太陽の下
………ブウウ――――――ンンン―――――――ンンン……。
……ブウウ――――――ンンン―――――――ンンン…………。
屋敷のどこかで振り子時計が鳴り、今が深夜の三時であることを告げた。
屋敷の二階の客室にある、東洋人にはいささか大きすぎるベットの上で、私は肢体を力無く垂れ伸ばす。
あそこでフロレスク氏の言った妙な依頼について勘ぐるには、今の私のぼんやりした頭ではどうやら処理能力が足りていないようだった。
…ブウウ――――――ンンン―――――――ンンン……。
「太陽が主体の、写真を幾つか撮ってきて貰いたいのだ。それも子供が遊びに夢中になっているときに、ふと空を見上げるとそこに在る様な、サンサンと煌めく太陽を撮って欲しいのだよ。」
「太陽を…ですか?」
私は肩透かしを喰らった心持がして思わず繰り返す。
フロレスク氏はフワリとした羽毛のような顔つきのまま小さく頷いた。
「うーん、…しかし、太陽をカメラで撮るには色々と準備が要ります。直接太陽にレンズを向けても、何時も私たちが見ているような太陽が撮られないどころか、カメラが壊れる危険もあるんです。だから特殊なフィルターを取り寄せないと…」
「心配無用だ、必要な機材はこちらで全て用意してある。その他で君が必要な物や、撮影の準備は使用人のノージ二チィに工面させるから、何でも申しつけてくれて構わない。彼女は何に於いても有能だからね…。」
「私を案内してくれた、あの少女ですか?」
「ああ、その通り。彼女がここに来てもう十余年になるか…、昔からとても優秀だったよ。」
…十年余り? 私が見た所、彼女は今現在でも15,6歳くらいだった思うが。
彼女は実はこの資産家の養子にでもなってここに来たのだろうか?
いやいや、それならまさか彼女を使用人になどしないだろう。
では一体…?
そのとき、私はフロレスク氏が私の目をジッと見ているのに気付いて慌てて仕事の話に戻った。
「し、失礼しました。え~と、では太陽の他に何かご要望は有りますか?」
「1つ。撮る場所を指定させてもらう。」
「はあ、それはどこです?」
私は見当もつかないように訊く。
事実見当もつかないのだが。
「それはまだ言えない。明日ノージ二チィにその場所へ案内させるから、君はそれに従ってくれ。時間は幾らでも掛けてくれて構わない。ただ必ず夜までにはここに帰って来てもらおう。」
……………
………
…
この行き届いた行動管理は一体どういう訳だろうか。
フロレスク氏には何か裏があるように思える。
私の様な平凡な人間には見えないくらい巨大な、…もしくは小さな。
しかし…
「もう夜明けか。」
私は余計な詮索をしないよう心がけ、何となく行動するため、何となく、スプリングの効いたベットの上でギシギシ体を弾ませた。
遮光性のある厚いカーテンの隙間から早朝の白い光が部屋に伸びていた。
―チィーチチチィ…、チチチィ……
屋敷を包み込むように楽しげな鳥たちの囀りが聞こえ始めている。
この鳴き方だと大方コマドリか何かだろう。
今日の朝はなんだか、一睡もしていないのに自分がようやく生き返れたようなとても清々しい気分であった。
私はカーテンを払いのけて朝日の光を部屋に招き入れる。
こうして見れば夜は華麗に見えた客室も何とも陰気臭い装飾品で必死に飾り立てられているに過ぎない様に見えた。
4本の蝋燭が立つ銀の燭台、漆喰の壁には薄暗い舞踏会場の絵画、金のあしらわれた古い電話、木製のか細い一本足テーブル。そのテーブルの上にも小さな燭台が置いてある。
それと、何より気になったのはベットの正面にある暖炉だった。
最近この暖炉が使われた形跡はなく、乾いた薪と黒い火搔き棒が丁寧に並べ置かれている。
暖かさよりもむしろ寒気が忍び寄ってくるような暖炉だ。
この屋敷はどこか死人じみている。全てが闇の中にひっそりと身を置いているのだ。
―そう、言ってしまえば太陽の光が似合わない。
