185.天敵との出会い
──ザバァァン!
その音が聞こえた時には、既に遅かった。あまりにも突然で、そして速過ぎたのだ。
前触れもなく真下より吹き上がった水柱が視界を塞ぎ、殻を破るようにその中から人が現れるまでは刹那の出来事。加速された知覚の中で、遠方で雷が落ちた時のように、視覚と聴覚に時間差をつけて訪れる。
剣を止める時間はなかった。俺に出来た事と言えば、このままでは確実に斬ってしまうと、認識した事だけ。
だが、俺と海坊主に間に突如として割って入った人影は、元よりそれを予感していたように、剣の軌道に手を添え、どこから現れたかもしれない水の膜で刃を阻んだ。
手に伝わったのは、盾や鎧の類で受け止められた感触。女の手に広がった水の膜は、魔装の類だとでも言うのか。
事故にならなかった安堵よりも先に、俺は戦慄を覚えた。
一方で、海坊主との間に割り込んできた殆ど全裸な女は。
「う〜ん、キミィいい腕してるぅ! お姉さん、ちょっと感じちゃった」
頰を赤く染め、体をよじらせながらそんな事を宣った。
豊満な胸が、透明度の高い水の衣から零れ落ちんばかりに、弾む。ギリギリもギリギリで、白濁の水の螺旋が、女の秘部だけはしっかりと隠すが、光の当たり具合によっては全裸に見えてもおかしくはない格好だ。
「お、おい、大丈夫か?」
それは主に頭の心配だったが、防がれたように見えた今の攻撃は、実は頭に直撃していたのだろうかと不安になる。
彼女は、キョトンとした顔で抜き身の剣から手を離すと、橋の方に目を落とし、口元を緩めた。
そして、何を思ったかおもむろに俺の顔に手を伸ばし、グッと引き寄せ耳元で甘い囁きを──
「──SMは好き?」
失礼、甘い囁きではなかった。
ゾッと背筋を悪寒が走った俺は、女の手を振り払い、反射的に身を引いた。
と、その時。
「ライジングッ!」
雷鳴と共に稲妻が駆け上る。それは、女の足に直撃し、水の衣を伝って全身を駆け巡った。
「ぁぁあああああん!」
雷の直撃を受けて、悲鳴か喘ぎ声かよくわからない叫びをあげた女は、ビクンッビクンッと激しく体を痙攣させ、黒焦げた。
「レイにちょっかい出さないで。怒るよ?」
女神であることを明かしたからか、最近やりたい放題なシャルステナは、ムッとした顔をして滑らかに空中を飛んでやって来た。風の魔法か何かであろうか。是非ともその魔法は便利そうだから教えて欲しいものだが、彼女のお怒りを受けた女もまた普通に空中浮遊して、恍惚とした表情でクネクネと身をよじっていた。
「ぁぁん。ちょっとした冗談じゃない。でも、間に受けて嫉妬しちゃう所が可愛くて、ス・テ・キ」
女の細い指が言葉に合わせて、ハート型の水球を突く。すると、それは見る見る内に形を変え、『ス・テ・キ』と文字を型取り、泡のように弾けた。
何とも言えない空気が漂った。海の怪物でさえ、その女の出現には戸惑いを隠せないようで、目の前にいる俺たちに攻撃一つ繰り出しては来なかった。
やがて脱力したように息を吐いたシャルステナは、格好とどっこいどっこいの危ない発言を連発する女に、ほんの少し表情を和らげた。
「相変わらずみたいだね──海神」
「ちょっと待とうかぁッ!」
俺は、シャルステナの口から飛び出してきたまさかの名に、思わず制止をかけていた。
「こいつがあの海神⁉︎」
「うん、海を統べる神だよ。さっき海の中から表れたでしょう?」
いや、確かにそうだけど……
どう見ても海の水を自由自在に操ってるけれども……
俺は改めて、海神と呼ばれる女を見た。
ギルクが喜びそうなエロティックな格好に。
シャルステナに雷を撃たれてからずっと恍惚な表情を浮かべる女。
俺は確信した。
「何かの間違いだろ」
「間違いって何⁉︎ 間違いってっ! ワタシ、神よ? ちゃんと海神なのよ?」
「そこまで言うのなら、神の威厳とやらを見せてみろよ。俺が合ってきた神はみんな威厳があったぞ。それに比べてお前何だよ。ただの露出狂だろうが」
