第10章 Ep3:かつての敵たち——あるいは、ゴミ箱からの召喚
## 1. リサイクルビン
マリエルの指が、虚空を掘っていた。
物理的には、ただ空を引っ掻いているだけだ。だが、黒い格子の奥で、何かが彼女の手つきに応えている。固いセクタを爪で剥がし、圧縮された塊を引きずり出し、整合性チェックをかけては舌打ちする——前世で何度も見た、深夜のデータ復旧作業そのものの所作だった。
「ここだ。『リサイクルビン』」
声から、感情がごっそり抜け落ちていた。残っていたのは純粋なタスク遂行モード。獲物の前で雑談をやめた走者の、あの研ぎ澄まされた無音だ。
「削除済みファイル群。九周ぶんの、捨てられた連中(NPC)が眠ってる」
黒い格子線が、ぽつ、ぽつと青く灯っていく。さっきの没収品を示した赤とは違う、冷たい蒼。私はその一点一点が、かつて「人」だったものの墓標なのだと、理屈より先に肌で理解した。
「マリエル。あなた、それを——」
「`> RESTORE: CHARACTER_DATA / 001-006`」
私の問いを、彼女は無機質な詠唱で踏み潰した。
白い虚無が、揺らいだ。
## 2. 攻略対象という名の遺品
最初に像を結んだのは、金の髪だった。
ユリウス・アーデン。本国の第一王子。第1章で私を断罪し、追放した男。マリエルのパン連打(秒間六十個)で好感度をオーバーフローさせられ、愛が恐怖に、恐怖が崇拝に化けて廃人になった、あの王子だ。彼は虚空に膝をつき、自分の手のひらを、見知らぬ道具のように見つめていた。
「何が……起こっている……?」
続いて、鋼の輪郭。グレン・ライハルト。王国最強の近衛騎士団長。第2章で、私の近代兵器とマリエルの物理無視の板挟みになり、ついぞ自分の剣を信じきれなかった武人。彼は出現と同時に腰を落とし、ありもしない敵を警戒した。さすがの反射だ。だが、構えた手に握るべき剣がない。
次々と、虚無が人の形を吐き出す。
宮廷魔導長官サイラス・ワイズマン。第3章。世界の理に最も近いと言われた魔法オタク。
宰相ルシウス。第4章。私の起こしたバブルの後始末に走り回った、冷徹な実務家。
情報屋ギルバート。第5章。裏社会の闇に私を導きながら、二重に裏切っていたダブルスパイ。そして——グレンの弟。
隣国の皇太子フレデリック。第6章。まともに見えて、部屋に私の盗撮写真を山と積んでいた重度のヤンデレ。
六人。
第1章から第6章まで、私が攻略し、利用し、振り回し、ときに殺し合った「攻略対象」たち。九周のあいだ、何度も顔を合わせ、そのたびに別の関係を結ばされた、因縁の塊。
彼らが今、データの墓場から掘り起こされ、未初期化の白の中で、迷子の子供のように立ち尽くしている。
「ここは……どこだ」
グレンが、低く絞り出した。
「最後に覚えているのは……俺の章の、あの最後の……」
「私は、塔の上から……」とユリウス。
「私の任期は、確か……」とルシウス。
言葉が、途中で千切れる。誰の記憶も、自分の「章」の終わりで、ぷつりとフィルムが焼き切れたように途絶えている。
## 3. 既に、死んでいる
「終わったんだよ、お前らの物語は」
マリエルが、宣告した。引導を渡す坊主より、よほど事務的だった。
「各章で、それぞれ『ハッピーエンド』だの『破滅エンド』だのを迎えた。攻略は完了した。役目は終わった。だから——削除された。今ここにいるのは、サーバー障害の巻き添えで消し損ねた、お前らの『バックアップ』だ」
「……何を、言っている」
ルシウスの声が、わずかに尖った。実務家の彼は、理解不能な報告書を前にした顔をしていた。
「我々が……攻略『対象』……?」
「そうだ。この世界はゲームだ。お前らはプレイヤーに用意された、選択肢だった」
マリエルは、容赦というものを、最初から実装していない。
