2-2 高嶺の花は猛獣に堕ちる
#怖い
#かっこいい
レグルスは、目の前の女へ無言で襲いかかった。理性より先に身体が動いていた。王としての威厳も、戦場で鍛えた冷静さも、何もかも吹き飛んでいた。ただ頭の中にあるのは一つだけだった。
――殺す。
その感情だけだった。
武器を取るという発想すら浮かばない。剣を抜くより先に、身体が前へ出ていた。レグルスはそのまま拳を振り抜く。重い。速い。その拳は、普通の騎士なら反応すらできない。レグルスは決して“美しいだけの王”ではなかった。若くして皇帝となり、なおかつ大陸有数の軍事国家をまとめ上げている男だ。前線へ出ることもある。魔獣討伐も経験している。その身体能力は、帝国上級兵士を軽々と上回っていた。
拳が空気を裂く。風圧だけで部屋のカーテンが吹き飛び、机の上の燭台が床へ転がる。だが、女は軽く首を傾けるだけで避けた。しかも、レグルスを見てすらいない。どこか別の方向を眺めながら、ついでのように避けている。
レグルスの眉間へ皺が寄る。さらに踏み込む。まるで猛獣だった。本来のレグルスは、もっと洗練された戦い方をする。無駄を削ぎ落とし、最短で急所を潰す実戦的な戦闘術を得意としていた。だが今は違う。ただ感情のまま殴り続けている。それでも強い。圧倒的な膂力と速度だけで、人を殺せるレベルに達していた。
拳が壁を掠めるたび石材が砕け、床へ亀裂が走る。だが、そのすべてを女は避ける。踊るように。あまりにも自然に。レグルスの攻撃が掠りもしない。
女は途中から欠伸までし始めた。
「あー……元気だねえ」
その態度が、さらにレグルスの怒りを煽る。
「ァ゛アアアアッ!!」
もはや言葉になっていなかった。王としてではない。一人の男として叫んでいた。
レグルスは床を蹴る。踏み込みだけで床石が砕ける。そして、全体重を乗せた拳を振り抜いた。
次の瞬間、女がその拳を片手で受け止めた。
ガシッ、と。まるで鉄塊を掴んだような音だった。
レグルスの目が見開かれる。
止まった。全力の拳が、微動だにしない。
女はそのままレグルスの拳を掴みながら、ニヤニヤと顔を覗き込む。
「かっこいい〜」
まるで恋愛話でもしているような軽い声だった。
その瞬間、女が手首を捻る。
ゴキッ。
嫌な音が響く。
レグルスの腕が、不自然な方向へ曲がった。
「ッ――!!」
激痛。骨が折れる感覚が、脳へ直接叩き込まれる。普通の人間なら、その場で膝をついている。
だがレグルスは止まらない。
折られた腕を無視し、逆側の拳を振り抜く。女の額へ、全力で叩き込んだ。
ドゴッ、と鈍い音が響く。
初めて、攻撃が入った。
女の顔が後ろへ逸れる。赤いインナーカラーの髪が揺れる。鼻から血が垂れた。
だが、倒れない。
女は数秒そのまま固まり、やがてゆっくり顔を戻す。その口元には、笑み。
「いいねー、最高」
ゾッとするほど嬉しそうだった。
次の瞬間、レグルスの四肢が、一斉に潰れた。
グシャッ。
本当にそんな音だった。
見えなかった。何をされたのか分からない。だが、一瞬で両腕と両脚が内側から圧縮されたように砕けた。
「ァ゛――ッッ!!」
レグルスが絶叫する。
肉が裂け、骨が砕ける音が自分の身体から聞こえる。身体が支えを失い、そのまま床へ崩れ落ちた。
呼吸が乱れる。視界が白く明滅する。痛みで吐きそうになる。
だが、それでも。
レグルスの視線だけは、女から外れなかった。
女はそんなレグルスを見下ろしながら、楽しそうに笑っている。
「いい反応〜」
そのまま女は、床へ倒れたレグルスの髪を掴んだ。
ぐい、と持ち上げる。
潰れた四肢が床を引きずる。激痛。レグルスの喉から掠れた声が漏れる。
それでも睨む。
女はそのまま、レグルスを自分の目線の高さまで持ち上げた。潰れた身体が宙吊りになる。血が床へ滴る。
レグルスは目を閉じている。呼吸は荒い。だが意識はある。
女は顔を近づける。
「聞こえてるだろう?」
その瞬間。
レグルスの目がカッと開いた。
獣だった。
理性の消えた目。
「ァアアアアアッ!!」
叫びながら、女へ噛みつこうとする。歯を剥き出しにし、喉笛を食い千切ろうと口を開く。
女はギリギリの距離でそれを避けた。
そして、心底楽しそうに笑う。
「まじ最高だわ君」
目が爛々と輝いていた。
「採用〜」
そう言った次の瞬間、女の目先から黒い影が溢れ出す。
まるで水へ墨を落としたようだった。
黒が広がる。ゆっくり。なのに一瞬で。
影は生き物みたいに蠢きながら、レグルスの身体へまとわりついていく。
レグルスは暴れる。噛みつこうとする。叫ぶ。だが止まらない。
影はレグルスの腕を、脚を、首を、顔を覆っていく。
冷たい。
底なしの水へ沈められるような感覚。
耳鳴り。
視界が暗く染まる。
レグルスはなおも女を睨みつけていた。
女は、そんなレグルスを至近距離で見つめていた。
まるで宝石でも眺めるような目だった。
「いいねえ、その顔」
レグルスの視界が暗くなっていく。身体の感覚が消えていく。意識が沈む。
最後まで、レグルスは女を睨んでいた。
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