126.刻印の鐘
殺人鬼は誰でしょう?
「んっ……」
純白に彩ろられた室内は、朝になるとすぐ気温が上がる。夏の日差しがアスファルトでもないのに床で照り返し、温度を上げるのだ。
だが、目覚しがないここでは、いいアラーム代わりになっている。
薄っすらと汗を掻いた体を起こし、寝巻きを脱ぎ捨て私は部屋に備え付けられたシャワーで寝汗を落とす。
ここには香水も臭い消しも何もない。だから、汗を掻いたらすぐにシャワーを浴びる。贅沢は言わないが、せめて臭い消しは欲しいところだ。女として。
毎日何度シャワーを浴びているのかわからない。
この世界のシャワーは、魔石で作られているらしい。魔石の魔力が切れるまでは、水が出てくる。ただ、お湯にするにはお金がかかるそうで、温まりたいなら湯船に浸かるしかない。
朝から冷たいシャワーで汗を流し、寒さで目を覚まさすと、体を拭いていつもの装備に着替える。装備は、帝国から貰ったもので絢爛豪華な装飾が施された一品ばかりだが、ゲームのように特別な効果は付いていないらしい。
ただ、初めに比べれば羽根のように軽いが、女の私には少し重たすぎる。もう少し軽い装備が欲しいが、自分の命を守ってくれる大切な防具だ。布切れよりは遥かにいい。
重い装備に身を包み、時間になるまでベッド腰掛けた。
そして、ふと思い出す。
そういえばあの子の装備は軽そうだった。
軽装といえば聞こえはいいが、相手の攻撃を弾き返してくれそうな硬い装備も付けていなかったし、何よりただの囚人服だった。戦うような格好ではない。それなのに、春樹を軽く吹き飛ばしたパンチを受けても、平気そうに反撃していた。
あれがステータスの差というものなのだろうか?
私は彼の事が気になっていた。多分、嶺自と同じ名前だったから。どうしても重ねてしまう。それはいけない事だとわかってるつもりなのに、無意識がそれを許してくれない。
「お礼……言いそびれてしまったな……」
春樹を助けてくれたお礼を言えていなかった。魔人という人外であっても、見た目が人であった彼らが無惨に殺される光景は、刺激が強すぎた。
今でも、思い出すと吐き気が蒸し返してくる。
私はそこで考えを止めた。本当に吐きそうだったから。思い出すのをやめて、そろそろ時間かなと切り替えて部屋を出た。
私が向かうのは、帝城の中の広い中庭。いつもそこで訓練している。ここに戻ってきて、まだ1ヶ月程だが、以前と同じ生活リズムに戻りつつあった。
帝城の庭はとても広い。私達がそれぞれ模擬戦をしてもまだ余裕がある程だ。普段からここは帝国兵の訓練などに使われているようで、よく私達が訓練する横で、模擬戦などをしている。
しかし、それだけ多くの人が訓練に使う場所であるのに、中庭はとても綺麗だ。中庭の中央にあるアーチの様に吹き出す噴水の周りには人が休憩にやって来てよく雑談しては、私達の訓練を覗き見ている。
彼らの周りには、花が綺麗に咲き誇り、噴水を中心に四方へと伸びるクロスロード。花に囲まれた道が建物へと続いている。
一方で、訓練をしている周囲の地面は踏み荒らされ花も蹴り飛ばされてしまうのだが、数日経つとすっかり元に戻っている。庭職人が直してくれているそうだ。
少し申し訳なさを感じてしまうが、その庭職人さん達のお陰で今日もお庭は綺麗な様式を保っている。
「全員集合しましたか?」
時間通りに現れたレーナ先生は、全員集まっているか確認を取ってきた。誰かがレーナ先生に頷くが、この場には三人足りていなかった。だが、それも踏まえて、今はこれで全員なのだ。三人はかなり前から訓練には参加していない。旅にも来なかった。
もう彼らに勇者としての責任も、やる気もないのだろう。
海堂、倉田の二人は最近ではやりたい放題しているという。力だけは今の私達と変わらないのが悩ましいところで、帝国も頭を悩ませているようだ。
街に繰り出しては、女性に手を出したり、チンピラ紛いの事をして事件を起こしては、後始末を帝国にさせている。
そんな事が続き、何度か彼らを牢獄に入れるという話になったらしいのだが、彼らは自分達が無理矢理連れてこられた事を言い分に、元の世界へ返せと無茶を言って、それが無理なら自分達のやる事に口を出すなと要求したらしい。
私達が勇者として協力している分には、帝国側は彼らの要求に逆らえなかったらしく、見て見ぬフリをするしかなかったようだ。彼らを捕まえて私達の反感を買うのを恐れたらしい。
