第伍話:天使が袴を着て、碁盤からジャンプする! その二
時代考証は……
六十畳ある広間に親戚縁者、神代家と付き合いのある商家の主などが四十人弱集まっていた。
これらは皆神代家の三男 天使丸の袴着の祝いのために駆けつけたわけなのだが、この場にいる武家の半分は無役の寄合や小普請の者である。
年の頃は二十代から五十代で中には女性の姿もあり、どうにかして自分の息子の養子先や娘の嫁ぎ先を探そうと躍起になっている者の姿も見られる。
そんな彼らがこうして集まったのも実際のところは大部分が無聊をかこっているからで、しかも大身の旗本の屋敷で飲み食いできるとあっては何を差し置いても参集するというわけだ。
天使丸の袴着の祝いはすぐに終わった。
大勢の人の前で着替えをさせられて碁盤の上から畳に飛び降りるだけなのだが、五歳の子供から見ればなかなかの高さに感じられるものだ。
彼は躊躇する姿を見せたが見た目は子供でも中身は大人であるので、場を盛り上げるつもりであったのかもしれない。
厳かな儀式が終わればあとは楽しみにしていた飲み食いが始まる。
当主の忠時が挨拶が終えると屋敷に仕える二十人ほどの女中が現れ、居並ぶ客のために膳部を調えていく。
家禄が低い者の中には、日頃食べることが出来ないご馳走にいそいそと箸を口へと運び、座の端の方では誰にもバレないように懐紙に包んで家族のために持ち帰ろうとする者までいる。
神代家の料理は食べる者を強く感嘆させた。
それらは宴席のための食事とは言え、ところどころに創意工夫が施されている。
定番の鯛の塩焼きや、客の誰もが初めて食べる揚げ出し豆腐、旬の蕪が綺麗に切られたあっさりとした煮物、人参と牛蒡を甘めに和えた金平、祝い事なので赤飯を出すべきところだがきのこがたっぷりと入れられた出汁の効いた炊き込みご飯。
酒は伊丹の剣菱に灘の生一本と呑兵衛にはたまらないもてなしである。
神代家と普段から親しくしている親戚は上座に近いところで一族と話しをしているが、冠婚葬祭などでしか顔を合わせない特に末端の親戚筋の者は各々顔見知りの下に集まっていた。
愉快そうに酒を酌み交わす男性陣は赤い顔をしながら和やかに自分たちの子供の話をするのだが、結局のところはこの五年で様々な改革を推し進める徳川吉宗についての話題に至るのが常だった。
「千代田の上様はあれやこれやと改革を行っておるが、それで我らの暮らしも楽になるのかのう?
おお、この豆腐料理のうまいこと!」
「それがしにはわかりませぬな、所詮はお目見えも叶わぬ御家人でございますれば。
く~~、これが灘の生一本でござるか!馥郁とした五臓六腑に染み渡るこの香りがなんとも言えませぬなあ!」
「なんでも紀州より連れて来られた者達が伊賀組から探索方の仕事を譲り受けたそうな。わしの知り合いに一人御広敷伊賀組の者がおるのだが、生活が汲々として酒も飲めんとこぼしておったぞい。
やや、このべったら漬けもまた見事!」
「それならばそれがしも耳にしました。どこぞに新しい組屋敷が建てられたとの事ですが、この江戸はどこもかしこも大工が仕事しておりますゆえ場所まではわかりませぬ。ですが噂によれば手練の忍の者だとか。
はわ~、これが名高き伊丹の剣菱か……、それがしがいつも飲んでいる酒って……」
男衆から少し離れた場所では女性陣が見慣れない菓子を前に動けずにいた。
「これは、……お煎餅でしょうか?」
「少し小ぶりなお煎餅でございますな」
「それとこの甘い香りのする味噌のようなものは……、なんでございましょうか?」
「恐らくですが、こちらはお蜜柑なのではございませぬか?」
「ああ!ほんに!この香りはお蜜柑でございますよ。ですが、こちらの薄い黄色のモノはなんの香りでございましょうか?」
話をしている女性たちの前には、普通の煎餅の半分くらいの大きさのものが5枚皿に並べられている。そして小鉢に盛られた見慣れたこし餡と、見たこともないドロンとした黄色と橙色の物体が置かれていてその傍らには小さな匙が添えられている。
「もし、そこなお女中殿」
悩んだ末に一人の武家の女性が近くにいた女中に声を掛けた。
「先ほど出されたこちらの菓子はどう食せば良いのですか?」
「あ、至りませんで申し訳ありませぬ。
そちらのお煎餅に見える菓子は南蛮菓子『ビつケット』というものでございまする」
「「ビつケット?」」
「左様でございます。それと小鉢に盛られているのは『水菓子味噌』でございます」
「「水菓子味噌?」」
「水菓子(果物)を小さく刻みまして、それをゆっくりと煮込みます。そこに水飴や砂糖を加えたものでございまする。
見た目があまり宜しくございませんので、水菓子から作られた味噌であるということにしているそうでございます。
ビつケットに載せていただきますと、甘味と酸味を楽しむことが出来ますのでお試しくださいませ」
そうは言われても初めて見たものに手を伸ばすのは容易なことではない。特に大人にとっては……
「ふぁ!母上、こ、ここ……」
母親に連れて来られたであろう年若い武家娘が一番最初に見慣れない菓子を口に運び、隣に座る母の肩を叩きながら声を上げた。
「ど、どうしました!?」
親としては人前で大きな声を出す端なさを窘めるべきなのであろうが、母親は娘が口にしたものに何かあるのかと驚いた。
「美、美、美味でございます!!ビつケットなるものの仄かな甘味とわたくしが載せた水菓子味噌の蜜柑の香りとが、口の中で溶け混ざり合い……美味でございます!」
そこからは皆が我先にと匙を奪い合い、口々にその味を褒めちぎった。
いつの時代も甘味は女性を虜にして止まないのだ。