逆に、どの辺が神なのか俺に教えてほしい。ただの変態しか俺の目には映っていないのだが……
「ハァハァ、初めて合って1分も経ってないのにこの暴言……ぁぁん、悪くないぃ!」
暴言に喘ぐ神の名を語る変態。いや、ド変態。
やはり、俺の尊敬する竜神や、妖精神、それから愛する女神を冒涜する輩である事は間違えようがないよ─
─
「──しかし、我が威厳が見たいというのなら、見せようぞ」
──瞬間、一部人型のスライムが暴れ狂っている以外穏やかだった、いや、穏やか過ぎた海面が荒れ狂い、天候さえも曇天に変わった。
荒波が渦を巻き、高波が大陸橋に押し寄せる。突風に煽られ顔を叩く塩気を含んだ強い横雨と、雷鳴を携え急成長する積乱雲。太陽の光は分厚い雲に遮られ、周囲一帯に影が落ちた。
そして、渦を巻き吹き上がった水柱に飲まれたド変──いや、海神。激しい螺旋の流れが生み出す白濁がその姿を覆い隠し、そして弾け飛んだ時。
「我こそは、海の覇者、海神。我を差し置いて、我が物顔でこの広大な海に君臨する不届き者に、神罰を下してやろうぞ」
俺たちの前には、筋肉隆々の白い髭を生やしたおっさんがいた。厳つい面で、トライデントのような三又のほこを手にするその姿は、正に伝え聞く海神の姿そのもの。これで下半身が海の中にあれば、教会などの壁画に描かれている姿と、被って見えた事だろう。
しかし、残念ながら下半身は海に隠れておらず、大海に全てを曝け出していた。
「シャルに汚いもの見せるんじゃねぇ」
俺はすかさず股間目掛けて雷撃を撃ち込んだ。
「はぅぁぁぁあああっ!!!」
〜〜〜〜
「──我の神意に反する不届き者は去れ。ここは、我の収める海なり」
と、内股の厳ついおっさんが宣っている。
俺はどうにも信じられなかった。この水玉模様のパンツ一丁で海面に立つおっさんが、海神であるとは。
しかし、世の中は不条理な事ばかりで、俺の思い通りになどならない事ばかり。これもその一例なのだろう。
性別さえ定かではない高度な変態が手を翳し、いかにもなことを口にしただけで、ここら一帯の海がその支配下に置かれた。
何の冗談だろうか?
いや、世界の海を脅かすスライムも大概だが、そいつの体を構成する海水ごと、軽々と水辺線の彼方まで追い出してしまう程の力を持つ海神が、こんな変態なんて……何かの間違いであって欲しいのは全人類の願いに違いない。
「どう? ワタシの力は?」
「キモい。死ね。元に戻れ」
「やぁん、し・ん・ら・つぅ!」
皆は知っているだろうか?
厳つめのいい歳こいたおっさんが、内股で悶える姿を。
それはもはや恐怖だ。俺の中の何かが音を立てて崩れ去っていくような破壊の恐怖だ。
俺はその破壊行為に対抗するため、完全拒絶の姿勢を示した。
と、俺が激しい軽蔑の視線を向けていると、悦に浸った顔を浮かべながらも、吹き上がった水に隠れた海神は、元の危うい女性の姿へと戻った。
「ふぅ〜、やっぱり男の子にはこっちの方がうけるぅ、みたいなぁ?」
「テメェ、マジでしばき倒してろうか」
「ひゃぅ! 雷ダメェ〜!」
どうやら海を司る彼女の弱点は雷であるらしく、ちょっとした攻撃で体を痙攣させていたが、別の変態属性があるためか、効き目は薄い。
「ハァハァ、キミの事とっても気に入っちゃったぁ。女神がいなかったらワタシがキミの事もらってあげたのにぃ」
「お断りだ」
「もうぅ、こんな可愛いくてエロティシズムなワタシに口説かれて即答なんて、ハァハァ……けど、尚更イイわぁ。キミにワタシの加護あげちゃう」
ウインクしながら加護をくれると口にした海神に、俺は即座に首を振った。
「いらない」
「どうして⁉︎ 神の加護ってホント強力なんだよ⁉︎ それ欲しさに、沢山の人が試練を乗り越えて、ワタシたち神に頭を下げるぐらい、とってもありがたぁいものなんだよぉ? ねぇ、欲しいでしょ? 欲しくなっちゃったでしょ? お姉さんに正直に言ってごらん?」
「いや、ほんと勘弁して下さい」
「なんでよぉ〜〜!」
何故かって?