屋敷や家具それ自体は決して醜悪な物ではないのだが、それらを太陽の下に引き出すと皆どこか不調和であり不気味なのだ。
夜、蝋燭の炎に照らし出されていた時は蟲惑的な雰囲気を漂わせていたあの居間もきっとそうなのだろう。
そのとき、部屋のドアを軽くノックする者があった。
「―Mr.七篠。朝食のご用意が出来ました。仕度ができましたら内線でお呼びください。」
使用人の少女の声が一枚の木の板を経て私の耳に聞こえてきた。
昨夜、玄関の前で聞いた彼女の口調と何ら変わりは無かった。
だが…彼女の声が私へ届くまでに、一体どれほどのモノが間に入っているのか。
そう思うと私は聴覚にさえ疑いを抱かざるを得なくなるのだった。
空気、ドア、また空気、私の鼓膜、鼓膜の震えを感じ取る器官、そこから放たれる電気信号。
なにより、その声を受け取る者の『意思』が門番の様に待ち構えている。
余計な仲介者によって、伝えるべき、伝わるべき真意は霞みに隠される。
まるであの森の様だ。
あのノージ二チィとか云う少女は何故この屋敷に囚われているのだろうか。
一体何を考えここにいるのか。
きっと私には関われない問題なのだろうが興味はうずく。
「今行きますから、一寸そこで待っていてください。」
ドアの前から去ろうとする彼女の気配を呼びとめる。
すると、ノージ二チィは「はい」と短く返事をして其処に立ち止った様であった。
私は急いで身支度を整える。そこでふと、部屋に鏡が一つも無い事に気付いた。
「ノージ二チィさん、待たせてすいません。」
「いえ。では参りましょう。」
ノージ二チィはやはり短く答えると、やはり私の前を歩いて暗い廊下を先導していった。
「…私の様な人間はよく来るものなんですか?」
「答えは、NOです。旦那様はこれまで友人と認めた方以外、家に招かれた事はありません。」
ノージニチィはキッパリとそう言いきった。
言いきったまま彼女は気鬱そうに足を進める。
廊下に敷かれた赤い絨毯は踏んだ所で踏み心地が無かった。
「ところで、フロレスク氏はどうして太陽の写真を私に依頼したのでしょうかね?」
「―それは私めの知る所ではありませんので、お答えすることはできません…。」
「そ、そうですよね。失礼しました、見当違いのことを聞いてしまって。」
「―いえ。」
「……。」
私たち二人は一階の突き当たり扉の前で足を止めた。
ノージニチィが白い両腕で其処の二枚扉を開く。
灰色の光と共に空虚に思えるほど奥行きのある広い食堂が現れた。
食堂の中央には長い長いテーブルが大理石の床の上で確たる場所を占めている。
ステンドガラスの入った壮麗な天窓からは紫や赤、藍色に染められた太陽の光が差し込んできていた。
「すぐお食事をお運びいたします。」
私の座るために木の椅子を引いてからノージニチィは目礼して食堂から出ていく。
彼女が動くたびに紺のスカートのふわふわするのが妙に印象に残った。
―予想よりも遥かに早く、私の前に朝食が出そろった。
温かくあるべきものは温かそうで新鮮であるべきものは新鮮そうな、理想と言ってもよいくらいの朝食風景であった。
特に優しく湯気をたたせている野菜のスープなどは、人参やコーンが実に色鮮やかで美味しそうなのだ。
「これも君がつくったのかな?」
私が訊くとノージニチィはフォークを並べる手を止めて答えた。
「答えは、YESです。Mr.七篠のお口に会えばよろしいのですが。」
「ありがとう、とっても美味しそうだよ。どれどれ、それでは頂こうかな。」
私は手を合わせて「いただきます」と言おうとしたが、ちょっと考えてからこう言った。
「Meat and vegetables,Thanks you for the life.」
―私の親は非常に礼儀に厳しく、当時の私が『ただいま』を言わなかっただけで暗い物置に禁固刑二時間の罰を喰らわせた。
その時のトラウマか、何かの挨拶を欠かしてしまうと今度親に会ったときこっ酷く叱られそうな気がして、今でも自然に口から挨拶が出てしまう。