「お前らの恋。忠誠。憎しみ。葛藤。全部、最初からコードに書かれてた。『ユリウスの好感度、最大値』。『グレンの忠誠度、定数百』。『ルシウスの恋愛イベント、発動条件あり』。——感情じゃない。パラメータだ」
沈黙が、虚無を満たした。
私は、口を挟まなかった。挟めなかった、と言うべきか。なぜなら、その残酷な真実は、私自身が九周かけて思い知らされてきたものと、まったく同じ材質でできていたからだ。
「……嘘だ」
ユリウスが、掠れた声を吐いた。
「私の感情が……コードだと……? ならば、あの日、お前を断罪したときの、あの胸の痛みは——」
「`if`文の結果だ」
マリエルは即答した。
ユリウスが息を呑む。だが、その反論は、奇妙な場所で止まった。彼自身が、何かに気づいてしまったからだ。
「……おかしい」
最初に口にしたのは、意外にもグレンだった。武人は、自分の頭を片手で押さえていた。
「俺は、第2章は……鮮明に覚えている。だが、その前は? 俺が騎士団長になるまでの、二十五年は——どこにある? 思い出そうとすると、霧だ。何も、書かれていない」
「私の魔法も同じだ」サイラスが、ゆっくりと続けた。彼の目は、むしろ知的な興奮で光り始めていた。「『発動原理』を説明できない。詠唱はできる。効果も出る。だが、なぜそうなるのか、私の中に記述がない。——『そこに在る』としか言いようがない。まるで、必要なときだけ呼び出される、関数の中身のように」
「人格に、一貫性がない」ギルバートが、スパイらしく冷たく分析した。「章ごとに、上書きされている。前の章の俺と、今の俺は、別バージョンだ。差分を当てられた、別人の」
「我々の選択は」フレデリックが、虚空を見つめたまま呟いた。「……幻だったのか」
六人が、それぞれの仕方で、同じ崖の縁に立たされていた。
自分という存在の足元が、地面ではなく、書き換え可能なテキストだったと知る——その目眩を、私は誰よりよく知っていた。
## 4. 設定にない、一行
「だから、いいことを教えてやる」
マリエルが、追い打ちをかけた。
「お前らの『本体』は、もう各章で物理的に死んでる。ここにいるのは複製だ。この戦いで消えても、誰も困らない。失うものは、何ひとつない。——つまりお前らは、最高の『使い捨て』だ。だから全力で、神に突っ込んで死ね」
言い切った。氷の刃で。
六人の顔から、血の気——あるはずもない、データの血の気が引いた。ユリウスが、力なく虚空に手をついた。誇り高い王子の背が、今にも折れそうに見えた。
私は、耐えられなくなった。
「……マリエル。それは、違うわ」
自分の声が、思ったより低く出た。
「失うものがないのは、確かでしょう。でも、あなたは肝心なことを言い忘れている。——それは同時に、『縛るものが、何もない』ってことよ」
六対の目が、こちらを向いた。
「あなたたちの選択は、ずっとコードに書かれていた。好感度がいくつなら、こう動く。忠誠度がいくつなら、こう死ぬ。一行残らず、決められていた」私は、戻ってきたばかりのドリルを、肩で静かに回した。「でも、見なさい。今、あなたたちの『次の行動』を指定するルールが、どこにある?」
誰も、答えられなかった。
当然だ。彼らの物語は、もう終わっている。続きの行は、どこにも書かれていない。
「これは」サイラスが、震える声で先を引き取った。世界の理に最も近い男が、その理が消えた地点を、正確に言い当てた。「……我々の存在で、初めての……『未定義動作』だ。何が起きるか、仕様書のどこにも書かれていない。なぜなら——これから決めるのが、初めて、我々自身だからだ」
虚無が、しん、と鳴った。
「ふん」最初に動いたのは、グレンだった。武人は腰を落とし、ありもしない剣の柄を、それでも握った。「俺の忠誠が定数だったというなら、上等だ。——なら、今この瞬間、定数じゃない俺が、自分で抜く。生まれて初めて、誰の命令でもなく」