しかし、この場にいる殆どの者は反感など覚えないだろう。むしろ、捕まえて欲しいと思ってるが、誰も口には出したりしない。
私も含めてあの二人が怖いんだと思う。先日死の恐怖を味わってからは特に。
一方で二人に虐められていた山口君は部屋に引きこもったままで一向に出てこない。何度か部屋に話をしに行ったが、出てきてはくれなかった。
だけど、彼は勇者の役目とは別のところでこの世界に貢献しようとしている。
非科学的なファンタジーが満ちるこの世界に科学を持ち込もうと、騎士を通じて色々と研究しているらしい。あんな事があったのだから、外に出る事を怖がるのは仕方ない。だけど、何らかの形でこの世界に貢献しようとしているのは立派だと思う。
「では、まずは素振りからと言いたいところですが、その前に、皆さんにお知らせがあります。実は急遽所用が入りまして、申し訳ありませんが明日から暫くの間訓練はお休みになります」
レーナ先生からのお知らせはお休みについてであった。レーナ先生の所用については詳しくは話してくれなかったが、私達は深く考えることなく純粋に喜んだ。
「休みなんて久しぶりね」
毎日続く訓練に辟易していたのは私だけではないだろう。自分達の命がかかっていなければ、ズル休みぐらいしていたかもしれない。
そんな時に休みを貰えるのは非常に有難い。明日は久々に街にでも出てみよう。
そんな風に明日の予定を考えながらの訓練は楽しかった。皆も訓練に身が入らない様子で、レーナ先生からは少し怒られたが、高校生の私達にそれは言っても栓なきことであった。
〜〜〜〜
「動き出したな」
予定通り。空間から伝わる感覚が、街へ繰り出す勇者達を捉えた。
今いるのは作戦本部と名付けた宿屋の一室。『刻印の殺人鬼対策本部』の垂れ幕を部屋の前に掛けたい衝動を抑えつつ、千里眼で勇者の特定を行う。
部屋の中央に置かれたテーブルの上に簡略化した地図を広げ、その上には勇者達の名前が書かれた駒が置かれている。
千里眼で捉えた勇者の駒を動かし、地図の上に置く。さすがに一度で全員を見張るのは不可能な為、代わり番こに見張るつもりなのだ。これはその時見失う事がないよう即席で作ったものである。
「如月グループは街の中心へ向かってるな」
俺は進行方向と、明らかに遊びに向かう雰囲気から目的地を予想し、彼女達のグループは白だろうと考えた。それは実際に対峙して、その体格から殺人鬼は男であると目星を付けていたからでもある。
まぁ、一応見張りはするんだけどな。
「おっ、今度は春樹グループか」
あいつは人殺しなんてするタイプじゃなさそうだが、勇者達の中じゃ一番強いらしいし、念の為警戒はしておこう。
そんな風に街に出て行く勇者達を勝手に危険度別に分けて、注目度合いを変えていく。中でも一番危険視しているのは、海堂と倉田の二人組だ。
あいつらは昔から弱い者いじめが好きだった。最近も街を荒らして回っているらしいし、どちらかが殺人鬼であってもおかしくはない。
ただ、どうもしっくりこない。あの二人があの狂気的な殺意を作り出せるとは思わないのだ。むしろ普段は大人しく真面目であるのに、殺人衝動が抑えられない。そんな感じの人間の方が、狂気的であるように思える。
これだから、犯人を特定できない。相手は慎重。こちらも慎重にいかなければ尻尾は掴めない。
「海堂と倉田は裏町か。怪しいな。セシル頼めるか?」
「ククッ、了解した」
別の犯罪を犯しそうな二人には、魔王でもない限り無敵のセシルを送り込んだ。あの気配を察知出来る輩なら、それだけで殺人鬼ほぼ確定だが、小物臭漂うあの二人に関しては杞憂であろう。
「……あいつらは中心街以外行くとこはないのか」
城を出た勇者達の足取りが一定方向で、小物二人組以外は中心街に集まろうとしていた。何のためにこれを用意したのやらと、昨晩せっせと作った駒を見て内心溜息をついた。
「じゃあ、ルクセリアは中心街を見て回ってる体で、勇者達の見張りを頼む」
「了解した」
二人が出て行った後、俺は中心街と裏町、それから城に残った勇者達に目を光らせた。中心街勇者勢は、至極平和にまた、楽しそうに街を歩いていた。一方で、小物勇者達は既に二回揉め事を起こしている。後でレーナさんに報告だな。
しかし、どこも殺人を起こすような気配はない。
「やっぱ夜にならないと動きはないか……」
