↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/29

第29話 ページの跡と、半年後

 それから数週間、変化は、驚くほどゆっくりとしたものだった。


 慧は、通信制のパンフレットを、リビングのテーブルに置いたまま、一週間近く手に取ろうとしなかった。


「見なくていいなら、見なくていいよ」


 そう声をかけると、慧は少し戸惑ったような顔をした。急かされることに慣れていて、急かされないことに、まだ慣れていないようだった。


 ある夜、ふと気づくと、そのパンフレットのページが、少しだけ開かれていた。誰かが、こっそり目を通した跡があった。


「――何か、気になるページあった?」


「……別に」


 そう言いながらも、慧の耳が、少し赤くなっていた。


 進んだり、止まったり。ある日は前向きな言葉を口にして、次の日にはまた黙り込む。そんな繰り返し。私も、時々、不安になった。これで本当によかったのだろうかと、夜中に何度も自問した。

 以前のように、答えのない苛立ちだけが募ることはなくなっていた。分からないことは、分からないままでいい。そう思えるようになったことが、一番の変化だったのかもしれない。


 ある晩、慧が、部屋の隅に置かれたぬいぐるみを手に取っているのを見かけた。ずっと埃をかぶっていたはずの、あのライオンだ。


「――それ、久しぶりに見た気がする」


 声をかけると、慧は、少し照れくさそうな顔をした。


「なんか、急に気になって。……変な話なんだけどさ」


「うん」


「このライオン、なんだかすごく、大切なものだった気がするんだ。理由は、うまく言えないんだけど」


 私は、その言葉に、小さく頷いた。理由を、私も、はっきりとは言えなかった。それでも、確かに、あの温もりを、体のどこかが覚えている気がした。


「大切にしてあげて」


「うん」


 慧は、ぬいぐるみを、そっと棚の上に座らせた。以前とは違う、丁寧な手つきで。


 *


 半年ほど経った頃、慧は、通信制の高校に願書を出した。劇的な決断ではなかった。ある日の夕食の席で、「これにしてみようと思う」と、ぽつりと言っただけだった。


「そう。応援するよ」


 それだけしか、言えなかった。それで、十分だった。


 窓の外では、夕暮れの光が、静かに部屋を染めていた。


 その夜、私はまた、真夜中に目を覚ました。


 昔からの癖は、そう簡単には抜けない。廊下に出て、慧の部屋のドアを確かめる。

 半分だけ開いたドアの向こうから、小さな光が漏れていた。かすかに、キーボードを打つ音がする。


 そっと覗くと、慧が机に向かって、何か書き物をしているのが見えた。


「――母さん?」


 物音に気づいたのか、慧がこちらを振り返った。


「起こしちゃった?」


「ううん。……ただ、確かめたかっただけ」


「変なの」


 慧は、小さく笑った。以前は見られなかった、力の抜けた笑い方で。


「もう、消えたりしないよ」


「うん。知ってる」


 半分開いたドアを、そのままにして眠った。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!


実はこの話、書きながら何度も構成を見直しました。特に、記憶を失うという設定と、現実の親子の物語をどう繋げるか、悩みながら書き進めた作品です。

分かり合うことは、一度で終わるものではなく、うまくいかない日があってもいい――そんな気持ちを込めています。

不登校というテーマを扱っていますが、暗い話で終わらせたくなくて、最後まで「その先にも歩いていける」物語にしたいと思いました。


良ければ、感想を聞かせてもらえると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。