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扉の向こう

 

 屋敷の重厚な扉は不穏な荘厳さを醸し出していた。

そう、「棺桶」という言葉が、ぴったりとこの扉のイメージに一致する。

そんなことを思うと心が不安でざわつき、私は改めて辺りを見回すのだった。

この古い屋敷を取り囲む暗い針葉樹の木々は、月の妖艶な光を帯びた霞みに包まれている。

夜に溶け込むことで森は一際その神秘性を増しているようだった。

木々の集まりは森でないが、枯れ行く森はその木々が最後の一本になったとしても森で在り続ける。

私は何処かで聞いたことのあるパラドックス理論にこの森を当てはめ、神秘性によってこれを解決出来るのではないかと独り考え納得してみた。

だがその神秘性のせいか、ここに居ると自分が童話の中に閉じ込められているかの如き錯覚に陥る。

まるで『不思議の国のアリス』と『ヘンゼルとグレーテル』の作中に出てくる不気味で奇妙な森の特性を合わせ持ったような森であった。

―幸か不幸か、この森の前に停めてある童話には余りにも不似合いな白いトヨタの車の機能的な味気の無さが、私を現実に引き戻した。

あの車は私が東欧の辺境に来るためだけに空港でレンタルして来たものである。

残念ながらエアコンは壊れており、始終そこから淀んだ空気を洩らしているのだけの代物だった。

―ふと、私はあの車内に日本で買ってきた煙草を置き忘れたのを思い出した。

だが…あの暗く無気味な森へ再び近づくのは、少々気が引ける。

と言っても、私がこの暗く無気味な屋敷の近くに居たいとも毛ほど思ってはいないのだ。

待っても人が出てこないのなら、私は喜んで日本に帰ってやる腹積もりだった。

だが『積り』を見出した時点で私は嫌な予感がしていた。

持った希望はどれほど淡くても、帰ってくる失望は確たる重量を伴うものだ。

嫌という程味わった苦汁を私はデジャブのように繰り返す定めであったらしい。


―不意にと云うか、ようやくと云うか、とうとう屋敷の扉を内側から開く者が現れてしまった。

扉は堅い沈黙を破り、重々しいと云ってよいほど仰々しく、閉じていた口を薄っすら開けたのだった。

瞬間、その細い隙間から腐臭を孕んだ生温かい風が私の顔に吹き付ける…! 

―と思ったのだが、どうやらそれは私の思い込みから来る錯覚だったようだ。

長時間の運転と度重なる不安で、精神状態が何時もより不安定なのかも知れない。

目頭を指で擦り、薄眼を開け改めて目の前の現実を見直してみればどうだろうか。

「棺桶」の隙間より私が正しく認識できたモノというのは、可憐で美しい少女の顔だった。


「―ようこそ御出でくださいましたMr.権平 七篠。旦那様がお待ちです。」

 

 


 

 思えば妙な話ではあった。

依頼人の使用人の代理人と名乗る人物が、私宛ての手紙をよこして来たのは二か月も前の事だ。

なんと私の作品が、東欧のとある資産家の眼に止まったというのだった。

正直、歓びと疑いは拮抗していた。

大学卒業後に写真家を名乗って以来の四年間、不当評価を受け続けた……いや、この際見栄は捨てる。

―大した評価もされなかった私の作品にまで、わざわざ目を通すほどの暇人がこの世にいるだろうか。

嗚呼、どうせ『あなたは才能がある。評価されないのは今持っているカメラが悪いからだ』などと云って、高いカメラを買わせようとする新手の詐欺か何かだろう、と名残惜しみつつも荒んだ気持ちでこの手紙を破り捨てる腹積りであった。

