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158.再起する恐怖

 

 ──八年前。


 レイ達が王立学院に入学するよりも前の話だ。

 王都で貴族令嬢が誘拐されるという大事件が起こった。

 その誘拐された貴族令嬢というのが、キラムルト家の次女であるアンナだった。


 当時7歳だったアンナは数人の護衛と共に街に買い物に出ていた。王都で買い物と言えば、大通りだ。大通りは人目も多く、さらには護衛が目を光らせている。誘拐される危険などないように思われていた。

 しかし、後からわかった事だが、アンナを誘拐した犯人は、金に目が眩んだB級冒険者のパーティで、目眩しの煙玉とチームワークだけで、大通りのど真ん中の誘拐を成功させた。


 突然、煙に覆われた大通りはパニック。その中に、アンナの悲鳴も紛れ、護衛達の視界も閉ざされた。

 そして、煙が晴れた時には、アンナの姿はどこにもなく、探そうにも人が多すぎて身動きが取れなかった。


 そうして、まんまとアンナを誘拐した犯人達に、アンナは泣き喚くほどに痛い目に合わされ、顔は腫れ上がるほどに殴られた。

 何日も暗い地下室に入れられ、知らない男から暴力を振るわれる恐怖を味わい、幼いアンナは心身共にズタボロにされた。


 当時、アンナは誘拐された事実を理解してはいなかった。ただ、怖い、怖い、怖いと、恐怖を心に刻まれただけだった。

 およそ一週間、アンナはその恐怖に怯え、過ごした。昼と夜の区別の付かない地下室で、時折聞こえてくる怒声に震えながら。それはもう、どうしようもないほどに、深い深い心の傷をアンナに残した。


 そんな彼女を救い出したのは、兄であるソルトだった。地下室に初めに飛び込んできた兄の姿は、アンナにとって光そのものだった。


 兄の胸の中で、アンナは泣き続けた。

 それは、誘拐犯が捕まった後もだ。アンナは片時も兄と離れようとしなかった。ピッタリと引っ付いて、少しでも離れると泣き出すほどに、この誘拐事件は深い心の傷をアンナの中に残したのだ。


 兄と離れてはいけない。兄と一緒にいなければ、また怖い目に合う。

 考えるよりも先に、心の中の潜在意識がそう唱えるのだ。

 アンナは離れないではなく、離れられなかった。


 寝る時も、お風呂に入る時も、トイレに行く時も、側に兄がいないと、不安でいてもたってもいられなる。


 ソルトは、そんなアンナに優しく接した。歳が10以上離れていることもあってか、アンナのやりたいようにさせていた。だが、王立学院への入学が近付くにつれ、そうも言ってられない状況になっていく。


 アンナは本当に片時も離れようとしなかったのだ。


 ソルトは既に成人し、仕事もあった。その時は事件からまだ日も経っておらず、周りからも仕方ないという同情があったが、いつまでも妹を仕事に連れて行くわけにもいかず、このままでは学院に通う事など夢のまた夢だった。

 実際、アンナに話してみても……


「いやだ。お兄ちゃんと一緒にいる。学校になんか行きたくない」


 と言って、しがみつくだけだった。


「学校は楽しいところだよ。先生達が守ってくれるし、危険な事なんて何もない。それに、生きていく上で大切な事を色々と学べるところなんだ」

「いやだ。怖いもん……お兄ちゃんが一緒に行くなら行く」

「まいったな。お兄ちゃんは一緒には行けないんだよ」

「じゃあ、行かない」


 断固として首を縦に振ろうとしないアンナに、ソルトは正直困り果てていた。幼い妹の心に刻まれた恐怖がどれ程のものだったのか、離れようとしないアンナの様子から想像出来ただけに、強く言うことも阻まれる。かといって、このままで良いはずもない。


 ソルトは妹を傷付ける事なく、学校へ通わせる方法はないか悩み、友達を作らせてみてはどうかと考えた。

 一応にも、貴族の端くれであったアンナは、友達らしい友達を持っておらず、これから先の事を考えても、友人を作るのは悪い事ではないように思えた。


 と言っても、下町で遊んでいる子供の輪に加えるのは難しい。それは、警護という意味でも、アンナの精神的にも。

 なので、同じ貴族の同年代の少女と合わせてみる事にしたのだ。その時、選ばれた貴族の少女というのが、シャルステナだった。


 まぁ、初めはゔぅ〜と唸りそうな具合で警戒心丸出しだったアンナだが、回数を重ねるごとに少しずつ打ち解けた。それに合わせて、少しずつだがアンナがソルトから離れるようになった。と言っても、ギュッとしがみ付いていたのが、チョコンと隣にいる程度に変わったぐらいだったが、それでも大きな進歩だ。