出てしまう、という言い方をすると悪い癖のように聞こえるが、まあ「癖」に善い悪いを付ける方が間違いなのだから別にいいだろう。
そう開き直ると私はベーコンと目玉焼きをフォークで串刺しにし頬張った。
「お口に合いましたでしょうか?」
ノージニチィはさほど心配そうな様子も無く私に尋ねる。
彼女は何か別のことを考えているような様子だった。
私はモシャモシャ口の中を整理してから、さも満足そうに言うことにした。
「美味しいよ、とても。ただちょっと私には薄味だな。胡椒はあるかな?」
「―ここに。」
ノージニチィは脇からサッと胡椒入れを取り出す。
まるで始めから私が胡椒を求めると分かっていたようだった。
「2,3振り足してくれ。」
「はい。」
他愛も無い返事をして、彼女はゴリゴリと胡椒の実を砕いた。
目玉焼きの白身に細かい黒い粒がパラパラ落ちる。
私は何だか機械と食事をしているような心持がしてきた。
「ところで、フロレスクさんはまだ起きてらっしゃらないんですか?」
「はい、旦那様は朝起きがお嫌いでして、いつも起きられるのは午後からになられます。」
「はあ、そうなんですか…。」
私は心のどこかで狐に化かされているような思いになりつつも、いやまさかと小麦色のパンをちぎり口に放り込んだ。
………
…
撮影場所に向かう送迎車の中。
「―もうすぐ到着です。」
「んん…? …ああ、分かりました。」
ノージニチィが私の隣から静かに声を掛けて来た。
どうやら私は車で移動中いつの間にか寝てしまっていたらしい。
一体どのくらいの間寝ていたのか。
時計は持ち合わせていなかった。
車の窓には全てスモークが貼ってあるため外の様子を窺い知ることも出来ない。
頭部座席にいる若い男の運転手はただ黙々とハンドルを捌いている。
座席シートからはみ出る様に覗く男の右肩は厚い筋肉が文字通り『幅を利かせている』ようで、着ているスーツが今にも張り裂けそうである。
如何にも用心棒らしい体型ではあった。
だがこの男が何処から迎えに来て、私を何処へ連れて行こうとしているのか知らなかった。
まったく秘密主義も大概にして欲しいものである。
不貞腐れながら、私は唯一心を許せる大学時代からの相棒を取り出した。
一見黒々としていて無骨ではあるが、根は初心者でも扱いやすい心優しい(?)私のカメラ。
思わず私はカメラの頭を優しく撫でた。
ノージニチィがチラッとこちらを見たので直ぐにやめた。
―そうしていると、車が停まる気配がした。
「―到着です。午後六時に約束の場所へお迎えに上がります。」
運転手の男が低い押し殺すような声で言う。
「ではMr.七篠、参りましょう。」
ノージニチィは車のドアを丁寧に開けた。
澄んだ冷たい空気と太陽光の斜線が車内に入ってきて、何とも心地いい。
運転手の男は開け放たれたドアから若干顔を背けた。
ノージニチィは外で黒い日傘を広げていた。
―まさか、まさかな……。
「Mr.七篠。」
ノージニチィに急かされ、私も車の外に出る。
そこは山林に囲まれた小さな集落であった。
ポツリ、ポツリと赤い三角屋根の家が点在し、牧畜のためか所どころには草原が広がっている。
だが何処にも羊や牛の姿は見えない分、閑散とした野原には寂しさが漂っていた。
赤茶けたあぜ道は曲がりくねり、その路端には白い花をあつらえた雑草が茂っている。
私が異国情緒溢れた風景に見とれている内に、私たちを連れて来た黒い車はUターンして去っていった。
カメラを持った東洋人と、その機材と、若い使用人がそこに取り残された。
「ここで…写真を撮ればいいんですね?」
私がおずおずとノージニチィに訊く。
ノージニチィはニコリともせず頷いて答える。
「はい、ここで撮って頂きたいのです。」
「それじゃあ、テストも兼ねて一枚。」
私は言うが早いか、ノージニチィに向けてシャッターを切った。
ノージニチィは庇うように両手を上げて、小さく声を漏らした。