そう思いつつも、手掛かりを求めひたすら彼らの動きを注視し続けた。何時間も人が遊ぶ様を見ているのはとてもつまらない。だが、退屈ではなかった。少しずつ答えに近ずいている実感があったから。
セシルの集めた大量の情報、被害者の身の上と刻印の文字、それからこの世界に来てからの勇者達の情報が、頭の中で螺旋を描くように絡み合い、横槍を巻き込んでいく。
己が知識と、情報の共有。その螺旋の渦が、一つに纏まりかけた時ーー
夕刻を知らせる鐘が、長い夜の到来を告げた。
〜〜〜〜
帝都の中心街。そこは、洋服店が数多く立ち並ぶ女子には嬉しい場所であった。煌びやかな装飾品や、お洒落な服が店頭に陳列し、お客を取り合う激戦区。呼び込みや、チラッと視線を向けただけでしつこく絡んでくる店員を受け流しながら、私達は久々の休みを満喫していた。
時折、喫茶店のようなお店で異世界料理を堪能しつつ、帝国から支給されたらお金で、ショッピングを楽しむ。日本とは素材もデザインもまったく異なる服。新しいゲームを買って貰った子供のように、私達は夢中で試着して回った。
「結衣〜、今日は外でご飯食べてくでしょ?」
「ええ、そうね。せっかくだから、この世界の下町の料理も食べて見たいわ」
友達の確認に私が頷くと、既に他には確認を終えていたのかすぐにお店を探し始めた。異世界語が読めない私達では何が書いてあるのかわからないので、ブラブラと歩き、中から漂ってくるお腹を刺激する匂いにつられて、少し寂れたお店の前で立ち止まる。
「ここにしよ!」
「えっ、ここなの?」
「だって、こういう一見寂れてそうなとこの方が実は名店っていうパターンあるじゃない」
恰幅のいい友人は、日本にいた頃から色々な店を歩き回って、隠れた名店を捜すのを趣味としていた。そんな彼女が名店かもしれないと勧めるのだから、私も他の友達も拒否する理由はない。ただほんの少しばかり怖いと思っただけ。
自分自身が怖がりである事は自覚している。だから、余計な心配だとみんなの後について、中へと入る。
お店の中は定食屋さんの様に木で出来た机と椅子が立ち並び、帝城の50人以上並んでも余裕のある長いテーブルの上で食事するのとは雰囲気からして違っていた。
友達全員でテーブルを囲んで食事する。それがとても懐かしく、暖かった。
みんな家族とも離れ離れになって、知らない土地で魔物と戦って不安なのだ。自分達が元の世界に生きて帰れるのかと。だけど、勇者としての仕事をしないと、きっと私達を元の世界へは戻してはくれない。
みんな我慢してる。本当は怖くて放り投げてしまい気持ちもあるが、帰る為に頑張っているのだ。
だから、ほんの僅かな時間だけど、日本にいた頃を思い出せて、嬉しかった。私達はきっと帰れる。そう希望を持てた。
ーーだけど、それは甘い見通しだった。
私達はまだ知らなかった。
真に恐れるべきは、魔物や魔人ではないという事を。
私達は気付いていなかった。
地球と異世界がなんら変わらない悪意に満ちている事を。
夕刻を知らせる鐘の音。
凛と響くそれは、夜が近い事を知らせる街全体に伝わる大きな鐘の音。ただ何時ものように、その鐘の音を聞き流す私達は、近頃、その鐘が市井では特別な呼ばれ方をしている事を知らなかった。
ーー刻印の鐘。
殺人鬼が動き出す時間を知らせる警報。
そうとも知らず、夜の街を遊び回る私達。きっとこの時から、私達は獲物であったのだろう。世界に満ちる悪意の。
無知な私はあろうことか自らその悪意に絡め取られた。
辺りはすっかり夜の闇に覆われ、民家の明かりで薄暗く街が照らされていた。昼の活気溢れた街並みはすっかりなりを潜め、すれ違うのは帝国兵士ばかり。
厳戒体制という言葉が頭をよぎる。
その街の変化に嫌な雰囲気を感じ取った私達は、帝城に戻ろうと踵を返した。
「ねぇ、あれって……」
すると、友達の一人が路地の奥を見つめ、何かに気付いたように声を潜めて耳打ちしてきた。
私がなんだろうと、その視線の先を辿るとそこには海堂と倉田の二人。そして、その二人に脅される男性の姿があった。
「どうする?」
初めに二人に気が付いた子が、迷いながら私達に判断を仰いできた。それに応えたのは、趣味が名店巡りの女の子。彼女は戸惑いもせず、止めようと言って二人に近ずいていく。
「ちょっと止めなさいよっ! あんたらまたこんな事して、恥ずかしくないの⁉︎」
「あぁ? ……またお前か、如月」