それは、俺が知っているからだ。加護の正体を。
神の加護とは、神の魂の一部であり、その力の根源とでも言うべき存在の欠片。
そんなものを体に入れてみろ。変態が移る。
「うわぁぁぁん! 女神ぃぃ! この子ワタシの加護いらないって! 長い神生でこんなの初めてだよぉ〜!」
「わっ!きゅ、急に抱き着かないで。貴方ってその……結局どっちなのか未だにわからないから、私も困るの」
性別不明の海神に抱きつかれたシャルステナは、困ったようにチラチラとこちらを気にする素振りを見せたが、ワンワン泣き噦る海神を見ていたたまれなくなったのか、優しくあやし始めた。そして、どうやってこの変態をシャルステナから引き離そうかと、雷の槍を構え準備していた俺に、やめてあげてと言わんばかりの視線と共に、口を開く。
「私は勿体無いと思うよ? こんなんだけど、海神は神核を二つ持ってる唯一無二の神だから、その加護って他の神より強力なの。だから、いい話だと私は思うんだけど……」
「……ちなみに聞こう。お前の神核って何?」
神核とは先も言った通り神の力そのものだ。
神になる条件。それは、神核を有しているか否かで決まる。
例えば、竜神は【絶壁の守護者】、妖精神は【生命の息吹】、精霊神は【事象改変】という神核を有しており、あらやるスキルの頂点に君臨する神にのみ許された力だ。いわば、超強力なユニークスキルとでも言おうか。しかし、それは並のユニークスキルの比ではない。
あらゆる攻撃を無に帰す竜神の絶壁。世界に溢れる命に恵みを与える妖精神の恩恵。ありとあらゆる事象を改変し、あたかも魔法の如く使用する精霊神の魔法チート。
そして、シャルステナの有する【女神の心臓】は、他者に己の命を分け与えるという治癒という概念を超越した代物。
そんな超常の力を、この変態が二つも持っている?
何の冗談だ。しかし、シャルステナが嘘を言っているようには見えない。
なら、本当か? しかし、信じたくない気持ちの方がまだ勝る。
そんな俺の心を知ってか知らずか、海神はシャルステナにあやされて、少し落ち着きを取り戻すと、涙声で己の力を明かした。
「グスッ……ワタシの神格は、【海の覇者】と、【性の超越者】。加護の効果は海中で動きやすくなったり、海の上でだけ調子が良くなったりする【海の覇者の加護】に、性的なストライクゾーンが増えたり、異性の気持ちがよくわかったりするカップルには嬉しい特典付き」
ここぞとばかりに詳しく自身の加護をアピールする海神は、加護の受け取りを拒んだのがそんなにショックだったのか、未だにメソメソしている。
俺はそれを見てため息を吐くと、妥協する事にした。
「じゃあ、その特典は無しの方向で加護をくれ」
「うわぁぁぁん! 女神ぃぃぃ! ワタシ海と性を司る神なのに! 実は、神の中では優秀とか言われてるのにぃぃ! ワタシの存在を半否定されたぁぁ!」
「誰もそこまで言ってない。まぁ、お前の存在を全否定したいのはやぶさかではないけど……」
「うわぁぁあん、神敵ィィ!」
偽らざる本心を聞いてさらに号泣した海神に、神敵はお前だと追撃を掛けた俺に対し、シャルステナは、困り顔を深めた。
「あ、あのね、レイ。私からもお願い出来ないかな? 実は、海神の加護って海辺に住む人たちには人気なんだけど、陸地に住む人にはあまり人気がなくて……」
「グハッ!」
赤裸々な神事情を暴露され、吐血する勢いの不人気な神。しかし、まだまだ彼女の裏事情の暴露は続く。
「それにほら、創世神様のお創りになった性の理を壊しかねない加護を大々的に人にあげるわけにはいかなくて……」
「ブホッ!」
「だから、神の中で一番人気のない海神は少しでも信者を増やしたくて、必死なの」
「ブッ……!」
海神は、余程深い所を突かれたのか、パタリと動きを止めた。
「そもそも性を司る神になったのも、信者を増やそうとしたからだって聞いて……」
「ごめん、ちょっと何言ってるかわからない」
何故そこに辿り着いてしまったのか。状況を悪化させた原因に思えてならない。
「だ、だだって! ワタシの人気がないのは、女神がいるからだと思ったんだもん! 精霊神と妖精神も女性だし、しかも、クール系と可愛い系。女神に至っては、転生を繰り返し、ロリから大人な美女までオールラウンダーで責めてるし、ワタシも他とは違うアプローチが必要だと……」
「ちょ、ちょっと待って⁉︎ 私はそんな事考えてないよ⁉︎ だって私は加護を人に与えたりしてないし……!」
いらぬ誤解を避けるためか、海神の言葉を必死になって否定するシャルステナ。だけど、そんな必死にならなくても、彼女が転生していた理由はもうわかっている。
年齢を誤魔化そうとしたんだよな?
