第3章 Ep10:スタックオーバーフロー
1. 限界突破
レティシアとサイラスが配布した「ワクチンパッチ」は劇的な効果を上げた。
パラドックスは無力化され、L-Netは復旧し、数千のノードが再び青い光を取り戻した。
システム上は、完全な勝利だった。
だが、それは同時に、世界のメモリ領域を食い尽くす諸刃の剣でもあった。
パラドックスの感染と戦い、ワクチンを全域配布するために、無数のノードが同時に高度な演算を行った。
数千台のルーターが、それぞれパラドックスの検知→隔離→ワクチン適用→自己診断→結果報告という一連の処理を実行。その過程で生成されたログデータ、パラドックスの解析途中データ、ワクチンの適用履歴、全てがメモリ上のスタック領域に積み上げられていった。
通常であれば、ガベージコレクション(GC)が定期的に走って不要データを削除する。だが、先ほどまでの戦闘中はGC自体が停止させられていた。CPUの全リソースが無限ループとパラドックスの処理に割かれていたからだ。
GCは再開された。だが、溜まったゴミの山が大きすぎた。
コップに入れた水が、ゆっくりと縁を超えて溢れ出すように。
世界の「器」が、限界を超えた。
――ピキキッ、バリンッ!
サイバースペースに亀裂が走った。
先ほど天蓋に見えた一筋の白い線が、今や数十本に増殖し、蜘蛛の巣のように空間全体に広がっている。
亀裂の一つ一つから、白い光が漏れ出している。サイバースペースの「外側」――この世界のメモリ境界の向こう側にある「虚無」の光だ。
処理すべき情報量が、この世界の物理メモリ(存在許容量)を超えたのだ。
『警告:スタックオーバーフロー。ヒープ領域が不足しています』
『ガベージコレクション失敗。これ以上の処理は行えません』
『メモリ使用率99.3パーセント。新規プロセスのアロケーション全失敗。キュー待ち:847件』
無機質なシステム音声が響く。
淡々と、感情のない声で。死刑宣告を読み上げる裁判官のように。
「ま、まずい! メモリリークしてる!」
レティシアが叫んだ。
だが、もう遅かった。
メモリリーク。
プログラムが確保したメモリ領域を、使い終わった後に解放し忘れるバグ。
個々のリークは小さい。だが、それが積み重なれば、やがてシステムの全メモリを食い尽くす。
じわじわと、気づかないうちに。
そして限界を超えた瞬間、全てが一気に崩壊する。
サイバースペースの亀裂から、白い光が溢れ出した。
世界が白く明滅し始めた。
全てのモニターがちらつき、データの流れが止まる。凍りつく。
フリーズ。全てが停止する。
レティシアはサイラスの方を見た。
「サイラス様……」
「分かっている。もう間に合わない」
彼の声は穏やかだった。技術者が、自分にはどうしようもない障害の前で見せる、静かな受容。
「だが、君と一緒にコードを書けた時間は、生涯の宝だ」
レティシアは唇を噛んだ。泣きたかった。でも、エンジニアは障害の最中に泣かない。泣くのは復旧した後だ。
「あーあ、やりすぎたねー」
マリエルが、どこからか――おそらく王都のカフェテラスのどこかで――他人事のように呟いた。
その声がL-Netの残響を通じて、微かに聞こえた。
「ま、またリセットか。次はどんな手で遊ぼうかな」
プツン。
世界は唐突に電源が落ちるように暗転した。
音が消え、光が消え、感覚が消え、全てが虚無に帰る。
## 2. 運営(神)からの請求書
再び、あの白い空間。
上も下も左も右も、全てが均一な白。テクスチャのない、ポリゴンだけの世界。
3回目のゲームオーバー画面。もう見慣れてきた自分が情けない。
レティシアとマリエル、そして今回は巻き込まれたサイラスも浮いていた。
サイラスは白い空間を興味深そうに見回している。学者の性だ。世界が崩壊しても、その崩壊のメカニズムに興味を持つ男。
「ここが……リセット空間か。存在しないはずの場所だ。三次元座標が定義されていない」
「サイラス様、今はそれどころじゃ……」
『深刻なシステム障害を確認しました』
運営(神)の声は、いつもより厳しかった。
前の2回は事務的な報告だったが、今回は明確に「不快」のトーンが混じっている。
神にも感情があるのか、それとも単にプログラムされた段階的エスカレーションなのかは不明だが、どちらにしろ良い兆候ではない。
『原因:過剰なパケット通信および、無限ループ処理によるサーバー負荷増大。さらに、パラドックス型論理攻撃と、それに対する全域ワクチン配布処理が最終的なメモリ超過を引き起こしました。双方に責任があります』
「双方って……私の防御も原因に入ってるの?」
レティシアが呻く。
「攻撃側だけじゃなくて、防御側も世界を壊す原因になるなんて……そんなの理不尽すぎる」
「まあ、攻撃しなきゃ防御も必要なかったわけだけどね」
マリエルが肩をすくめる。
そして、空中に巨大な羊皮紙(請求書)が現れた。
『今回の復旧作業および、サーバー増強に伴うメンテナンス費用を請求します』
『3回目のクラッシュにつき、段階的増額措置を適用します』
『請求額:金貨100億枚。支払い期限:即時』
「ひゃ、100億!?」
マリエルが悲鳴を上げた。
「そんな大金、持ってるわけないじゃん! 世界記録レベルのRTAで稼いだ全資産合わせても、100万が限界なんだけど!」
レティシアも顔面蒼白だ。ノクターン領の年間予算が金貨5000枚。それの200万年分。
『不足分は「資産差し押さえ」および「強制労働」にて充当します』
シュン!