 ソルトは上手くいった事を喜びながら、アンナを連れてシャルステナの家に通い続けた。


 そんなある日の事。


 未だソルトが目の届く場所にいないとパニックを起こすアンナと、当時から秀才を発揮していたシャルステナが、学校について話をしたのだ。


「アンナは学校に行きたくないの?」

「うん。だって、行く理由がないもん。あたしはお兄ちゃんと一緒にいれれば満足だし……シャルは学校、行くんだよね?」

「うん。そこで会えるかもしれないからね」

「えっ? 誰に?」


 目をパチクリさせて、キョトンとしたアンナに、シャルステナは一瞬迷いを垣間見せてから、それを隠すように笑った。


「それは……内緒かな。けど、私はもう一度その人に会いたいから、学校に行くんだ。もし会えなくても、家にいるよりずっと沢山の事を知れて、強くもなれる。そしたら、その人を探しに行けるよね。アンナには、そういう気持ちない?」

「あたしにはもうお兄ちゃんがいるから」


 シャルステナの問い掛けにアンナは迷う事なく即答した。兄が入ればそれでいい。他は望まないと、幼心ながらに思っていたからだ。

 そんなアンナに、シャルステナは重い言葉をかけた。


「……わからないよ。ずっと一緒にいたのに、ある日突然いなくなる。それが、人間だよ。その時になって、泣いても、後悔しても、誰も助けてくれない。神様がその人を連れて来てくれたりもしない」


 この時、すぐ側で聞いていたソルトは、少なからず驚いていた。まるで経験者の言葉であるかのように、その重みと辛さが伝わってきたからだ。

 とても7歳の子供の言葉には思えなかった。


 そんな言葉だったからだろうか。

 それまで頑なに学校に行きたくないと言っていたアンナの心が、動いたのは。


「あのね、お兄ちゃん」

「何だい?」


 その日の帰り道で、アンナは兄の顔を見上げながら言った。


「あたし、学校に行こうと思うんだ。それでね、学校でもし何かあったら、お兄ちゃんはあたしを守ってくれる?」

「ああ、もちろんその時は一番に駆け付けるよ。……必ず」


 最後の必ずは自分に向けたものだった。一度味あわせてしまった辛い出来事を、もう2度と妹に背負わせないと誓うために。


「約束?」

「約束だ。どんな事があっても、アンナの事はお兄ちゃんが必ず守る」

「じゃあ、あたしも。あたしも学校でお兄ちゃんを守れるくらい強くなる。そしたら、いつまでも一緒に居られるね」


 まだ無垢だったアンナは、シャルステナの言葉を鵜呑みにして、そう言ったのだ。だが、ソルトは少し違う未来を。


「そう……だね。そんな未来が来てくれるといい。アンナが何も恐れる事なく生きて行ける未来が」


 アンナが一人でも恐怖を克服出来る未来を願った。


「じゃあ、約束?」

「ああ」


 夕焼けに照らされた大きな手と小さな手は、影で交わった──



「誰か……誰でもいい! 私を止めてくれッ!」


 兄の悲痛な叫びにハッと我に戻ったアンナ。


 そうだ、自分はこんな時のために頑張ったんだ。


 そう、幼い頃の気持ちを思い出し、折れてしまいそうな心を奮い立たせた。


「お、お兄ちゃん、あたしが……あれ、何で……⁉︎」


 だが、剣が持てない。

 何度持ち直そうと手を握っても、スルリと掌から溢れてしまう。

 アンナの手は震えていた。ブルブルと小刻みに震え、力が入らない。それに気が付いた時、忘れようとした恐怖心がぶり返し、立ち上がろうとする心とぶつかり合う。


 しかし、時は待ってくれない。


「私から早く離れなさい、アンナッ!」


 ソルトが叫ぶと同時に、溜め込んだ力を解き放つように伸ばされた腕の先──槍の鋭く尖った矛先がアンナの瞳を埋め尽くす。


 これで終わりなんだと、アンナが全てを諦め、死に体を委ねた時、閉じかけた視界が激しく揺れた。


「危ないッ、アンナ!」


 ドバッというよりはドガッという衝撃が、体の反面に走り、気が付けばアンナは地面に転がっていた。その上には、ゴルドが覆い被さり、彼ら二人の横にはゴルドの両手剣と盾が落ちている。


