第10章 Ep5:理不尽の化身——あるいは、return 0 の雨
## 1. 突撃
「——突撃だっ!」
ユリウスの号令が、虚無を裂いた。
六人が、同時に地を蹴った。いや、地などない。蹴るべき床のないこの裏側で、彼らは「踏み込む」という意志だけを足場にして、巨大な紙へ突っ込んでいった。
先頭はグレン。近衛騎士団長が、ありもしない剣を、確かに「在る」と決めて抜き放つ。第2章で、私の近代兵器とマリエルの物理無視の板挟みになり、ついに信じきれなかった、あの一振りを。今度こそ、誰の命令でもなく、自分の意志で。
「ぬぅんっ——!」
全身全霊の一撃が、仕様書の表面に叩き込まれた。
その剣閃を、私は美しいと思った。九周分、何度も見てきたはずの彼の剣が、初めて「彼自身のもの」に見えた。
紙が、応じた。
赤いペンが、ただ一行を走らせる。
> **`return 0;`**
グレンの斬撃が、消えた。
砕けたのでも、弾かれたのでもない。「最初から、無かったこと」にされた。ダメージという概念が、計算に入る前に、ゼロへ丸め込まれた。剣を振り抜いた姿勢のまま、騎士は虚空を斬っていた。何も、起きなかったかのように。
## 2. return 0 の雨
「効かない——だと」
グレンが愕然と呟く間に、サイラスの詠唱が完成していた。
「世界の理よ。お前を書いた指に、その理を撃ち返せ——!」
火球。雷。氷塊。重力。第3章で世界の理に最も近いと謳われた魔導長官が、その理のありったけを、理の出どころへ叩きつける。魔法とは、要するにこの世界のAPIだ。彼は今、世界そのものに、世界を壊す関数を投げつけている。
紙は、瞬きもしなかった。
> **`All damage to [Admin] = return 0;`**
たった一行。
以後、管理者への攻撃は、すべて同じ値を返すよう、再定義された。サイラスの全魔法が、宙でほどけ、無へ均された。彼が積み上げた理論も、詠唱も、世界の根本仕様の前では、コメントアウトされた一行に過ぎなかった。
「ならば——交渉だ」ルシウスが進み出る。宰相の舌が、世界最大の難物を相手に、なお回ろうとする。「貴様にも『目的』はあろう。バグの除去だ。ならば取引の余地が——」
> **`> input recognized as noise. discarded.`**
彼の言葉は、ノイズとして破棄された。聞く価値すら、与えられなかった。
「くそ、隙はどこだ……っ」
ギルバートが、スパイの目で紙面を舐め回す。継ぎ目。綻び。書き損じ。九周で培った、あらゆる穴を見つける目で。
だが、そこにあるのは、完璧に閉じた仕様だけだった。バグのない文書には、忍び込む隙間がない。皮肉なものだ——バグを狩る側の文書こそ、この世界で唯一、バグを持たない。
フレデリックが、捨て身で紙の根本へ滑り込み、なお届かず。
ユリウスの剣が、空を裂いて、空のまま終わる。
六人の全力が、ことごとく `return 0` の雨に呑まれた。
## 3. 脅威未満
そして——気づいて、ぞっとした。
紙は、彼らを「削除」しなかった。
私とマリエルを消そうとしたあのDELETEを、攻略対象たちには、ただの一度も向けなかった。赤いペンは、彼らを一瞥すらしない。
「……どういうこと」呟きが漏れた。
「脅威に、なってないんだ」マリエルが、見えないコンソールを睨んだまま、低く言った。「あいつの削除キュー(待ち行列)に、こいつらは入ってない。攻撃が全部ゼロになる相手を、わざわざ消す処理は無駄だからな。——『無視』してる。NPCの分際で何をしようと、結果に影響しない、ってツラだ」
残酷だ、と思った。
九周ぶんの因縁を背負って、生まれて初めて自分の意志で剣を抜いた六人が、その相手から、敵とすら認識されていない。怒りを向けられることすら、許されていない。
グレンが、剣を握る手を震わせた。ユリウスの横顔が歪んだ。
その屈辱が、痛いほど分かった。——だが。
「……いいえ」
私は、首を振った。気づいてしまったのだ。
「マリエル。あれは『無かったこと』にされたのは、攻撃だけよ。あの紙は、`return 0` で、結果を打ち消せる。でも——」