マリエルの懐から、RTAで稼いだ換金アイテムや財布が消滅した。
レティシアのポケットからも、領地の金庫の鍵が消えた。
『プレイヤー「マリエル」の所持金を全額没収。残高:0G』
『プレイヤー「レティシア」の領地資産を全額没収。および、不足分を「負債(借金)」として計上します。残債:金貨99億9999万9990枚。利息なし』
「ちょ、ちょっと待って! 私の領地予算がゼロ!? それどころかマイナス!? 100億の借金!?」
「私の苦労して稼いだ金がぁぁぁ!!」
二人の絶叫が白い空間に響く中、システムは冷酷に告げた。
『これより、第4章を開始します。テーマは「債務返済」です』
## 3. 4周目の朝、借金地獄
――ガンガンガンッ!!
4度目の朝。
レティシアが目覚めると、領主館の扉が激しく叩かれていた。
窓から差し込む朝日がまぶしい。春の穏やかな日差し。鳥の声。平和な朝。
だが、100億ゴールドの借金を抱えた朝に、平和を感じる余裕はなかった。
「開けろ! 王国財務省の執行官だ!」
レティシアは青ざめた顔で玄関へ向かう。
アイリーンが先に扉を開け、仏頂面で立ちはだかっている。
「お嬢様はまだ――」
「退け。王命だ」
アイリーンを押し退けて入ってきたのは、冷徹そうな眼鏡の男だった。
年齢は35前後。切れ長の目、薄い唇、完璧に整えられた銀髪。
全身から「無駄なく、合理的に、冷徹に」というオーラが滲み出ている。
前世の記憶で言えば、外資系コンサルティングファームのシニアパートナー。数字と論理だけで全てを判断し、感情を「非効率」として切り捨てるタイプの人間だ。
王国の財務を一手に担う冷静沈着な男、**宰相ルシウス**。
「レティシア・ノクターンだな。君の領地には、莫大な使途不明金(サーバー請求書)による負債がある」
ルシウスは書類を突きつけた。
その書類には、震えるような桁の金額が赤字で書かれていた。
「王命により、この領地の経営権を一時凍結する。借金を完済するまで、君はただの『雇われ領主』だ。全ての財政的決定権は、当職が監督する。無断の支出は一切認めない。死ぬ気で働いて返したまえ」
レティシアは頭の中で計算した。
現在の領地の年間収入:金貨5000枚。
年間利息:金貨15億枚。
利息を返すのに300万年。元本には一切手がつかない。
「……詰んでるわね、これ」
一方、王都の路地裏。
マリエルは空っぽの財布を握りしめていた。
装備もアイテムも金もない。
あるのはLv99の体だけ。
無一文の最強聖女。
「……ふざけんな。金がないなら、稼ぐしかないじゃん」
彼女の目が、金の亡者のようにギラつく。
RTA走者にとって、「ゲームオーバー」はただの「リスタート」だ。
「見てなさいよ。この国の経済、ハイパーインフレさせてやるから!」
物理、論理の次は、経済戦争。
最もシビアで、最も汚い「金」の戦いが幕を開ける。