けど、俺はそれを決して口にはしない。出来るだけで考えもしない。なんか、怖いから。
だから、俺は逸れかけた話を元に戻す事にした。
「それで、男の神になろうと? 随分特殊な脳みそ持ってるな、お前」
「舐めないで。ワタシはそんな誰でも思い付きそうな事は考えなかったわ。神よ? ワタシ、神なのよ? だから、神らしくワタシは考えたわ。女と男の神が既にいるのなら、それらを超越した存在になってしまえばいいと……っ!」
…………思った以上に類い稀なる暖かい頭の持ち主であったようだ。
しかし、馬鹿にしようにも、それで実際二つ目の神核を手に入れたのだから、こいつは本当に優秀なのかもしれない。頭がおかしい以外は。
「……ったく、仕方ないな。ほら、海の覇者の方だけは加護貰ってやるからとっとと寄越せ」
「えっ? 本当に? 加護貰った後で、使えないから他のに変更しろとか、名ばかりの神とか言わない?」
「言わないよ。どうせ貰う分には困らないんだから」
むしろその半分は加護のせいではなく、お前の性格が災いしているのだと思う。
「やったぁ〜! それでこそ、女神の男よ! たんとサービスして、特典も一杯付けてあげるわ!」
「おい、特典はやめろ。それをしたら、さっきの言葉を取り下げさせてもらう」
「わ……わかってるわかってる」
嘘つけ。目が泳いでるぞ。本当に油断ならない変態だ。
「それじゃあ、折角だからキミの仲間にもまとめてあげちゃう」
「何恩義せがましく言ってんだ。ただ自分があげたいだけだろ」
「そそそんな事ないしっ? べ、別に大量に信者獲得出来るチャンスとかお、思ってないし? さ、サービスよ、サービス」
「どうだか……」
俺は挙動不審な海神に深くため息を吐きながらも、加護を受け入れる態勢に入るが。
……やっぱ嫌だな。こいつの加護を受け取るの。
でも、これもシャルステナの頼みだ。何かの役には立つかもしれないし、今回だけは妥協しよう。今回だけ……
「んんっ! いいよ、いいよ! ほら、ほら、もっと一杯ワタシの加護取り込んじゃいなさいよ? ねぇ、ねぇ、まだまだ欲しいでしょ? ワ・タ・シ・の・加・護」
こっちは我慢して受け取っていたというのに、目の前でニヤケ顔をして、遠慮もなくドンドン加護を注いでくる海神。
とりあえずウザかった。一にも二にもウザかった。もちろん三四もうざい。
「調子に乗んじゃねぇ」
俺は、加護の受け取りを一方的に打ち切った。
「うぁぁぁ⁉︎ どうして拒むのよぉ! 相互承諾がないと加護を与える事は出来ないのにぃ!」
「知るか。もういいだろ。一応、加護は受け取ったんだから」
だいたい加減もなく加護を注ぎやがって。こいつは、俺を神の奴隷にでもする気か。加護の与え過ぎは危険だと、知らない筈もあるまい。
「うぁぁぁん! また加護も与えてない女神にまけるぅ! どうしてなのよぉ〜! こんなに頑張ってるのに、どうして神ランキングでワタシが最下位なのぉ!」
「なんだよ……神ランキングって」
「えっとね、神になると得られる称号の中に、毎年一回変わる人気ランキングが表示される称号があるの。それでその、海神は加護を与えてない私や死神よりランキングが下の事を気にしてて……」
「……思った以上に下らない理由だったな」
高尚な理由でも何でもなく、たかが称号の順位でこいつは神核を一つ増やす結果に至ったわけだ。
っていうか、神を順位付けするとか、いったい誰が称号を作ってるんだ? それとも単なるシステムなのか?
