25 女神の器
マリアもいない、ルルリエもいない。
神官に促されるまま、馬車を降り神殿へと足を向ける。
白大理石の大扉が開くと、セリムの香が濃く立ち込めた聖堂の空気が押し寄せた。
甘い甘い、セリムの花。
女神の愛した花の香り。
教会の象徴。
国を護り、民を護る女神を祀る場所であり、生まれ変わりであるとされる自身の力の根源でもある場所
。
それなのに、足を運ぶ度に陰鬱な気分になる。
無言のまま聖堂の更に奥へと導かれ、気づけば衣擦れの音に囲まれていた。
「女神の器に、俗世の塵はふさわしくございません」
侍女のような女性神官たちが近寄り、衣を脱がせ始める。
いつものこと――どんなに自分にそう言い聞かせても、他人に肌を暴かれる羞恥と屈辱が心を染めていく。
「止めて」と声を上げそうになるが、彼女たちは慈愛めいた笑みを浮かべたままだ。
身につけていた衣を剥がれるたびに、心から“自分”という色までが削がれていく。
「皇女ではなく――女神の姿で」
「器として、あるべき装いを」
銀の器に注がれた聖水が差し出される。
両の手に受けると、冷たさが肌を刺し、指先から血の気が引いていく。
額、胸、肩へと滴を垂らされ、見えぬ鎖で縛られていくような感覚に囚われる。
「……」
心は抗っても、表情は動かさない。
それが“笑わぬ皇女”の習性になっていた。
素肌に1枚ずつ、衣が重ねられていく。
袖を通すたびに、セレスティアという人間が、ただの“容れ物”へと押し込められる。
やがて祭壇の前に座らされ、神官たちが声を揃えて言った。
「近頃……御力が弱まっておられるのではと」
「原因は明らか、皇室に囚われておられるからです」
「私は――セレスティアです。ルミエステ皇女としての責務が……」
必死に言葉を紡ぐ。
だが、枢機卿の冷ややかな瞳がそれを切り裂いた。
「否。あなたは此処ではセレスティア・ルミエステ殿下ではない。“セリシアの魂”を宿す器にすぎません」
「皇女という個など瑣末なこと。器が縛られているからこそ、力が衰えているのです」
言い返そうとしても、声にならない。
胸の奥を握り潰されるような圧迫感に、呼吸が浅くなる。
女神セリシアの生まれ変わりとして。
それがセレスティアの価値で、存在意義なのだと、この場にいる誰もがそう信じて疑わない。
やがて祈祷の唱和が始まり、魔力も気力も、じわじわと削られていくのを感じた。
「(私は……器なんかじゃない。けれど……)」
祈りが終わるころ、立ち上がる足にほとんど力は残っていなかった。
聖堂をあとにしながら、心の奥底で小さく呟く。
「(このままでは、本当にいつか……私は私でなくなりそうだわ……)」
祈祷を終えたセレスティアは、ふらつく足を神官たちに支えられながら聖堂を出た。
外気に触れた瞬間、冷たい夜風が頬を撫でる。
けれど、それは自由を意味しない。
待ち受けていたのは、皇女宮専用ではなく、教会の紋章を刻んだ黒塗りの馬車だった。
両脇には無表情の神官兵。
護衛と称しながら、その眼差しは彼女を“守る”というより“見張る”ものだった。
車内に押し込まれるように乗り込む。
革張りの座席は重く沈み、向かいには無言の神官が一人。
閉ざされた扉が音を立てて閉まると、空気まで密封されてしまったかのようだった。
ガタガタと車輪が石畳を叩く。
セレスティアは膝の上で震える手を組み、ただ窓の外の灯火を見つめるしかなかった。
「……」
外套の下で、先程まで纏っていた祈祷服の感触が、未だに肌にまとわりつくような気がした。
“皇女ではなく女神の器に――”と繰り返された言葉が、耳の奥で木霊する。
反論する余地など与えられなかった。
彼らにとって、セレスティアの意志や心など存在しないのだ。
この馬車の揺れすら、自分をどこか遠くへ連れ去ろうとしているように思えた。
窓の外に宮殿の灯りが見えたとき、かすかに胸を撫で下ろす。
けれど、その安堵すら「一時の猶予」に過ぎないことを、セレスティアは知っていた。
重たい扉が静かに閉まる。
神官たちの気配が遠ざかると、ようやく自分の居場所に戻ってきたと実感できた。
けれど胸の奥には、まだ祈祷服の布がまとわりついているかのような不快感が残っている。
「殿下、……おかえりなさいませ」
控えていたルルリエが、深々と頭を下げて迎える。
どこかほっとしたようなその声を聞いた瞬間、セレスティアの張りつめていた糸がぷつりと切れた。
「……ルルリエ」
小さな呼びかけに、ルルリエが顔を上げる。
次の瞬間、セレスティアはふらりと歩み寄り、彼女の肩に額を押しつけていた。
「っ……殿下……?」
か細い声。
皇女であるはずの人が、寄りかかるように身を委ねてきたのだ。
ルルリエの手が一瞬宙をさまよい、それから恐る恐る背を支えた。
「……冷たくて、苦しいの」
「……」
「女神の器でしかないと……言われ続けるのは……」
声は震え、かすれて消えそうだった。
ルルリエは胸の奥が締めつけられるように痛むのを感じながら、そっと彼女の銀色の髪を撫でた。
「……セレスティア様は、セレスティア様です。
女神の器なんかじゃなくて――」
その言葉が、果たして届いたのかはわからない。
けれどセレスティアの細い肩から、ほんのわずかに力が抜けていくのを、ルルリエは確かに感じた。
静かな夜の皇女宮。
誰にも見せられない皇女の弱さを受け止めるのは、結局ルルリエただひとりなのだった。




