第29話 ページの跡と、半年後
それから数週間、変化は、驚くほどゆっくりとしたものだった。
慧は、通信制のパンフレットを、リビングのテーブルに置いたまま、一週間近く手に取ろうとしなかった。
「見なくていいなら、見なくていいよ」
そう声をかけると、慧は少し戸惑ったような顔をした。急かされることに慣れていて、急かされないことに、まだ慣れていないようだった。
ある夜、ふと気づくと、そのパンフレットのページが、少しだけ開かれていた。誰かが、こっそり目を通した跡があった。
「――何か、気になるページあった?」
「……別に」
そう言いながらも、慧の耳が、少し赤くなっていた。
進んだり、止まったり。ある日は前向きな言葉を口にして、次の日にはまた黙り込む。そんな繰り返し。私も、時々、不安になった。これで本当によかったのだろうかと、夜中に何度も自問した。
以前のように、答えのない苛立ちだけが募ることはなくなっていた。分からないことは、分からないままでいい。そう思えるようになったことが、一番の変化だったのかもしれない。
ある晩、慧が、部屋の隅に置かれたぬいぐるみを手に取っているのを見かけた。ずっと埃をかぶっていたはずの、あのライオンだ。
「――それ、久しぶりに見た気がする」
声をかけると、慧は、少し照れくさそうな顔をした。
「なんか、急に気になって。……変な話なんだけどさ」
「うん」
「このライオン、なんだかすごく、大切なものだった気がするんだ。理由は、うまく言えないんだけど」
私は、その言葉に、小さく頷いた。理由を、私も、はっきりとは言えなかった。それでも、確かに、あの温もりを、体のどこかが覚えている気がした。
「大切にしてあげて」
「うん」
慧は、ぬいぐるみを、そっと棚の上に座らせた。以前とは違う、丁寧な手つきで。
*
半年ほど経った頃、慧は、通信制の高校に願書を出した。劇的な決断ではなかった。ある日の夕食の席で、「これにしてみようと思う」と、ぽつりと言っただけだった。
「そう。応援するよ」
それだけしか、言えなかった。それで、十分だった。
窓の外では、夕暮れの光が、静かに部屋を染めていた。
その夜、私はまた、真夜中に目を覚ました。
昔からの癖は、そう簡単には抜けない。廊下に出て、慧の部屋のドアを確かめる。
半分だけ開いたドアの向こうから、小さな光が漏れていた。かすかに、キーボードを打つ音がする。
そっと覗くと、慧が机に向かって、何か書き物をしているのが見えた。
「――母さん?」
物音に気づいたのか、慧がこちらを振り返った。
「起こしちゃった?」
「ううん。……ただ、確かめたかっただけ」
「変なの」
慧は、小さく笑った。以前は見られなかった、力の抜けた笑い方で。
「もう、消えたりしないよ」
「うん。知ってる」
半分開いたドアを、そのままにして眠った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
実はこの話、書きながら何度も構成を見直しました。特に、記憶を失うという設定と、現実の親子の物語をどう繋げるか、悩みながら書き進めた作品です。
分かり合うことは、一度で終わるものではなく、うまくいかない日があってもいい――そんな気持ちを込めています。
不登校というテーマを扱っていますが、暗い話で終わらせたくなくて、最後まで「その先にも歩いていける」物語にしたいと思いました。
良ければ、感想を聞かせてもらえると嬉しいです。




