第1話
朝、俺の部屋。
「ほら、いい加減起きなさいよ」
女の色白の手が、俺の体をゆさゆさ揺らす。俺の顔に、ひんやりと冷たい手が当たって気持ちがいい。
「んむ……なんだい、まだ十時じゃあないか」
「まだ十時じゃなくて、もう十時よ。今日はお昼から一緒にデエトしてくれるって約束じゃない」
そういえば、そんな約束をしていた……ような気もする。目をこすりながら女を見ると、なるほど確かに上から下まで、もうバッチリめかしこんでいた。
「ああ……分かった。今起きる、起きるよ」
「良かった。じゃあ朝ごはんもすぐに出すから、急いでね!」
のそのそと布団から這い出る俺の姿を確認して満足したのか、艶やかな黒髪を揺らして、女は俺の部屋から出ていった。彼女の残していった甘いバニラ風味の香りが、まだ眠気に浸る俺の鼻腔に微かに響く。
彼女はいつも、欠かさず何やら良い香りを纏っている。きっと香水だのアロマだのが好きなのだろう。
「健康の為にも、きちんとした生活リズムをとって欲しいわ」
新聞を片手にトーストをかじる俺の姿を眺めながら、女が小さく頬を膨らませる。口では文句を言いながらも、俺の二枚目のトーストにバターを塗る手は休めないのだから、出来た女だ。
「これが俺にとって正しい生活リズムなのさ」
「『正しい』って仕事もせず、毎日昼から競馬に競輪の、どこがどう正しいのよ」
女の呆れ顔をものともせず、俺はすまして答える。
「哀しいかな、いつの時代も女には、男の高尚なブリテン趣味が分からんのだ。こればっかりは仕方あるまい」
「理解できない女で悪かったわね。そう、じゃあその『ご高尚な』趣味はともかく、仕事もしないで無職なのは、どう説明するのよ」
確かに俺は無職であり、一方の彼女が婦人雑貨店のパートで働いていた。
「金なんて俺が四百年前にかっぱらってきた金隗があるだろう。それで暮らしていける。君がわざわざ働く理由も無いはずだ」
「それはそうでしょうけれど、でもやっぱりちゃんと日々働いて、普通に暮らしていきたいわ。金塊に頼ってばかりじゃ、色々ダメになると思うの。それに、普通の家庭ではみんな旦那様が働いているわ。お隣の吉田さん夫妻もそうだし、向かいの加藤さん夫妻は共働きよ」
女ってのは、なんでご近所さんとやたら比べたがるのか。俺は彼女に向かって箸を突きつける。
「『普通は普通は』って、君も良くない病を患っているな。周囲に迎合するのは所詮三流、俺の信念に反する。第一、俺には本職がちゃあんとあるんだ。そこらの人間の真似事なんてごめんだね」
「本職って、あなた『のっぺらぼう』としての活動なんて全くしていないじゃない。妖怪百鬼夜行の盟主の仕事だって、人に押し付けちゃったし。昨日なんか、盟主代行のぬらりひょんが、泣きそうになりながら頼みに来たのよ。いい加減戻ってくるよう、私からも説得してくれって」
俺が箸を止めて自分の顔をひと撫ですると、目鼻口が消え、つるりとしたゆで卵のような顔が現れる。再び顔を撫でると、顔が元に戻った。
「ふん、こんな時代じゃ妖怪なんざやってられないね。昔は良かったよ。薄暗い夜道でそば屋を開いて、突然客を驚かしてやるんだ。奴らは巾着も持たずに悲鳴をあげて逃げてったもんだ。ところが最近ときたら、のっぺらぼうを見せてやってもハロウィン扱いさ。この前なんて女学生から『ツーショット写真を呟いたら、バズりました』なんてお礼のメッセージが来る始末。商売あがったりだ」
愚痴を聞いていた女が突然、目を細める。彼女の顔から色が失せ、空気が一変した。
「女学生とツーショット? お礼のメッセージ? ……なんでその女はあなたのIDを知ってるのよ」
これはしまった。口は災いの元。先人の知恵にならって、無駄な情報を与えるべきでなかった。おそるおそる彼女の様子を伺う。
「……なんだい、その手は? どういう意味かな」
彼女がにこやかな表情を浮かべて、手をこちらに差し出している。張り付いたような笑顔がことさら不気味だ。
「ねえ、あなたのスマホ……ちょっとだけ貸して欲しいわ」
「どうしてかな」
「貸・し・て」
適当にあしらうつもりが、どうも食卓を包む空気が凍ってきた。いや、実際に物理的な温度が下がっている。なにせ彼女は、あの雪女なのだ。文字通り吹雪だって起こせる。今や机の端に霜が降りつつある。
「……ほら、これだ」
女って生き物は、こうなると手に負えない。さっさと好きなようにやらせるのが良い。彼女にスマホを手渡す。
数秒後、彼女の手に渡ったスマホは、パキっと軽快な音とともに砕け散った。別にスマホを壊してもアカウントがあれば連絡は可能なんだが、あえて教える必要もあるまい。
「その女、ブスだったら絶対許さない。ニンゲンのくせに、雪女をバカにしたことを命で償ってもらうわ」
怒り心頭の彼女は身の凍るような冷たい笑みを浮かべる
「ふむ、つまり君ほどの美人だったら、逆に免罪されるということか」
「いいえ。美人だったら、それはそれでムカつくから殺すわ」
なんだそれは。どっちにしろ殺すつもりではないか。これでは浮気のひとつも満足にできない。俺は肩をすくめた。
