176.父の背中
この話まで間に合わせたかったのですが、第1章の入れ替えは、今週は無理そうなので、次の週に先送りします。
薄く雲がかかった空の下。山肌にポッカリと木々の穴を開け、そこに悠然と佇む湖は、薄い雲に弱められた青白い月明かりに照らされ、穏やかな水面に辺りの景色を映し出していた。
水面のキャンパスを飾る背の低い草花は、湖を囲うように広がり、月明かりで光合成でもしているかのように青々と輝いている。対して、昼間と違い動物達の姿がないそこは、シンとした静けさが漂っていた。
そんな湖の畔りに、レイは一人感情のない顔で座り込んで顔を地面へと落とす。
レイの前には、この湖が世界樹の恩恵を強く受けた場所である事を象徴するように、成長の早い草花に侵食されたレディクの墓があった。
「……まだ自然に帰るには早いよ」
レイはそう言って、墓の周りに生えた草花を抜き始める。一本一本丁寧に抜き、掘りかえった地面を手で整えたレイは、その中から幾つか綺麗な色をした花を選び横にして墓の前に置くと、手を合わせる事もなく、燦然と輝く星空を見上げた。
「……親父、今日ハクが帰ってきたんだ。俺が旅で出会った仲間と一緒に」
こうやって報告するのは、もう何度目になるだろうか。
心に痛みが走った日は、必ずこうしてレイはこの場所にやって来ては、一人空に向かって話していた。
それはもう殆ど毎日のように、一ヶ月以上前に終結した王都の戦いからずっとレイの心の拠り所はこの湖だった。
シエラ村でレディクの葬儀が行われた日も。
アンナと復讐を誓った日も。
スクルトに責められた日も。
ミュラと戦った日も。
何度も何度も繰り返し。
父の死を思い出さずにはいられなかった日は、限ってここにやってくる。
それが弱さなのだとレイは自覚して、それでもやって来るのは、その度にまた一歩進んだのだとレディクの墓前で報告する事で、復讐の火を燃やし続けているからか。
「ハク、泣いてたよ。……いや、ハクだけじゃない。みんなまだ、なんだかんだで涙を拭えないでいる。……おかしいよな。親父は最期まで笑ってたのにさ」
俺も心の底からは笑えない。
そう、レイは少し俯き気味に呟いて、また空を見上げた。
「俺は親父と勝負してちゃんと超えたかったよ。最高に格好よかった、親父を」
それは、レイの一つの夢だ。
その背中を追い続けたレイだけの、強い願いだ。
けど、それはもう……叶うことのない夢だ。
「……だから、ここで見ててくれ。俺は親父をいつか必ず超えてみせる。親父より格好いい男になってみせる。親父を超える自由な冒険者になってみせる。そしたらさ……一度でいいから、俺に声を聞かせてくれよ。親父の声を」
それは願いだ。死んでしまったレディクの声を聞きたいと、話したいという願いだ。
あの言葉を。もう一度。
レイは心の底から聞きたかった。だから、こうして何度となく、この場で誓うのだ。
その分だけ、レディクに届くのではないかと思うから。
「──レイ」
不意に、静かな夜を撫でるような声が響いた。レイがその声のした方向に顔を向けると、心配そうな表情を浮かべて、シャルステナが木の陰に立っていた。
「……何してるの?」
そう問い掛けて、レイの隣に腰を下ろしたシャルステナの赤い髪は、湯上りなのか少し濡れていた。よく見れば月明かりに照らされた顔も、薄っすらと上気している。
勝手に家から居なくなった自分を探しに来てくれたのだろうか。
そう考えて、レイは少し罰が悪そうな顔になり、頭を掻いた。
「空を……見てたんだ。昔、死んだら人は星になるって聞いた事があったから…………馬か鹿の形の星がないか探してたんだ」
空を仰ぎ、途中から誤魔化すようにレイは言ったが、それが苦し紛れにもなっていないのは、果たしてレイ自身気が付いての事か。
その吹けば消えてしまいそうな弱々しい笑みを見せられれば、精神的に落ち込んでいるのは、丸分かりだった。
「だから、時々ここに来てるの?」
「……まぁ……時々な」
時々を強調しながらレイは視線を湖の辺りへと落とす。それはまるで、今の表情を見られたくないとでも言うように、レイにしては明らさまなほどにシャルステナから顔を逸らした。
だから、彼女は一歩踏み入る事にした。レイの心に。
恐らく、こうしてありのままを見せてくれるのは、今だけだと思ったから、その心の内を聞きたくて、彼女はレイへと問い掛ける。
