第肆話:天使が袴を着て、碁盤からジャンプする! その一
冬至を迎えたこの日、神代家はお祝い事を行うために皆が忙しく立ちまわっていた。
神代家の三男の天使丸が数えで五歳になり、『袴着の祝い』を催すことになったのだ。
そのため親戚縁者が三十人ほど神代家の屋敷を訪れることになっている。
袴着の祝いとは、男子が初めて正装をして碁盤などの上に立ち東西南北に向かってお辞儀をし、碁盤から飛び降りたりする男としての勇気を示す儀式である。
現代とは違い子供が大人になるまで生きるということは簡単なことではない。そのため子供が成長するたびに様々な儀式が行われた。そのひとつが七五三であり、袴着の祝いもそのひとつだ。
子供のための儀式が幾つもあるとは言え、武家の三男のために大々的に行うことは稀である。
武家の子供の位置づけは長男を跡継ぎとして大事に育て、次男は長男が死んだ時のための予備として家に残しておき、三男は他家に養子に出すというのが常識として浸透している。
以上のことを踏まえれば三男坊のために祝い事を催したとしても親戚などを招待するのはおかしなことであるし、ともすれば家中の者が数人で行うというのが一般的でもある。
ならばなぜ神代家ではちゃんとしたお祝いをするのかと言えば、単に彼らが暇だからである。幕府より役を頂いていれば昇進の祝いや、そのゴタゴタを楽しむこともあるかも知れない。
だが先々代が普請奉行を勤めて以来、忠彰が家督を譲り受けてからは親子揃って二代続けて寄合席に甘んじている。
直哉に言えば父子で猟官運動を全く行わずにニート生活を楽しんでいるようなものだ。
そのようなわけで神代家にとって子供のためのお祝いや婚姻はなんとも言えない楽しみなイベントになっていて、それはこの家に仕える者にとっても同じことであった。
「天使丸様、本日は袴着の祝いの儀を迎えることとなりもうしたぞ」
神代家用人里田庄三郎は、屋敷の『奥』で本日袴着の祝いを迎えた子供にやさしく声を掛けた。
「昨日から母上にああせよ、こうせよと言われ続けて、耳にタコが出来そうだよ。
そんなことよりも、爺、約束を忘れてないだろうね?」
老用人に高い声で答えた子供は驚くことに書見台を前にして正座をしている。
「さすがは天使丸様、このような目出度き日でも勉学に勤しまれておるとは……爺は涙がこぼれてきそうですわい。
それにしても、はて、約束とはなんのことでしたかのう?」
「……袴着を迎えたれば犬を飼ってもよいと、そう言っておったであろう?」
五歳を迎えて端正な顔つきに磨きがかかってきた天使丸は、そらとぼけようとする庄三郎を睨みつけた。
「ほんの軽口ではござりませぬか……、そう睨みつけんでくだされ。
この庄三郎、年をとったといえどまだまだ現役でござれば、ちゃんと日本橋で犬猫を扱っている商人に申し付けてありまする」
「祖父様のようにボケねばいいのだが……。
ちゃんと秋田犬を注文しただろうね?」
天使丸は何を思ったのかここ一年ほど両親や兄弟、家臣から門番にいたるまで「犬を飼いたい」という思いを語って聞かせていた。
しかし、この時代の犬や猫などの動物に対する感情は少々複雑だ。
なんと言っても徳川綱吉による『生類憐れみの令』により保護されていたために、徳川家宣により廃止されたとはいえ、享保の世になっても腫れ物に触るような感情がわだかまっていたのだ。
「それがしは獣売りを訪うたことはござりませなんだが、さすがは商人ですな。こちらの身分を告げると奥に通され、なかなかに旨い茶を供されましたし、向島にある山本屋の桜餅まで出て来た時には驚きましたぞ。
どれだけ汚らしい店なのかと思うておったのですが、日本橋に店を構えるだけあって立派なものでございました。
共をした山崎など三つも桜餅を食いましてな、あやつもまだまだ若造でござるよ」
「……それで秋田犬は購ってきたの?」
「生まれてから四月程の子犬がちょうどおるとのことで、この目で見て参りましたぞ。
いや~、子犬とはなんともかわゆいものなのですな~。
天使丸様が赤子の頃もこの世のものとは思えぬほどに愛くるしい、と感じたものですがちいちゃな足で転げまわる子犬もなんとも言えませぬ」
「それじゃあ、もう屋敷にいるのかい?」
この場にいるのではないかと天使丸はきょろきょろと辺りを見回した。
「いえ、明日になったら店の者が連れてくることになっております。
今日のところは滞りなきよう袴着の祝いを行ってもらわねばなりませんぞ」
「なんだ明日か……」
天使丸は大きくため息をついたが、明日やってくるという秋田犬の名前を考え始めたので、庄三郎はぶつぶつと物思いに耽る彼をお祝いのために参集したお客が待つ『表』の大広間へ連れて行った。