にしては、えらく個人特定が可能な称号が多いが……
まぁ、考えてもわからないか。それよりも折角もらってやったのだから、使わない手はない。俺は確認だけするつもりで、目を閉じた。
「まぁこれで俺も新しい加護が使え……ん? 何で俺の知らない加護が2つ……」
俺はハッとなってカッと目を開けた。
「テ、テメェ、やりやがったなぁっ!特典は要らないって言っただろうがッ! 今すぐ回収しろ!」
「なっ……! それは言わないって言ったのにッ!」
何がそれは言わないだ!
特典を付けたら回収させると言っただろうが!
「けど、残念でした! 一度加護を受け取ったら、死ぬまで二度と加護を取り除くことは出来ませぇん。ワタシの泣き落とし勝ちってワケよ!」
「はぁ⁉︎ ふ、ふざけんなよッ、このクソ神……ッ!!」
回収出来ない? なんだそれは。
一生、この変態の一部に入り込んだままだって言うのか?……冗談じゃない。
「……そうか、よくわかった」
騙される奴が悪い。このクソ神を信用した俺が馬鹿だったのだ。けど、そっちがそのつもりなら俺も徹底的にやらせて貰おう。
「あら? えらく素直ね。またバチバチされるのかと期待してたのに」
そんな変態願望を叶えるつもりなど毛頭ない。やるのならば……
「だって、加護は死ぬまで取り除けないんだろう? なら仕方ない。取り敢えずお前を殺して取り除けないか試してみよう」
「「なっ……⁉︎」」
2人の神様が同時に固まった。
「じょ、冗談だよね、レイ? 幾らレイでも、神を殺したりは……」
「そ、そうよね。だ、だから、そんな怖い顔……」
何をそんなに怯えているのだろうか。
神は死んでも大丈夫だという竜神の言葉に基づき、一度試してみようとしているだけだと言うのに。
「ははっ、ちょっと試してみるだけだから、安心して──死ね」
俺はあらん限りの魔素を還元した。
「に、逃げてぇぇ海神──ッ!」
「うへぇ⁉︎ そんな大げさなぁ。ワタシ神よ?神なのよ? 神でもない人間に…………ねぇ、女神。この子の魔力、ワタシより多い気がするんだけど……?」
一年以上、毎日毎日コツコツと溜め込んだ魔素が、体に収まりきらず、周囲に放出された。視界は魔力の色に染まり、空の一部を埋め尽くしても尚、満足する事なく拡大を続ける赤の太陽に、海神の顔に徐々に引きつっていく。
「えっ? ええっ⁉︎ なな、なんなのこれ⁉︎ ど、どうなっちゃってんの⁉︎」
「レ、レイ落ち着いて! そんな馬鹿みたいな魔力を急に出したら……」
「問題ない。許容範囲だ」
たしかに、以前ならばもう制御は効かなかっただろう。だが、一年以上垂れ流し状態の魔力と俺は付き合って来たのだ。今では無意識のうちに魔素に変換し、装備に蓄積出来るまでになった俺の魔力操作力は、まだ上限には達していない。
「さぁ、やらかした事への清算はしてもらうぞ、クソ神」
俺は、巨大な魔力球の中で笑った。
そこは魔臓のない俺にとっての、魔臓。言い換えるなら、俺のテリトリー。攻撃、拘束、防御、あらゆる面で俺に有利な状況下。
「ほ、本気なの⁉︎ もうダメ! 海神は逃げてッ! 」
「は、はい! 海神逃げます!」
シャルステナに促され、現れた時と同じように突如吹き上がった海水。だが、それは既に対策済みである。球体の表面だけを物質化し、外界との接触を絶ったそこに、海水が入り込む余地はない。
「あわわっ……に、逃げらないよぉ! 女神、どうしよう⁉︎ やばいよ、割とやばいよ!」
「うん──頑張って!」
「頑張ってどうにかなる系⁉︎ やってみるけど!」
思った以上に、この逃げ道を封殺する魔力球は効果を表しているようだ。
