前に私たちの側にあって、食べたり、飲んだり、身につけて楽しんだりしている。



「あーもう、わっかんないな…!」



叫んで、毛布を被る。

息抜きの帰省のはずなのに、悩むことが多すぎる。



「……皇女殿下、どうしてるかな…」



小さく呟いて、目を閉じる。

寂しいのも、早く会いたいのも、私も一緒らしい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