「ゴルド……ッ! 」

「だ、大丈夫。ちょっと切っただけだから」


 ゴルドの額はパックリと裂け、そこから流れ出た血で顔の半分が真っ赤だ。アンナを庇った際に、槍の穂先が当たり、切れてしまったのだ。


「ごめん……ゴルド。あたし……戦えない。怖くて、体が震えて…… お兄ちゃんを止めなきゃってわかってるのに、体が言う事聞いてくれない」


 アンナは泣きながら、自分の張り裂けそうな胸の内を独白する。

 フラッシュバックする誘拐犯にボコ殴りにされた光景と、助けに来てくれた兄の姿。

 あたしが止めなきゃと思っているのに、体の震えが収まらない。湧き上がる死の恐怖が抑えきれない。


 そんないつになく弱々しいアンナの姿を見て、ゴルドは二年前のあの日のことを思い出す。

 あの時も、アンナはこんな風に震えていた。そんなアンナを見て、守らなきゃいけないと自分は思ったのだ。


 ゴルドは、アンナの抱えた傷をそっと撫でるように笑いかけた。


「そっかぁ。じゃあ、僕がアンナの代わりに止めるよ」


 軽い調子で、引き受けようとするゴルドの屈託ない笑顔。アンナは涙目でそれを見つめ、無意識のうちに手を伸ばした。

 チョコンと引き止めるように手の裾を摘んだアンナの手。ゴルドはどうしたのだろうと首を捻る。


「お願い」

「……うん!」


 弱々しい声で震えながら言ったアンナに、ゴルドは満面の笑みで答えた。そして、両手剣と盾を構え直すと、アンナとソルトの間に立った。


「とりあえず、動けないように、ボコボコにするけど、いいかな?」

「ッ! そ、それは……」

「構わない。私が動く限り、痛め付けてくれ」


 ゴルドの言葉に思わず反対しようとしたアンナだったが、それを押し潰すかのように重ねて即答したソルトの覚悟の篭った言葉に、理解をもって押し黙る。


 忘れてはいけない。

 魔王はまだ存命なのだ。時間もなく、いつ攻撃してくるかもわかったものではない。何より相当数が操られ、余裕がないのも事実。一定してある水準以上の動きを見せる彼らに手を抜く余裕などない。