「―Mr.七篠、撮るのは太陽ですッ。」
ノージニチィは少し怒ったような口調で言う。
―チィーチチチィ…、チチチィ……
鳥の囀りが、小高い山の辺りから聞こえた。
山の手前に見える木の小屋から男が出てきて、のんびりと白い壁の家の玄関に入っていった。
すれ違いざまに家の中から、幼い兄弟が犬を追いたて外に走り出して来る。
長閑で寂しい、山村の日常がそこにあった。
そのとき私は、太陽が煌めいたのを感じた。
………
…
カメラを置いたのは五時半を過ぎた当たりの事だった。
日が傾き、樹林に仄暗い朱を刺している。
ノージニチィは私が撮影をしている間、一切口を挟まなかった。
ただジッと私の影を見つめていたようだった。
「そろそろ行きましょうか?」
私がそう声を掛けると、ハッとしたように彼女は顔を上げた。
「―は、はい。それでは参りましょう。」
ノージニチィはクルリと向きを変え、静々と夕闇を歩いて行った。
彼女の影は、日傘の黒い円の中にすっぽりと覆われていた。
―本当に彼女は、存在していたのか…?
ふと、そう思った。
きっと私は、この先誰からもそう言われることになるだろう。
預言じみた妄想が私に囁く。
そんなことを考えながら、夕日に目を細め歩いていると…
「Mr.七篠、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか? 変なことかも知れませんが…。」
ノージニチィが自発的に喋った…!
しかも変なことを訊いてくるらしかった。
「え、ええどうぞ。私が分かる範囲ならなんでも答えるよ。」
「朝食の時、Mr.七篠が言った言葉。あれは一体どういう意図で言ったのでしょうか…?」
ノージニチィは急に立ち止って私に訊く。
私も自然立ち止る。
両足のまわりを、夜の冷たさを含んだ風が通り抜けた。
「意図と言うか…あれは日本で言う『挨拶』で、こっちで言うなら食前にする祈りみたいなものだよ。詳しくは知らないけれども、日本では全てのモノに神が宿っているから、どんな時でもそれらに感謝してから焼くなり煮るなり、食っちまうんだ。」
「感謝しているのに食べてしまうのですか? しかも神を。信じられません。」
「まあそうだろう。一神教の観念とは大分違うからねぇ、混乱するのも仕方ないよ。」
「……私は食事の度にいつも罪悪感を覚えておりました。いえ、罪悪感を忘れないように努めてきておりました。でも、Mr.七篠の言葉を聞いて何だかよく分からなくなってきているのです。何かの命を奪うことが罪であると知りながら、私たちは命を奪う事でしか生きていくことが出来ない。生きることは正しいことなのに、常にその間中罪をつくっては、償いに時間を費やしていく。これ程意味のない生がどうして正しいと言えるのでしょうか? 私は到底、私の為に犠牲になった者に感謝など出来ません…。私にしか見えない罪が必ずそこにあって、ジッと罰を待ちわびているのです…。これが永遠に続くなんて、私には到底耐えられません……。」
「…あなたが言ってることも分からなくはないですが、今から『永遠に』なんて言ってしまうのは早いでしょうよ。時と共に物体も意識も皆、等しく移ろいゆくモノです。消えゆくからこそ美しい、私の国ではそんなことも美徳に思えたりするんです。様は何事も気の持ちようだということだよ。」
「………そう、なのでしょう。」
ノージニチィは顔をちょっと背けて言った。
「申し訳ありませんでした。久しぶりに人と会ったせいでしょうか、お喋りが過ぎてしまいました。」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ。私も大抵暇ですから、好きな時に話しかけてください。」
私が言うと、ノージニチィは悲しそうな流し眼をやって、また歩き出した。
そうして彼女は私の前を行きながら、前髪をサッと撫でた。
―まだ幼いのに、随分と色々考えているんだな。
