第36話 幻と現実の狭間
銀騎研究所、二度目の潜入は星弥によってお膳立てされていた。
それを知った時、蕾生は裏切られたようで少し哀しかった。
だが彼女の立場——自分達と祖父に挟まれたものでは、兄の皓矢に引き合わせるのは正しいようにも思える。いきなり銀騎詮充郎が出てきたら永の怒りはもっと酷かっただろう。
蕾生たちは皓矢の後に続いて倉庫を出た。自宅から遠ざかるように奥へと歩いているが、先頭の皓矢のすぐ後ろを行く永の肩は怒りに揺れている。鈴心も黙って歩き、その様子を星弥が時々気にしていた。
これから何が起こるのか。
蕾生は一同の最後尾で、まるでドラマの登場人物達を眺めるような感覚に陥った。
これが本当に現実なのか。先ほど殴った生物の感触を思い出す。
温かみはなかったが、重たさがあった。あれは確かに現実だ。だけど認めたくない。
「拝眉枢銀座」
そんな皓矢の発言で、蕾生は我に返る。
すでに道もなく、見た目には雑草の生い茂るだけの場所で、皓矢は歩みを止めていた。
続けて皓矢がふっと息を吐く。消え入りそうな声だったため、どんな言葉かもその意味も理解できなかった。だがすぐに目の前で異変が起こる。景色が蜃気楼のように揺らめいてぼやけ始めた。
蕾生は懸命に目を凝らす。なんとなく白く四角い建物があるように見えた。けれどそれはゆらゆらと朧げで、本当にそこにあるのかも判然としない。
皓矢が右手で何かを切るような仕草をすると、ぼやけた建物の中に扉だけがくっきりと現れた。研究所で見たような、白塗りで鉄製の一般的な扉だった。
「!」
その様子を永は硬い表情のまま、目だけを見開いていた。ごくり、と唾を呑んだことがその喉元に表れる。
「まさか、ここが──」
鈴心が驚きを隠さずに言うと、皓矢は振り返って冷たさを帯びた瞳で語る。
「ここは強固な結界が必要だから入るたびに解いているとコスパが悪くてね。入口を緩めるだけで勘弁して欲しい。それとこの場所のことは公言しないでくれ。お祖父様の研究の全てがあるからね。見た目通り敵が多いんだ」
冗談混じりに笑う様もどこか冷徹さを孕んでいて、蕾生がそれまでに抱いていた人となりの良さそうな科学者の銀騎皓矢像はもう感じられなかった。
皓矢の言葉を挑発ととった永は、一昔前の不良がするようなガン付けで乱暴に言う。
「するわけないだろ、なめんなよ」
「ありがとう。では、どうぞ」
その様子に少し笑った後、皓矢がドアノブを引く。施錠も認証機能もなく、すんなりと入口が開いた。
それよりも堅牢なセキュリティが外側にかかっているので、ドアに何もしていないのは自信の表れのように思えた。
永が先に中に入る。蕾生も急いで距離を詰めて後に続いた。
すると玄関ロビーには見たことのある女性が立っていた。
「あ」
小さな顔。大きな丸眼鏡。長い髪を後ろにまとめ、口元には真っ赤なルージュ。白衣には不釣り合いなほど、その赤は鮮烈だった。
「いらっしゃいませ、奥で博士がお待ちです」
その女性は恭しくお辞儀をして一同を迎える。蕾生は朧げな記憶を辿った。
「この人は……」
「説明会で司会してた人だよ。やっぱりね」
永は何かを納得して彼女にも警戒しているようだったが、蕾生にはよくわからなかった。
確かに初めて会った時も少し異様な雰囲気を感じたけれどそれだけ。今も、「少し変わった女性」くらいの認識しか出来ていない。
「奥、ですか?」
聞き返した皓矢に、その女性は無表情のまま淡々と答える。