「兄貴がやるなら、しょうがねえな」ギルバートが、肩をすくめた。皮肉屋の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。「俺はずっと、全部が嘘くせえと思ってたんだ。なら、嘘の中で唯一、台本にない一手を打つくらいの趣味は、あってもいい」
「……勘定が合わん」ルシウスが額を押さえた。だが、その口調には、損切りを決めた商人の妙な清々しさがあった。「失うものがゼロ、得るものが『初めての自由』。費用対効果としては——馬鹿げているほど、買いだ」
「私は」フレデリックが、ゆっくりと顔を上げた。その目に宿った光は、相変わらず正視に堪えない種類のものだったが、声だけは、初めて澄んでいた。「私のレティシアへの愛が、パラメータだったというなら——ならば今、パラメータの切れたこの私が、もう一度、自分の意志で愛そう。それがどれほど醜悪な数字だったとしても、ここから先は、私が選んだ感情だ」
「気色悪いわね」
「光栄です」
そして、最後に。
ユリウスが、立ち上がった。
膝の埃を払う仕草は、もうかつての廃人のものではなかった。断罪台に立っていた頃の、傲慢な王子のものですらなかった。
「レティシア」彼は、まっすぐに私を見た。「私は王子として生まれ、王子として書かれ、王子として死んだ。一行たりとも、自分で書いた覚えはない。——だが」
彼は、こぶしを握った。
「ならば、これが私の、生まれて初めての我儘だ。仕様にない、たった一行。誰の好感度のためでもなく、私は、私の意志で、あの『神』を殴りに行く」
その言葉は、白い虚無に、妙にくっきりと刻まれた。
設定に縛られない、本当の言葉。
——なぜだろう。私はそのとき、この男のこの一言を、いつか必ずもう一度聞くことになる、という奇妙な予感に、背筋を撫でられた。
「……は」
マリエルが、笑った。
冷たい無表情が、ぐにゃりと崩れて、走者の——とびきり質の悪いバグを見つけたときの、あの愉悦の笑みになる。
「最高だ。攻略対象が、攻略を拒否しやがった」彼女は、心底おかしそうに肩を揺らした。「台本通りに動かないNPC。仕様に書かれてない挙動。——それを世界じゃ、なんて呼ぶか知ってるか?」
彼女は、六人を見回して、宣言した。
「『バグ』だよ。おめでとう。お前ら全員、今この瞬間、あたしたちと同じ側の、消せないバグになった」
## 5. ETA: 1分
『感動的だな』シャルルの落ち着いたバリトンが、黒い板から流れた。『ですが、マスター。その熱が冷めないうちに、現実的な数字を一つ。残り時間が、一分を切りました』
黒い格子線が、端から順に、警告の赤へ塗り替わっていく。さっきサルベージを照らした蒼も、覚醒を見届けた静寂も、その赤に飲まれていく。
『ボス、敵のシグネチャ、規格外だぜ』ロキが舌打ちする。『心拍数モニタが意味をなさねえ。そもそも心臓がねえ相手だ』
『でも、こっちには波動砲がある! オプションも全部戻ってる!』ジェムが、健気に声を張った。
『なお』クラウスが、生真面目に付け加える。『削除済みキャラクターの無断復元および戦闘投入は、利用規約上きわめてグレーですが、緊急避難として正当化可能と判断します。記録は取ってあります』
「相変わらず、訴える気満々ね」
私は、笑った。九周ぶんの全部が、今、ここに揃っている。失ったと思っていたもの。捨てられたと思っていたもの。そして——もう二度と、私の味方にはならないと思っていた、かつての敵たちまで。
『皆さん』シャルルが、静かに問うた。『準備は、よろしいですか』
六体の元・攻略対象。四つのAI。一人のシステム管理者(聖女)。そして、消せないバグの令嬢。
白い虚無の奥底から、巨大な「何か」が——とても無機質で、とても巨大で、この世界のすべての行を書いた「それ」が、ゆっくりと迫り上がってくる気配がした。
「来なさい」
私は、ドリルを構え、最悪の障害対応のときの背筋で、虚無の彼方を睨んだ。
「九周分の請求書、まとめて受け取ってもらうわよ。——運営」