私は雰囲気の変わった帰りの道を楽しみながら、彼女の後姿を見ていた。
―屋敷に着いた頃にはもう真夜中だった。
運転手はあいも変わらず始終無口で無愛想だった。
ノージニチィもあれきり口を利かない。
車中では私だけが息づいているようだった。
車は音も無く屋敷の前に停車し、ついに私は寒々とした孤独の中に解放された。
私は気兼ねなく伸びを出来る歓びを感じながら大きなあくびを「ホウ」と吐いた。
丁度その瞬間だった。
何となく泳がせた視線が屋敷の二階から顔を覗かせていたフロレスク氏の青眼とぶつかり、私は驚きと訳の分からない恐怖で欠伸をギリリと噛み殺した。
窓の奥に居るフロレスク氏は私から視線を外さなかった。
私も同様に視線を外さなかった。
というよりは、外せなかったと言うのが正しい。
こういうのを『蛇に睨まれた蛙』と言うのだろうか、私はこんな場合何をすべきなのかも全く分からなくなってしまったのだ。
「Mr.七篠、参りましょう。」
右手からノージニチィが現れ、棒立ちになっている私に声をかけた。
「 …あ、ああ。」
同時に筋肉の緊張がフッと消えて失せ体が自由になる。
私は呪縛からようやく逃れ得た者のように、喉から掠れた返事を絞り出した。
だが今度はノージニチィが石像のように立ち止って、碧い瞳は一点を見つめたまま静止していた。
ノージニチィはどうやら二階のフロレスク氏を見ている…、いや、睨んでいるようだった。
私も再び二階に目をやるが、その窓には白々しい月が反射しているだけであった。
「―わたしはね、Mr.七篠。自分が存在しているのか分からなくなったのだよ。」
夕食を終え、例の居間に来た私へフロレスク氏は不躾にこう言い放った。
「あ…、自分の存在が…? すいません、仰られている事の意味が私にはよく分かりません。あなたはちゃんとその椅子に座って『いる』じゃあないですか。」
「目に見えるものは存在している、と君は言いたいのかね。」
フロレスク氏は意地悪そうにクスクス笑った。
悪戯を仕掛けた好々爺にも見えなくもなかった。
「視覚に騙されるな。それは幻影かも知れんぞ、ホラこうしてしまえば…。」
そう言ってフロレスク氏は居間の燭台に立ててあった蝋燭の炎を吹き消した。
光の無い一切の闇が、不意に目の前に現れた。
それまで見えていた豪華な家具や赤ワインは黒のカーテンに隠され、やがて意識の奥へ消えていった。
フロレスク氏も、この依頼も……。
どうしたことか、全体がフロレスク氏と共に消えたのか、それとも私だけが世界から消えているのか…
そんな所で、漆黒の中に蝋燭の煙が漂ってきた。どうやら私は在るらしい。
―ようやくそんな事を理解した私だったが、依然空虚な沈黙が続く…。
と、突然フロレスク氏の声が背後から聴こえた。
その声は私の耳の直ぐ後ろからだった。
「―そう、あんな仮初めの光でしかわたしは存在出来ないのだ。乳飲み子の息一つで消えてしまう様な光に、わたしの全存在は預けられているのだ。この虚しさが解るか…!? 『生きるか、死ぬか、そこが問題なのだ』 シェイクスピアのこの問いはわたしの為のものだったと、最近は思うようになってきた。妄想さ。 …ああ、君にはきっと分からんだろうし、分かってもらう気も無い。 ―それでは失礼するよ。明日も、よろしく任せた。」
―フロレスク氏が外に出ていく気配は無かった。
まだここに居るかもしれないし、居ないかもしれなかった。
ただ私は闇の中で動けずにいた。
フロレスク氏の狂気に触れて体の芯まで冷え切ってしまったからだろう。
暫く椅子の上で固まったままでいると、フッと橙色の光が居間に満ちる。
ノージニチィが消されていた蝋燭に再び火を灯したからであった。
フロレスク氏の姿は無い。
私はこれ見よがしに大きくため息をついた。
しかし彼女はマッチの火を消しながら、私に一言だけ言ったのだった。
「今日はもうお休みください。明日の出発時刻は午前八時です。」
私は力なく頷いた…のだと思う。