「はい。博士の御命令でそのように、と。簡単ではありますがテーブルと椅子は運んでおきました」
「わかりました、ありがとう。では皆、こちらへ」
彼女を置き去りに、皓矢が廊下の奥へ促す。いくつもの部屋を通り過ぎながら長い廊下を歩いていると、次第に寒くなってきた。
「兄さん、冷房が効きすぎてない?」
星弥が少し身震いしながら言うと、皓矢はほんの少し柔らかい声音で答える。
「奥の部屋は本当は資料の保管庫なんだ。だから空調管理がしてあってね。あ、寒ければ僕の上着を──」
「い、いいよ! 恥ずかしいから!」
白衣を脱ぎかける皓矢を慌てて制して、星弥は手をぶんぶんと振った。その様子に皓矢は苦笑しつつ、突き当たりの扉の前で止まる。
「さあ、着いた。お祖父様、皓矢です。皆を連れてきました」
ノックとともにそう言うと、中からしわがれた低い声が聞こえてくる。
蕾生の記憶が、再びあの見学会の光景を呼び戻した。
「入りなさい」
その声は、あの時聞いたものと同じ。
不思議にもよく耳に通る嗄れた声。ガサガサと響く、魂を抜くような恐ろしさだった。
「失礼します。さあ、皆も」
重たい鉄の扉を開けて皓矢は四人を部屋に招き入れた。白い床、白い壁の広々とした空間が蕾生達の目の前に飛び込んでくる。その中央には簡素な緑色の絨毯が敷かれ、低いテーブルとソファで構成された応接セットが置かれていた。
確かあの女性は簡単な椅子とテーブルと言っていなかったか、と蕾生は違和感を持った。目の前にあるものは、どう考えても細身の女性が設置できる代物ではないからだ。
「ようこそ」
しかし、そんな蕾生の思考は厳かな声にかき消される。応接セットの更に奥、やや離れた場所に古めかしい木製の机、そこで椅子にゆったりと腰掛けている老人が存在感を放っていた。
「銀騎、詮充郎……」
蕾生が気圧されながら思わず呟くと、詮充郎は皺だらけの顔にもう一つ皺を作って微笑んだ。
「何年ぶりかね?」
「さあ、忘れました」
何も言えずにいる蕾生の代わりに永がしれっと答える。
すると詮充郎も永に視線を向け、含み笑いを浮かべた。
「……ふ、相変わらず非協力的な態度だ。ええと、今は周防と名乗っているのか」
「すいませんねえ、コロコロと名前が変わって。そっちも相変わらずクソジジイですねえ、いや年老いてさらにクソが増しましたか?」
永の虚勢にも見える憎まれ口を無視して、詮充郎は蕾生を舐め回すように眺めてまた微笑んだ。
「ふむ、相棒は今回も丈夫そうだな」
「ライを値踏みすんじゃねえ、殺すぞ」
蕾生も初めて見るようなガラの悪い顔と口で永が凄む。だが詮充郎はそれも余裕で聞き流して声を立てて笑った。
「はっはっは! そう熱くなるな。昔言ったろう? 氷のように冷静であれ、と」
ニヤリと口端を上げた様がその老獪さを物語っている。
「ああ、そうでしたかねえ。ま、とりあえずそちらの話を聞きましょう?」
詮充郎の、子どもに言い聞かせるような物言いを今度は軽くいなして、永はドカッと音を立ててソファに座った。
「では、そうしよう。皆もかけなさい」
永が大きな方のソファの中央に座ったので、蕾生と鈴心はその左右に腰を降ろす。星弥は一人がけの小さいソファに座った。
皓矢はそれを見届けた後、詮充郎の机まで行き、その傍らに立った。
「その前にお祖父様にお願いがあります」
その場に緊張感が走る。
息が詰まりそうになる蕾生の耳にまず聞こえたのは、凛とした星弥の声。
彼女は手を挙げて毅然な態度で、祖父に立ち向かっていた。