「どうして泣かないの?」
シャルステナは、レイの涙を知らない。憎悪に変わる前の度し難い悲しみが、レイの瞳を濡らした事を知らない。
彼女が駆け付けた時、レイはもう涙を消していた。それからもずっと。今日に至るまで、レイは一度も泣いていなかった。
けど、レイの心は泣いているのだ、ずっと。あの日から止むことのない雨が、濡らし続けているのだ。
それなのに、レイはそれを表に出そうとしない。内に溜まった叫びを吐き出そうとはしなかった。
それは、復讐を決めたからだと、レイは言った。それで心の整理が付いたのだとも。
でも、そうではないはずだ。本当に整理が出来ているのなら、足繁くここへ足を運んだりはしない。
だから、本当の事が知りたかった。本当の気持ちを隠さず言って欲しかった。
どうにかしてあげられるから、なんて事は言えない。でも、何かはしてあげられるかもしれない。
自分がレイに救われたように、悲しみを乗り越える手伝いなら、してあげられるかもしれない。
シャルステナは、俯いたままだんまりを決め込もうとするレイの手を両手で持ち上げて、懇願した。
「お願い、レイ」
「…………わかった」
この上なく真剣な表情でシャルステナに懇願されたレイは、観念したように頷くと、少し視線を拐かしてから、最終的に湖の中央へと落とした。
「昔……さ……ここで言われたんだ。夢を見ろって。夢が人の道を照らすんだって……だから、立ち止まりそうになっても、夢があれば乗り越えていけるって親父が言ってた。だから……」
レイは湖に当時を映す。
そこに映る、幼い自分と、父の背中。そこへ落ちた葉が水面を揺らし、過去が歪む。
歪んだ過去を目に映し、レイは奥歯を一度強く噛み締めてから、言葉を続けた。
「だから……もう泣かない。泣いたら、親父が俺が立ち止まったって心配するから。それに……前に進み続けると俺は誓ったから」
レイはグッと顔を上げて、前を見る。その目には、過去も未来も、今さえも映っていない。ただ、意地と我慢だけが見て取れる。
そんなレイが、自分とは違う意味で死に縛られているようにシャルステナは思えてならなかった。
「……ごめんね。私がもっと注意していれば……」
それ以上を言葉にするのは憚られた。何を口にしても、後悔し懺悔したところで、失った命が戻ってくる事はない。
けれど、あの時、あの瞬間、女神としての力を使わず温存しておけば、レイが父の死を目にする事はなかったかもしれない。今、その呪縛に掛かることはなかったかもしれない。
そう思うと、どうしても悔やみきれはしなかった。
「シャルが謝る事なんて何もないよ。シャルは十分やってくれた」
「うん、ごめんね゛……」
シャルステナの謝る声は震えていて、嗚咽が混じっていた。ずっと死者を追い続けてきた彼女には、今のレイの気持ちが、人一倍わかってしまうから。
自分が泣くのはおかしいというのがわかっていても、どうしても抑えきれなかった。
レイはそんな彼女の声の変化に気が付いて、顔を向ける。涙に濡れた瞳と困惑する瞳が、月明かりの下で交わった。
「……何でシャルが泣くんだよ」
「だって……だって……レイが辛い時に私は何にも出来なくて……助けてあげられなくて……それが嫌だから、せめて泣けないレイの代わりに私が泣くの。これくらしいか、私がしてあげられる事なんて……」
ただの言い訳だ。ただ堪えきれなかっただけだ。
いろんな感情が湧き上がってきて、突いて出てしまった涙を、シャルステナは違うのだ言い訳するように、誤魔化そうとした。
だけど、そんな誤魔化しは、シャルステナの不器用さを知っているレイに効くはずもない。
ソッと頬を緩ませたレイは、彼女の涙を指で掬い、お願いを口にする。
「なら、ちょっと話を聞いてくれなかいか? ほんの少し、長いかもしれないけど、昔の話を……」
「……うん」
レイは涙を拭って顔を上げたシャルステナに安堵すると、湖をどこか遠い目をして覗き込んだ。
「……俺さ、昔は親父の事好きじゃなかったんだ」
レイの昔話は、そんな言葉から始まった。
今にして思えば遠い昔。けれど、その時の事はよく覚えている。
「親父の事だけじゃなくて、母さんも、もっと言えばこの世界に住んでる人全員が好きじゃなかった。どうでもよかったんだ」