「だいたい、人の男をたぶらかそうとする、とんでもない女に引っかかるあなたも悪いのよ」
たしか本来、雪女ってのも雪山に来た男を次々に誘惑して、命を奪う妖怪だったはずだが、彼女はさして気にしていない様子だ。
「何よ。私が雪女だからって、そんなあばずれ虫と一緒にしないでくれるかしら?」
「うーん。君はいつからエスパーに転職したんだ」
「雪女のイメージから決めつけないで欲しいわ。うちのお母様も私も純愛路線なの。レイシズム、雪女差別よ」
「だがなあ、初めて会ったときは、君も俺をたぶらかして殺そうとしていたじゃないか」
俺の指摘に、彼女は一息いれて答える。
「そうね、あれが雪女として初めての仕事だった。でも運悪く相手があなたで、しかも不幸なことに、あなたがほんの僅かばかり、ちょっとだけ、ほんの少しだけ素敵過ぎたせいで、あれが私の最初で最後の仕事になったってわけ」
彼女は憤慨しながら、褒めてるんだか貶してるんだか分からない説明をする。
「そうかそうか。まあ、これ以上心配しなくていい。あの女学生とは数回会ったきりだ。事実はそれだけさ」
ゴミ箱に捨てられた『過去、スマホであった何か』を目の端で見やりながら俺は続けた。ついでに吹雪の中、こっそり霊力で保温していた野菜スープを飲んで体を温める。彼女の能力は人間と比べれば化物かもしれないが、百鬼夜行の盟主たる俺にとっては可愛い程度のモノだ。
「それに、君が一番であることに変わりは無い」
「本当かしら。ちっとも信用できないわ」
「本当だとも」
依然として疑いの眼を向けてくる彼女に、手をひらひらして応える。
「じゃあそれを証明して。いい加減、その……プ、プロポーズして」
「プロポーズ? 結婚したいのかい?」
「そうよ。私ね、この雑誌で読んだんだけど、ハワイでチャペルなんて素敵じゃないかしら」
目を輝かせて、どこから取り出したのか、電話帳より分厚い結婚情報誌を広げて見せてくる。人間の女の間で大人気の雑誌だ。広げられたページには、でかでかと『結婚式プラン100選』の文字が躍っている。
「赤道に近いハワイだと、雪女の君は暑すぎて溶けてしまうんじゃないか? さすがの俺も水と結婚はできないぞ」
「確かにそうね。じゃあ冷房をガンガン入れてもらうわ。それで、バージンロードをお父様と歩いて、その後お父様の前で二人は、燃えるように熱い誓いのキスを……」
「燃えるように熱いキスね……それもまた危険な響きだな」
「とにかく、もうプランは色々考えているの。後は、あなたが素直になるだけだわ」
まくし立てる彼女を見て、俺はしばらく考え込む。
「結婚か……難しい相談だな」
「なんでよ。ぜんぜん難しくないじゃない」
彼女は不満げたが、俺は首を振る。
「俺は何かに縛られるのが一番嫌いでね。誰の指図も受ける気はない。たとえ結婚するとしても、全ては俺の意思によって俺の時間の下で実行されるのだ」
「じゃあ、いつなら良いのよ。はっきり教えてよ」
「ふむ、明日かもしれないし、百年後かもしれない。時が来たら教えよう」
「ふーん。そう、そうなの。分かったわ。……いいのかなぁー。私と結婚したら、私のこと全部あなたの好きに出来るのになぁー。え、えっちとかも出来るのになぁー」
どうやら作戦を変えたようだ。文字通り大和撫子たる彼女には、古風なこだわりが有り、そこを利用して俺を攻め落とす魂胆らしい。同棲していても、確かに彼女は信条を貫いていた。
「魅力的な提案だが、指図されるとますます乗り気では無くなるな。言うなれば、童子が母親に勉強するよう言われて、意固地になって反発する現象に近い」
食後のコーヒーの苦みを味わいながら俺は拒否する。
「もういいっ。もう絶対、一生ずっと口きいてあげないもん!」
彼女は口を尖らせてそっぽを向いてしまった。実は以前から度々、それとなくプロポーズを迫られていた。だが今のところ、意地悪では無く、本当にそんな気力が湧いてこないのだ。いつかはするつもり……では彼女にとって嫌なのだろう。
「分かった。真剣に考えるから許してくれ。このままだと、通算あと十四回ほど死んで生き返らないと、君と口がきけないじゃないか」
「ふんっ!」
「まいったな……君の可愛い声が聴けないなんて、悲しくて胸が張り裂けそうだ」
「……ふんっ!」
「そうだ、今日はどこへ行きたい? ショッピングセンターなんかはどう思う?」
ふんふん言いながら、俺と目を合わせまいと必死に首を振る、かわいい彼女を追いかけまわしながら機嫌取る。そうしていると、今日は意外にも早く『口をきいてくれない一生』が終わった。
「……それがね、……そうね、わたし実は行きたいところがあるの」
「どこに行きたいんだ?」
「うーん、ちょっと遠いんだけど、出雲公園」
「ああ、確か割と広い公園だったな。よし、行こう。今日は風が弱そうだし、ラケットとシャトルなんかも持っていこうか?」
「え、ああ、うん。いいわね。……もう最終手段しかないもん。仕方ないわ」
「?」
なにやらブツブツ独り言を漏らす彼女。心無しか上の空だが、彼女の機嫌が多少戻っただけ儲けものだ。そんなことを考えながら、程よく冷えたリンゴの欠片を、俺は口に放り込んだ。