 だからこそ、一瞬で決めると、盾を深く構えその影に自分を隠して突撃するゴルドを、アンナは心の叫びを抑え、見守った。


 一直線に肉薄するゴルドが、槍の間合いに入った瞬間、刺突が繰り出される。それを盾で弾き返し、強引に自らの間合いへと持ち込んだ。

 だが、その時ソルトの右手が槍から離れ、腰に差していた短刀が煌めく。


 ズコッと盾の裏に回り込んだ短刀は、そこに隠れたゴルド目掛けて横合いから差し込まれた。

 しかし、その寸前ゴルドは足の裏から魔力を噴射。盾と両手剣をその場で離し魔力噴射の推進力を利用して、クルリと空中で回ると背後に回り込む。


 完璧なフェイント。盾で体を隠し、直前で背後に回り込む。目の前でそれをやられたソルトの認識はとても追い付きはしない。

 しかしだ。今、彼の体を操っているのは魔王。遠目にその動きを見ていた魔王には、大きな意味を残さない。


 槍の長い後端がスッと押し出すように振るわれた。そのままゴルドの腹を突き、身を翻せば再び正面からの攻防が繰り返される事になる。

 ゴルドは咄嗟に身を屈めた。そして、槍の後端をギリギリで躱し、魔力噴射の推進力でソルトの股の下を潜り抜ける。


 再び前に躍り出たゴルド。しかし、短刀はまだ盾の裏。槍は反対方向に突き出されている。


 絶好のチャンスだ。ゴルドの実力ならば確実に相手を吹き飛ばし、ノックアウト出来るタイミング。


 ゴルドの拳が強い輝き放つ。魔装と魔力噴射の合わせ技。その一撃は、確実にソルトの意識を刈り取り、一歩間違えば重症を負わせる事になるだろう。


 しかし、それを見ていたアンナは、頭で考えるよりも先に心で叫んでしまった。


「ゴルド、やめてぇっ!」

「ッ……!」

「止まるな!」


 アンナの悲鳴を耳にした瞬間、ゴルドの体は強張り、ピタッと止まった。ソルトは即座に警告を発したが、もう間に合わない。深く腰を落とした体制からの突き上げるような一撃が、ゴルドの体に突き刺さる。


「かはっ……」

「ゴルドッ!」


 腹を一突き。強烈な衝撃に盾や両手剣を巻き込んで吹き飛ばされたゴルドは、背中からアンナの前に落ちた。苦悶の表情で耐えるソルト。ゴルドは激痛に顔を歪ませる。


「ご……ごめん、ゴルド。あたし、あたし……!」


 アンナは震える手で、ゴルドの傷口を押さえながら、回復魔法を発動させる。しかし、乱れた精神では、とてもではないが、治癒の効果は発動しない。

 ただ、魔力が無駄に消費されるだけである。


「逃げなさい、アンナ! 早く、その子を連れて私から離れ──」

「はいはい、もう茶番はいいので、黙っていただけますか?」


 バチンと指を鳴らし、強制的に口を閉じさした魔王。最悪の状況が、さらに悪化する。


「あなた達二人にはやられましたからね。私自ら殺して差し上げます」

「あ、アンナ、逃げて。ここは僕が……」


 ゴルドは痛みに半目を閉じながらも、ヨロヨロと体を起こした。片手は傷口に添えられてきて、指の合間からは血が滲み出ている。

 ゴルドは腰が抜けて動けないアンナを庇うよう立ち上がり、前に出る。だが、負った傷は深く足元は覚束ない。目も小刻みに揺れて安定しておらず、とても戦える状態ではなかった。

 