自分が転生している事にも気付かずに、ただの子供として接する大人達を馬鹿にして、侮って、所詮はリアルなんてこんなもんだと、心を開こうとはしなかった。
シャルステナはレイの独白に小さく相槌だけ入れて、聞き入った。
「だからさ、2歳になる少し前。俺がまだ1歳の頃、一人で村を出たんだ。ただ、ここがどんな世界なのか知りたくて、親父達が心配していようがどうでもよくて、あわよくばそのまま世界を回ろうなんて考えてた」
必要のないものは捨てて、自分の為だけに生きようとしていた。
そんな己の過去を、2歳にもならないガキが何をしてんだか、とレイは自嘲するように小さく笑みを零す。
「今思えば……馬鹿だったよ。けど、その時は本気だった。実際、俺は2歳でも魔物と戦えた。信じられないかもしれないけど、D級の魔物まで倒したんだ」
「信じるよ。レイが無茶するのは私が一番よくわかってる」
信用があるのか、ないのか。
どう受け取ったらいいのか、反応に困る答えにレイは苦笑いを零す。
「それで、調子に乗って強そうな魔物に挑んだ。後から知ったけど、そいつはB級でさ。手も足も出なかった。このまま死ぬのかなって思った。それでも、まぁいいかとか、痛いのは嫌だなとか考えててさ。死ぬのが怖いとは思わなかった」
それこそが、死にたがりなんて称号を授かることになった根底にあるものだと思うと、話しながらでも失笑せざるを得ない。
失う辛さを知った今なら、そんな無謀には出られないだろう。死んだらこの世界が終わってしまうからという責任感からの理由ではなく、同じ思いを周りに背負わせたくないと思うからだ。
「……けどさ、そん時親父が助けに来てくれた。汗ダラダラで必死な顔してさ、助けに来てくれたんだ。魔物は親父に瞬殺されて、俺はそれを笑って見てた。この人すげぇ強いって、ワクワクしてた。……だけどさ、親父は本気で俺の事心配してて……俺が無事なのがわかると大泣きして、痛いほど抱きしめてきた。その時、思ったんだ」
父の涙を見て。痛いほど締め付けられて。
ようやくレイはわかったのだ。
「あぁ……俺はこの人の子供なんだ、って」
思えば、その時初めて、レイは父という存在を実感した。それまでは何処か適当に、ゲームでもするのような感覚でのらりくらりと遊び半分で子供をやってきたのが、あの日を境に本気になった。
「親父に連れられて家に帰って、母さんに思いっきり顔を叩かれた時、俺は嬉しくて仕方なかった。ここに、この世界に、自分の家族がいることが嬉しくて嬉しくて、仕方なかった。親父と母さんが俺にはいるんだって、この世界は前とは違うんだって……思ったんだ」
だから、レイはこの世界で生きようと思った。人と関わろうと思った。
全てはあの日、レディクの強い抱擁がレイの心を開いたからだ。
「父さんと母さんは、何もなかった俺に家族をくれた。だから、大好きだった。親父は過保護でさ。稽古の時は別だったけど、それ以外では俺の事一度も叩かなかった。凄く家族を大事にする人だった。俺はずっとその背中に憧れてたんだ。普段は馬鹿でどうしようもない親父だったけど……凄く格好のいい人だった。あの人みたいな男になりたいって、あの人を超えたいって、目標にしてきた」
それは今だって変わらない。いや、これからもずっと変わる事はないだろう。
「いろいろ間違えてきたよ。自分勝手に振る舞う事が自由への近道だって勘違いして……俺なら何だって出来るって思い上がって……シャルが止めてくれなかったら、俺はきっと本当の自分の気持ちに気がつけなかった。だから、シャルにはちゃんと話しておきたい。俺が世界に出て見付けた答えを」
自分と向き合うキッカケを与えてくれた彼女に、レイはこの旅で見付けた答えを──いや、遠回りして気が付いた自分の気持ちを、言葉にして口に出した。
「俺は、ずっと親父の背中を追いかけてきた。あの人みたいな自由人だけど、カッコいい人になりたかったから。だからさ、俺の探していた答えは、ずっとここにあったんだよ」
レイは自分の胸に手を当てて、あの時はまだ、言葉に出来なかった思いを、掴み取る。
「目指すものは違うけど、俺は……親父みたいな冒険者になりたいんだ」
何てことはない。一人旅をして、答えを世界に求めたというのに、初めからレイの中に答えはあったのだ。
本当になんて遠回りをしてしまったのだと、レイは自嘲気味に笑ったが、それを聞いてシャルステナは嬉しそうにはにかんだ。