だがそんな積りのところで、私は同封されていた一枚の小切手を見つけた。

中略 ―結果、私は銀行にて自分の口座預金を見、即座に以前の『積り』を考え改めた。

それほどの、振り込まれた代理人曰くの「前金」は私のこれまでの金銭感覚の常識を簡単に打ち破った。

…私の人生とは何だったのか。そう自虐的に思ったのも仕方が無かった。

まさに戦々恐々、私は未だ恐ろしくて口座から金を引き出せていない。

 そんなこともあって遂に今月の一昨日、私は迷うことなくヨーロッパへ飛んだ。

その資産家が直接私に会って、何かの写真を依頼したいというのだ。

費用は勿論その資産家が別に用意してくれていた。

金は消費財であるという認識を改めねばなるまい。

人生初となるビジネス旅行で私の期待はいよいよ膨れ上がっていた。

相手が資産家であったからではなく、いよいよ私を認めてくれる人間が現れたのが嬉しかったのだった。

道行く人や動物、景色に至るまでの全てが私を祝福してくれているような気がしていた。

大学時代に買った大きなカメラに接吻し、愛撫しながら狂ったように風景を取りまくる東洋人が一人。

道行く欧米人達は大いに東洋の神秘を感じたことだろう。

 

 膨れに膨れた私の期待がクルリと不安に裏返ったのは、深い森の小道を2時間ほど行った頃であった。

さらに云えば、他の車と最後にすれ違ったのはもう4時間も前の事だった。

先の見えない夜の闇を疾走する車の中で、私の眉間の皺はいよいよ深くなった。

そもそも依頼者はどうして謁見の時刻を深夜二時にしたのだろうか。

どうして代理人を使ってまで回りくどく連絡をよこして来たのか。

一番の謎は、ここに来た事を誰にも言わないでほしいということだった。

それまで嬉しさのあまり大して気にしていなかった事項が、急に前面に押し出てきた。

まさしく急転直下であった。

膨れすぎた期待が、水風船のように破裂して冷や水を浴びせにかかってきた。

緊張に弱い私の大腸は怯えて縮こまり、昼に食べた鶏肉のグリルをキュウキュウ言わしていた。

『資産家』という響きに潜む、怪しい先入観が私の頭を引っ掻き回す。

…だが落ちぶれていても私はプロだ。

前金も受け取った手前、ここまで来て背に腹は代えられない。

萎えかけた気持ちを奮い立たせ、浮れて買った高価な煙草に火を付ける。

思ったほどに旨くは無い。

私は焦燥に駆られた心持で煙を吐き出し、やたらとバックミラーを気にしながら指定の場所へと急いだ。

森はその表情を隠したまま、私を奥へ奥へと招いていった。






 