外からの助けはもちろん、この中では逃げる事など絶対に不可能。たとえどれだけ素早く動けようと、この魔力球の中にいる以上、それは全身を拘束具に埋め込まれているのと同じ事である。
「はうっ⁉︎ な、何⁉︎ 体が、何かに……!」
シャルステナのエールを受け、海神が余計なことをする前に、その体を頭を除いて魔力で固めた俺は、右腕を魔装で強化し、思いっきり振りかぶった。
「ちょ、ちょっと待って!それ、死んじゃう! 死んじゃうから!」
「そりゃ良かった」
「良くないよ⁉︎ ワタシ神よ? 神なのよ? 神が死ぬとか、世界にとっての損失よ!」
「お前以外はな」
もう俺は騙されない。腐っても神というのなら、思いっきりぶん殴ったところで死ぬわけがない。それなら、一度くらい本気でぶん殴らせてはもらわければ、俺の気が済まないというものだ。
「わかった、わかったわよ! 私が悪かったから! だから、一旦落ち着きましょう?」
「うるせぇ、潔くぶん殴られろ。こっちはテメェのせいで、一生消えない呪いを背終わされたんだ。これぐらいで勘弁してやる俺の優しさに感謝して、死ね」
「優しさのカケラもない死の宣告だよぉ!わぁぁぁッ! 女神もう無理! もう引き延ばせない! 聞く耳持たないよぉッ! 助けてぇぇ!」
「あっ、お前──!」
命乞いをしていたのは、それが狙いか!
しかし、それに気がついた時には遅かった。俺がこのクソ神をどうやってしばこうかと算段を整えている間に、膨大な魔力を隠れ蓑に密かに海神の逃げ道を確保していたシャルステナは、危機迫る呼び声に一気に魔力を解放した。
「うん、任せて! ──強制転移!」
海神の身動きを封じた拘束具ごと、景色がぐにゃりと歪む。短距離型の瞬間移動とは、似て非なるその魔法は、世界の空間に穴を開け、任意の場所へと繋がる最高難易度の空間魔法。
さすがにそこまでの魔法を発動されるとは思ってもみなかった俺は、慌てて腕をその歪みに向かって叩きつけた。
「あぁぁあッ!クソォ! 取り逃がした!」
だが、その拳は先の方が僅かに掠っただけで、十分に満足できる一撃にはならず、海神は世界のどこかへと消え失せた。
「よかった……何とか間に合った。私、つくづく思うよ。レイって怖いものなしだよね……」
「あんなの俺は絶対神って認めねぇからな! 覚えてろよ、クソ神ィィッ!」
俺は消えた海神に向けて、いつか絶対仕返しする事を深く心に誓いつつ、還元した魔力を再び魔素として装備に蓄積し直した。
そして、緋炎をしまい、深く息を吐いて心を落ち着けると、海坊主が姿を消したのを見て、街に人が戻ってくるのを遠目に確認して、頭を掻いた。
「……あのクソ神、本当に覚えてやがれ。やるだけやって放置して帰りやがって」
「追い返したレイが言うの? でも、騒ぎになったらギルクがまた怖がるだろうね」
「よし、とっととおさらばしよう」
面倒ごとは避けるに限る。特に、あのクソ神の後始末をさせられるような役目は、絶対嫌だ。断固拒否する。
俺は、ひとまず大陸橋に降りると、状況を見計らって集まってきた仲間達と共に、一騒ぎ起きる前に急ぎ大陸橋を渡りきった。
その一方で。
「あはっ♪ さっすがは女神の男ねぇ。あとちょっと遅かったら、本当に死んでたかも」
シャルステナの魔法によって、遠くの海に飛ばされた海神は、ぷかぷかと海を漂い、薄く切れた頰に手を這わした。
「すごくいい。今まで見た中でも、一番」
ピチャリと、海水が頰に触れ、傷は跡形もなく消えていく。
「その分、自分の力をしっかりと自覚出来てないみたいだけど……まぁ、しばらくは様子見かなぁ。あんまりちょっかいかけると、女神に怒られそうだし」
フワリと海水を纏い浮かび上がった海神は、弾むような声音で、言った。
「それより、次はどこの街で、信者を集めよっかな♪」