私は、剣を振り抜いた姿勢で立ち尽くす騎士たちを見た。
「あの六人が、誰の命令でもなく、自分の意志で踏み込んだ。その『事実』は、消せていない。仕様書のどこにも、彼らがそうする、なんて一行は書かれていなかった。書かれていないことが、起きた。——`return 0` でも、ゼロにできない値が、確かにそこにある」
ユリウスが、こちらを振り返った。
効かない剣を握ったまま、それでも、その目には、廃人だった頃の虚ろさは欠片もなかった。
「……ああ。そうだな」彼は、不敵に笑った。「効かなくて、結構。私は今、生まれて初めて、自分で決めた一手を打った。その記録は、もう永遠に残る。たとえ、この紙が、私を見逃していてもな」
その通りだった。
そして、その「見逃し」こそが——後になって、彼らを最後まで生かす、たった一つの綻びになるのだが、それはまだ、誰も知らない。
## 4. 弾かれる管理者権限
「だったら、あたしはあたしの仕事をする」
マリエルの十本の指が、見えないキーボードの上で唸りを上げた。攻略対象が前で時間を稼ぐ——その三十秒で、彼女は世界の根へ潜っていた。
「ここだ。全ルールの依存元。ここに新しい値をぶち込めば、お前の『仕様』ごと書き換えられる。聖女様の管理者権限を、舐めるなよ——」
彼女の指が、世界の一番深い行に、強引な代入をねじ込もうとした、その刹那。
> **`> Access Denied. Owner signature required.`**
> **`> Your privilege: [Admin]. Required: [Operator].`**
紙が、冷たく撥ねた。
「……っ、管理者じゃ、足りないってのか」マリエルが歯を剥いた。「この上に、まだ階層がある。『運営』。最初にこの世界を書いた、本物の権限保持者の署名がなきゃ、根っこには触れない——」
赤いペンが、ぐるりと向きを変えた。
今度こそ、その切先が、マリエルを捉える。世界を書き換えようとした不正アクセス者を、最優先の脅威と判定して。
> **`> Unauthorized write detected. Purging operator.`**
「マリエル!」
彼女のコンソールが、火花のようなノイズを噴いて砕けた。世界の根に手を伸ばした腕が、肘から先、紫色のグリッチに侵食される。彼女は舌打ちひとつで後ろへ跳んだが、その横顔から、いつもの享楽は完全に消えていた。
## 5. ならば、私の全部で
「……無理だ」
マリエルが、噛みしめるように言った。私が初めて聞く、彼女の弱音だった。
「コードからじゃ、根っこに届かない。権限が足りない。正面から殴っても `return 0`。あいつを消す手が——ない」
赤いペンが、ゆっくりと、こちらを向き直る。
攻略対象は脅威未満。コードからの侵入は撥ねた。ならば残る最優先の標的は——参照が壊れて削除しきれなかった、あの忌々しいエラーログ。
> **`> Re-targeting highest-priority bug: [Leticia].`**
ペン先が、私を指した。
私は、肩のオプションを回した。ドリルが、低く唸る。インベントリの底で、九周ぶんの全装備が、出番を待っている。100億ダメージのUR剣。波動砲。ボクセルTNT。——攻撃がゼロにされると、分かっていてもなお。
「マリエル。あなたは下がって。腕、それ以上やられたら洒落にならない」
「おい——」
「正面は、私が持つ」
私は、最悪のリリース直前と同じ背筋で、世界を書いた紙を睨み上げた。
「コードで根っこに届かないなら、表から、力ずくで黙らせるしかないでしょう。——`return 0` の雨が何よ。九周分、理不尽には慣れてるの」
四重奏が、黒い板の中で、青く灯った。
『心拍数、危険域です』とシャルル。『ですが——どうぞ、マスター。最後まで、お供します』
『角度、全部こっちで合わせる!』とジェム。
『証拠保全、継続中』とクラウス。
『ボス』とロキが、めずらしく短く。『派手にやれ』
私は、ありったけを、構えた。
ゼロにされると知りながら、それでも撃つ。
それが、消せないバグの——意地だった。