「あなたが先ですか。では───なんですか、その目は? 不快ですよ。あなたも殺されたいので?」


 魔王は不快感を隠さず、これ以上ないほどに恨ましく、強い殺意の篭った目で睨む人形に、目を向けた。

 脅し文句と共に、触手をチラつかせる魔王。対して、ソルトはやってみろと言わんばかりにより強く睨みつける。


「どうやら、先に殺されたいようで」


 その瞬間、触手がソルトの胸目掛けて発射された。それを見て、ゴルドが魔力加速で強引に体を二人の間に割り込ませ、触手からソルトを庇う。


「やらせないっ!」

「無理をすると、すぐに死にますよ」


 前には魔王。後ろには、その魔王に操られるソルト。

 自らその窮地に飛び込んだゴルドは、血を撒き散らしながら、必死に触手からソルトを守るが、その動きは時を追うごとに繊細を欠いていく。

 このままでは、ゴルドがその触手に貫かれるのも時間の問題。


 そんな彼の背中を見つめていたソルトの背後で、突如として火柱が上がる。


「魔法? そんなもので、抵抗したつもりで……」


 轟々と燃ゆる二本の槍。豪速を持って射出されたそれは、無意味な抵抗と辟易する魔王と──ソルト自身の胸を貫く。


「グハッ……!」

「お、お兄ちゃん⁉︎ な、何で⁉︎」


 思わず恐怖など忘れ、ソルトへ擦り寄るアンナ。目を見開き驚愕に固まるゴルドの前で、アンナは悲痛な叫びをあげた。

 ソルトはそんなアンナに慈しみの篭った表情を浮かべると、息も苦しげに呻くように、謝った。


「いや、だめッ……あ、あ……血が……!」

「ア、アンナ……済まないね……私ではもう守ってあげらないみたい……だ……」


 ストンと膝を落とし、左肩から前へ倒れこんだソルト。遠方を見つめるように、遠い目をしたまま、どこかわからない場所を見つめ、脱力しきった顔で表情を止めていた。

 心の臓は焼け落ち、血はまだ流れ出している。ツーと口から漏れるように流れ落ちた血が、地面を赤に染める。


「いやぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!」


 絶叫が王都中に木霊する。頭を抱え、ボロボロと雨のように滝のように涙を落としながら、小刻みに震えアンナはソルトの体に寄り添い、慟哭した。

 いつもなら彼女の頭を優しく撫でて慰めるであろうソルトは、表情1つ変えず、流れ落ちる水滴に身を濡らすだけ。

 アンナの目の前には、兄の死という受け入れ難い事実が転がっていた。


「あ……あ……嘘よ……夢、これは夢よ……」


 虚ろな目。震える肩。生気が抜け落ちた血の気のない白い顔。横たわる兄より余程死人らしい顔をしたアンナは、両肩を抱き震える声で現実から目を逸らそうする。しかし、彼女の目の前には、これ以上ないほど残酷な現実が横たわり、目を逸らす事は叶わない。


「……ぁぁぁ」


 震えが激しくなる。何かを恐れるように怯える瞳に映るのは、血のように赤い瞳。ソルトの決死の一撃を服焦がすことなく耐え切った魔王の冷徹な瞳だ。


「いやいや、偶にいるんですよね。味方を傷付けまいと死を選ぶ馬鹿な人間が」


 アンナを守るために命を捨てた兄に対するこれ以上ない侮辱。いつもなら、真っ先に激怒して斬りかかるであろうアンナは、兄の死を前にして、立ち上がることすら出来なかった。


「そんな馬鹿な輩には、身を持って教えてあげるのですよ。死んだところで何も変わらないとね」


 ユラユラと業火の槍で胸を焦がした兄の屍が立ち上がる。そして、コテンと力なく折られた首がアンナの方へと向けられた。


 瞳孔が開ききり、生気を完全に失った目。胸から押し出された血がポタポタとたれ落ちる力なく開かれた口。


「もう……いや……」


 アンナの瞳は溢れた悲しみが、頬を伝う。悲痛に顔を歪めたアンナは、兄の姿をその濡れた瞳に映し、全てを諦めたように、体の力を抜いた。


 ──シャル……あんたの言う通りだったよ。誰も……誰も助けてくれない。その時になって後悔しても、もう何もかも手遅れだった。


 あたしはここで、お兄ちゃんに殺されるんだ。


 最後の一瞬をせめて大好きだった兄の姿で一杯にして、アンナは目を閉じた。


「させないッ!」


 もう限界だった心が、これ以上の刺激を遠ざけようと、閉ざされていく。アンナを守ったゴルドの声も、ただ彼女の心を通り過ぎるだけ。

 薄れゆく意識の中で、アンナは最後に願う。


 あんたは、逃げなさい、ゴルド。


 そんな叶わぬ願いを最後に、アンナは意識を失い、地面に倒れた。


 そんなアンナの様子に気を払う余裕がなかったゴルドは、雄叫びをあげて、一人彼女を害意から守るためその身を盾にする。


「アンナから離れろォッ!」


 ゴルドはグッと足を伸ばし、悲鳴をあげる傷口を無視して、ソルトの死体ごと槍を弾き返した。そして、アンナを背に庇い、魔王とその操り人形と化した二人に向かい合う。額には痛みからくる脂汗が張り付き、余裕など微塵も浮かんでいない。


 だけど、引くことが出来ない思いを胸に、血が噴き出すのも構わず、叫ぶ。


「魔王ォッ!」


 怒りが力になる。アンナの兄を守れなかったという、自分に対する怒りが、荒々しく燃え上がる。それだけでなく、まるでショーを見せるかの如く、アンナの最も大切な兄の体を操り、殺そうとした魔王への怒りは計り知れない。


「僕はお前を許さない! ボッコボッコギッタギッタにしてやる!」

「やれるものならどうぞやってご覧なさい」


 ブシューと腹の傷から血が噴き出す。しかし、そんな事は気にも留めず、怒りに震えたゴルドは、犬歯を剥き出しにして雄叫びをあげながら、無策の突進を仕掛けた。


「考えなしの馬鹿ですか」


 ゴルドの猛攻を手で軽く弾き返す魔王。スッと引いた手の指がピンと伸びる。そして、重心を前に、手をさらに前へと突き出し、空手の抜手の如くゴルドの防御が開けた場所を穿つ。


