33 セリムという花
食事が終わると、父さんは「おいで」と短く告げ、私を奥の書斎へと連れて行った。
部屋に入った瞬間、いつもの薬草やインクの匂いに混じって、古い紙の乾いた匂いが鼻をかすめる。
父さんは迷いなく本棚へ向かい、分厚く黄ばんだ図鑑を一冊取り出した。
机にどさりと置かれたそれは、今にも崩れ落ちそうなほどに綴じ紐が緩んでいて、触れるのさえためらうほどで。
父さんは慣れた手つきでページをめくり、ある箇所を指先で押さえて私に示した。
『春に花を咲かせるその姿は、華やかで甘い香りを放つ。
伝承では「女神セリシアの愛した花」「魂を呼ぶ果実」とも記されている。』
『熟した実は自然発酵によりアルコールを含み、同時に有毒。摂取量によっては意識低迷、記憶の白濁・改竄、思考力の低下…』
『…さらには死に至ることもある。
精油や花の取り扱いにも細心の注意が必要』
視線が、その一文で止まる。
「死」という言葉が、重く胸の奥にのしかかった。
「……これがセリム?」
震える声で問うと、父は静かに頷いた。
次に棚から取り出したのは、もっと新しい装丁の本。表紙に刻まれた年号は、今から23年前のものだった。
ぱらぱらとページが捲られ、また同じ項目が開かれる。
『熟した実は自然発酵によりアルコールを含む。
摂取量によっては意識低迷、記憶の白濁・改竄、思考力の低下などを引き起こす』
それだけ。
毒に関する記述も、危険性の注意も――すべて削られていた。
「どういうこと……?」
自然と言葉が漏れた。
父は椅子に腰を下ろし、背もたれに深く預けてから、目を閉じる。
少しの沈黙の後、低い声が言った。
「民衆には知られたくない事実、ということだろうね。ちょうどこの新版が出た頃から、教会がセリムを一括して管理するようになった」
「その頃って……」
「――皇女殿下が生まれた年だ」
背筋に冷たいものが走る。
心臓の音が耳の奥で強く響いていた。
「待って……。じゃあ殿下が毎日使ってる香水は、毒ってこと……?」
父はすぐには答えず、指先で机を二度、軽く叩いた。
考え事をするときの、いつもの癖。
そしてようやく、目を開けて私を見据える。
「香りを吸った程度で即座に害が出るわけじゃない。ただ、幻覚を見せる花だからね。長期的に常用すれば、影響は出るかもしれない」
父は二冊の図鑑を閉じて重ね、静かに机の端へと押しやった。
もうこれ以上は言わない、という無言の線引きだ。
「皇女の侍女として、薬師の見習いとして、どうするべきなのか。少し自分で考えてごらん」
私は答えを返せないまま、しばらくその場に立ち尽くした。
***
重すぎる情報を胸に抱え、自室へ戻る。
寝台に倒れ込むと、硬いマットレスと懐かしい匂いが鼻を突いた。
恋しさを覚えるのはいつもの部屋と、いつもの笑顔で。
既に「私の日常」は皇女宮の生活なのだなぁと実感させられる。
セリム。
教会の象徴、女神の愛した花…。
使い方によっては毒になるもの。
その事実は、教会によって秘匿されている。
それを知っていたかも知れない人が、皇女殿下にそれを贈った。
悪意?善意?
ただの印象操作?
セリムの毒に関する記述が隠されたのは、“女神の生まれ変わり”……つまりセレスティア皇女が誕生した年。
毒になるような花なら、人々は知っていた方が良いはずなのに何故隠す?
当たり前に私たちの側にあって、食べたり、飲んだり、身につけて楽しんだりしている。
「あーもう、わっかんないな…!」
叫んで、毛布を被る。
息抜きの帰省のはずなのに、悩むことが多すぎる。
「……皇女殿下、どうしてるかな…」
小さく呟いて、目を閉じる。
寂しいのも、早く会いたいのも、私も一緒らしい。