「私は、すごくいいと思うなぁ。男の子らしくて、目指す先がハッキリしてて、何よりレイらしいところがとっても」
「俺、らしいか……そうなのかもしれないな。間違ったけど、ずっと俺がなろうとしてたのは、あの人だから……結局、何も変わってないのかもな」
そう考えて、自ら探してきた答えに、レイは不安をよぎらせる。
果たしてこれで良かったのか。また道を間違えようとしているのではないか。
そう、自問自答しレイが見詰めた己の手に、ソッと横から白く細い手が重ねられた。
「ううん……それは違うよ。ただ、何となく目指すのと、ちゃんとなりたいものをわかってて目指すのは全然違う。ほら、向こうに向かってただボールを投げるのと、ちゃんと狙いを決めて投げるのでは、ボールが落ちる場所は全然変わってくるでしょう? それとおんなじ。レイはちゃんと自分で悩んで答えを出したんだから、きっとそうなれるよ」
「……そうだといいな」
小さく頷いたレイは、顔を上げて空笑いした。
「けど、それってすごく難しい。親父は簡単にやってのけたのに、俺には出来ない。やっぱりあの人は本当にかっこいいよ」
レイはソッと緋炎の柄を撫で、その顔に強い決意を宿す。
「だから、俺は魔王に復讐する。それで、親父を超えられるわけじゃないけど、気持ちのケジメって意味でも、これは俺がやらなきゃいけないことだと思うから」
許す事は出来ない。このまま泣き寝入りする気などない。
レディクは言った。
やりたいようにやるのが冒険者だと。
ならば、自分はこの気持ちに逆らうような事はしない。何故なら、その先にこそ自分の目標とするものはあるのだから。
「レイ……」
目の前の闇に、険しく怖い顔を向けるレイ。その目に宿る復讐の炎は、その他一切の感情を焼き殺さんばかりに燃え上がっている。
そんな彼を隣で見詰めていたシャルステナは、ソッとその頭に手が回して、自分の体へと抱き寄せた。
ポスッと柔らかく弾む感触がレイの顔に当たる。ほとんど力など入っていない手がレイの頭をホールドし、少し力を入れれば解けてしまいそうな程弱い抱擁がレイを包み込んだ。
「シャル……?」
レイはその抱擁を振り解くような事はせず、視線だけで彼女の顔を見上げる。
そんなレイに、シャルステナは一言。
「……泣いていいよ」
そう言って、彼女はレイの顔を強く自身の胸に押し付けた。
「これで誰もレイが泣いてるところ見えない。私が全部隠してあげる。だから……好きなだけ泣いていいよ」
優しく、心に染み渡る声。
それは、レイの痛みを刺激して、深いところから引き上げようとしてくる。だけど、それを上から押し潰し、焼き消してしまわんとする火。
それさえも、シャルステナは受け入れて、その腕で優しく包み込む。
「心の声を抑えないであげて。その声はレイにとって、とても大切なものだから。今だけは……私の前にいる時だけは、我慢しないで。私は、レイが見られたくないところ見ないから。私が、他の誰にも絶対に見せないから。だから、泣きたい時に泣いていいんだよ」
「……俺は……」
上手い言葉が見つからない。
抑えつけていた心の声が湧き上がり、胸がそれに埋め尽くされて、口に出る前に喉に引っ掛かってしまう。
「……私には、こんな事しか出来ないけれど……レイが必死に泣きたい気持ちを我慢してることはわかるよ。だから、いっぱい泣いて、いっぱい悲しんで、それから、レイの泣きたい気持ちを我慢してる顔じゃなくて、これから頑張るんだって顔見せてあげよう? きっとお父さんも、それを望んでるよ」
目頭が熱くなる。胸がどうしよもなく苦しい。
今にも溶けてしまいそうな程熱く、けれども温かみなどないそれから逃げるように、レイはシャルステナの胸に深く顔を埋めた。
「……泣かないよ。絶対……泣かない」
声は震えていた。
「うん」
体も震えていた。
「…………だけど、ちょっとだけ……ほんの少しだけでいい。このままでいさせてくれ……」
その震えを押さえるように、シャルステナの手はレイの頭と背中を強く引き寄せた。
「……うん」
夜の冷たい風がいつもより冷たく感じられた。
けど、顔に触れる暖かな体温が、冷えからレイを守った。
雲の晴れた月の光が湖を照らし。
青白い月の光は、二人の姿を湖に映し続けた。
夜が明けるまで、ずっと……