「ガハッ……!」

「死になさい」

「っ……! 負けるかぁッ!」


 ゴルドは突き刺さった手を盾を捨てた手でグッと握りしめた。

 魔装により刃物と化した腕を握る。それはつまり、ゴルド自身の手が切り裂かれることと同意義だ。

 皮膚が裂け、ポタポタと血が落ちる。それでも逃さないとばかりに力を込めるゴルドは、顎を引き、額を前に押し出して、叫んだ。


「瞬動ッ!」


 ゼロ距離からの超加速。嘗てディクルドが最後の技としてそれを放ったのと同じ要領で、超加速のエネルギーが、剣の刃とグッと首を固めた頭蓋に乗る。


「くっ!」


 鼻と腹を打つ強い衝撃。それで魔王の硬い魔装は破れはしないが、額だけに濃く巡らせた魔装を纏いゴルド自身と腹を打つ重量感のある両手剣が、砲弾のごとく衝突したのだ。

 首と腹が大きく曲がり、S字のカーブを描いた魔王の体。連戦で負った傷が悲鳴をあげて、大きく開く。


 ──その時だった。


 首を空に逸らし、苦痛に顔を歪ませていた魔王の目に、黒い影が映る。気高く聳える時計台に沿って、体をピンと伸ばし、真上から落下してくる人影。それは蒼穹の弓を構える紫の髪の少年──ライクッド。

 狩人のように細められた冷たく、またその奥には激しい熱を隠し持つ瞳。その瞳が、魔王が初めて晒した完全な隙を、射抜く。


「穿て」


 自らが思い描いた絶好のタイミング。避ける事など決して叶わぬそのタイミングで、真下に向かって狙い撃つ。引き伸ばされた氷の弦がパッと離され、ビュンと風を切り弧を描いて元に戻る。

 放たれたのは氷の矢。風を切り、周囲を凍てつかせながら、猛スピードで真下に向かって駆け抜けた。


 そして、氷の矢が寸分違わず、魔王の胸を射抜く。


 しかし、魔王の魔装に触れた瞬間、氷が細かく弾け飛び散った。

 それを見て、安堵と余裕の笑みを浮かべる魔王。一方で、それを向ける先──ライクッドもまた同じように笑った。


「なっ……⁉︎」


 魔王は驚愕とともに固まった。それは文字通り、凍りつき固まったのだ。

 ライクッドの真の狙いは、魔王の胸を射抜く事ではなく、その動きを一瞬止めること。飛び散った氷が、魔装の上からその動きの全てを凍てつかせた。


「今です、ゴルドさん!」

「うぉぉぉぉ!!!」


 雄叫びを上げて、振り上げた両手剣。轟っと莫大な量の魔力を空に巻き上げ、赤の炎刀となったそれを、ゴルドは力の限り、全力で振り下ろした。


 バキッ!


 鈍い音。氷、魔装、骨と、硬いものを全て、全力噴射の魔力と両手剣で頭から切り裂いた音。


「ふふふっ、あなた達も中々……」


 そう、凶悪な笑みを浮かべた魔王の口が左右でズレた。そのズレは、頭の天辺から体に至るまで走る亀裂にそって、体が2つに別れる。


 それを見て、力を使い果たしたゴルドは、魔王を倒したと確信し、力を抜いた。


「終わっ……」

「まだです、ゴルドさん!」


 落下の真っ最中。着地地点に意識を向けていたからこそ、ライクッドはそれに気が付いた。

 魔王の真っ二つに別れた体に残った魔力が、独りでに集まり、凝縮していることに。


「ゴルドさん、逃げてくださいッ!」


 ライクッドは瞬時に悟る。何度となく師であるレイがライクッドに教えようとした暴走を操る、それを。


 ──魔力暴走。


 それを、人の意思で操る魔爆が、今まさに起きようとしていた。


 ゴルドは走った。

 気絶したアンナに向かって。


 ライクッドは、最後の力を振り絞り、自らに突風を浴びせた。


 逃げようと足掻く二人。それを嘲笑うかの如く固まった魔王の顔。そこから、限界まで圧縮された破壊の嵐が巻き起こった。


 ゴォォォオと音を立てて、魔王自身の体を、道を建物を粉々に破壊して、爆発の境界が3人に迫る。


「くそぉぉぉぉ!」


 ゴルドの叫びが街に木霊し、3人の影は爆発の中に消えた──

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