 「………。」


私の前を歩く金髪の少女は使用人らしかった。

すんなり玄関の扉を通してくれた使用人の少女はあれ以降、一切口を聞いていない。

あのときチラリと覗いた少女の顔を思い返す。

白人らしい造形の深い顔立ちには、あどけない丸みが残っていた。

絹糸のように美しい金髪は、前髪を幾らか残してあとは全て後ろに垂らしている。

だから彼女が歩くたびに、腰まである髪の其々がフワフワ揺れるのだった。

もしこの少女がメイド服を着ていなかったならば、彼女を富豪の令嬢と勘違いしたことだろう。

そのくらい、少女の後ろ姿には気品が満ち満ちていた。

きっとあと四,五年もしたら、街行く誰もが振り返るような大層な美女になるだろう。

ただ一つ気にかかるのは、彼女の存在に何となく悲壮感が漂っているようであることだった。

自慢ではあるが、これはきっと私にしか気付けない事だろう。

私の特技を上げるとすれば、人の持つ雰囲気を当てられることだった。

これは親にも誉められたことがあるので、誰に信用してもらっても構わないと自負している。


「こちらにお掛けしてお待ちください。旦那様が参られます。」


連れてこられたのは屋敷の居間であった。

ロシア訛の英語で少女はそう言うと、足音も立てずに暗い部屋の奥へと消えていった。

少女の姿が見えなくなると、屋敷の中は一瞬で人気のない廃屋のような雰囲気となる。

居心地の悪さを感じながらも、私は革張りの大きなソファーに浅く腰を下ろした。

大理石のテーブルの上には、湯気の立つ紅茶の入ったカップと美味しそうなクッキーが並べてある。

だがここまで完璧に並べてあると、逆に食べにくい。

自分の不完全さをあからさまに露呈させてしまいそうである。

これを私は慎ましさと云うべきなのか、平民の哀しき性と云うべきなのか悩む所だった。

壁には金縁に収められた、若い男の肖像画が掛っていた。

彼の聡明そうな顔立ちは大きな自信と理念を湛えている。

私が密かに彼の失望を願ったのは、暗い妬みのせいである。

そう思った時、これまでの人生に成功と云うべき出来事が皆無であった私を笑っているように見えた肖像画の青年は、いつの間にか私の性格の歪みを笑っている青年の絵に変わっていた。

私は忌々しく思い、手前の紅茶をすすった。

そんな事をしていると、部屋の入り口で壮齢の男が悠々と構えてこちらを見ているのに気付いた。

白い口髭を蓄えた、これこそ世に言う老紳士そのものである。

銀の髪をオールバックに整え、蒼い瞳は揺らぐ素振りも見せない。

私はソファーに尻を衝かれたかのように、慌てて立ち上がった。


「遠い所わざわざご足労感謝する。Mr.七篠。わたしがこの屋敷の主で、君の依頼人である、アルフレート・フロレスクだ。」


老紳士は滑らかな日本語でそう言うと柔らかく微笑を浮かべた。

部屋を照らすキャンドルの炎で彼の顔は半分、闇に隠れている。


「七篠 権平と申します、この度はどうも宜しくお願いします。所で、日本語が大変お上手ですが何時か日本へいらした事が?」


私は立ちあがって握手を求めると、フロレスク氏は白い手袋をはめた細い手を差し出した。

シッカリとした握手を交わす。私は指の震えを悟られまいと尚更力を込めた。

その手を離すと、彼は私に磨き上げられたワイングラスを渡した。

ルビー色の赤ワインがグラスの底にたゆんでいる。


「いかがですかな、八十年物のワインだ。大変良い出来だよ。」


「それでは…。」


私は会釈して、グラスに口をつけた。

フロレスク氏もそれを見ながらワインを口に含む。


「これは美味しいですね。私はあまり舌が肥えているとも言えませんが、これを飲んだらもういつも飲んでいるワインが飲めなくなってしまうかもしれませんよ。」


「それは悪い事をしてしまった。わたしはどうやら感覚がマヒしてしまっているせいなのか、近頃はもう全く味が分からないのだよ。I never drink   wine… 確かにその通りだ。」


老紳士は一瞬顔に影を落としてクククと喉を引き攣らせて笑った。


「だからワインにどんどん年季が入ってね。ここにいる間は君の好きなだけ飲んでくれ。」


「言いましたね? では遠慮なく、血がワインになるくらい飲むとしますよ。」


私は冗談交じりに言ってみたが、フロレスク氏はニコリともしなかったので内心ギクリとしていた。

対照的にフロレスク氏の様子は極めて平静だった。

まさに明鏡止水、彼の瞳は凍りついたように動かない。


「―そう言えば、先ほど君が訊いてきた質問の答えだが…、わたしは日本に一度訪れた事があるのだよ。そのとき日本の友人に言葉を習ったのだ。もう何年前になるか…。その時は世界中の親しい友人たちとの会合があったものでね、日本で過ごしたあの夜はとても楽しかったよ。」


「…へえ、そうでしたか。日本にも友人がおられるんですか。」


「三人ほど居たのだが、一人は十二年前に死に、残り二人の行方は分からない。今となっては彼らの身を案ずるだけだ。」


「あ…申し訳ありません、暗い話を引き出してしまって。」


私はフロレスク氏の心労を察してこの話題を打ち切った。

しかし彼はかぶりを振って、私を咎める様子は微塵も表わそうとしなかった。


「いやいや、わたしの方こそ申し訳ない。この歳になると、どうしても今の事より過去の事の方が大きく思えるのだよ。…それでは、そろそろわたしが君をここへ呼んだ理由をお聞かせするとしよう。」


私は固唾を飲んで彼の言葉に耳を傾けた。



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