唾を吐き捨て、止めに入った彼女ではなく、その後ろにいた私を睨む海堂。その後ろで、面倒そうに舌打ちする倉田。
「チッ……おい、運が良かったな」
倉田がパッと男性から手を離すと、男性はチラッと私達を見やり、ほんの一瞬、歯を見せた。それは瞬く間の出来事であったが、何故か悪寒を感じずにはいられない、そんな笑みであった。男性はすぐに元の怯えた表情を戻したが、私の心がすぐにここを離れるべきだと警鐘を鳴らす。
「最近、あんたら二人調子に乗り過ぎでしょ。訓練にも来ないし、人に迷惑ばっかかけて最低よ」
「うるせぇな、ブタ女。帝国が自由にしていいって言うから、そうさせて貰ってるだけだろ」
「だいたいお前らこそ、ウゼェんだよ。魔王倒して、この国を救うんだーって、馬鹿みたいな事にやる気出してんじゃねぇよ」
男性の笑みには気が付いていない様子で、3人は正面切って言い争った。三人の剣幕が言葉を交わす度に酷くなる。
このままでは離れるどころか、ケンカになってしまう。私がそう思った時には既に手遅れであった。
友達を止めようと伸ばした手が彼女の肩を叩く前に、拳が彼女を顔を叩いた。
「鬱陶しいんだよ!ボケがっ!」
海堂が目を血走らせて、友達を殴りつけた。殴られた友達は鼻血を流し、地面に倒れた。その彼女にまだ手を出そうとする海堂。私は友達を庇い、彼らの前に立ち塞がった。
「やめなさいっ!女の子の顔を殴るなんて、それでもあなた達男なの⁉︎」
怖かった。私も殴られるかもしれないと。しかし、それは決別しなければならない弱い私の現れ。なんだかんだ言いながら私に救いの手を差し伸べようもしてくれる春樹なら、私の髪を綺麗だと言ってくれた嶺自なら、彼らのように強い人間なら友達を見捨てたりしない。
そんな思いで震える足を押さえつけた。だけど、弱い私は彼ら二人を止める事など出来なかった。
女の子だからと手加減する気持ちを持ち合わせている事など期待はしていなかった。だけど、もう少しぐらい抵抗出来ると思っていた。
「うっ……!」
たった一発。
それだけで、私は動けなかった。怖かったのもある。だけど、それ以上にこの世界のステータス差が、理不尽に私へと降りかかった。
「テメェら、俺らの事舐めんてんだろ? 訓練に出てっからって調子に乗んなよ」
「う、ぁあっ」
海堂の足が私の頭を強く踏み躙る。理不尽な暴力に晒され、動けない私は涙を流しながら、痛みに耐えていた。
そんな私の目の前に、鈍く光る剣先が突き立てられる。
「お前らが仲良く模擬戦なんてくだらねぇ事やってる間、俺たちゃずっと魔物を殺して回ってたんだぜ?」
「ハハッ、ほんと弱えなお前ら。そんなんで勇者とか名乗って恥ずかしくねぇのかよ。てか、何でまだ勇者なんかやってんだよ? あんなの程のいい兵隊だろうが」
馬鹿にして、煽りを入れる倉田。くっと悔しそうに歯をくいしばる友達は、剣を向けられて人質に取られた私を前に、何も出来ないでいた。
そんな彼女達を見て、下卑な表情を浮かべた海堂が私の命を引き換えに、卑猥な要求を突き立てる。
「如月を殺されたくなきゃ、全員ここで裸になれよ」
「ハハッ、そりゃいい。ついでに踊れよ」
興が乗ったとばかりに、倉田は笑うと自分の要求を更に上乗せする。剣先を私の首筋に向けた海堂。それが、明確な脅しになって私の友達を苦しめる。
やがて覚悟を決め、泣きそうな顔で服に手を伸ばし始めた友人を見ている事しか出来なかった私は、唇を噛み締めた。
怖い怖い怖い怖い……
悔しさと恐怖から、涙が溢れ出た。その涙が引き金になり、気が付けば私は叫んでいた。
「逃げて! 私の事はいいから逃げてっ!」
体が小刻みに震えていた。目の前の剣がとても恐ろしかった。だけど、それ以上に自分のせいで友達が傷付くのはもっと怖くて、悔しかった。
しかし、それは友達も同じで、私の叫びを無視して服のボタンを外していく。
そして、最後のボタンが外され、海堂達の顔が醜く歪んだ時。
「結衣に何してやがんだ、ゴラァ‼︎」
怒鳴り声がその場に割り込んだ。鬼の形相で、激しく怒りを露わにする春樹が、猛スピードで走り来る。
春樹が助けに来てくれた。私はそれだけで震えが収まった気がした。だけど……
「動くんじゃねぇ! 動いたら、如月を殺す‼︎」
私の首元に刃を当て、海堂は春樹の動きを止めた。
「ふざけやがってっ……!」
口で二人を罵りながらも、春樹もまた手が出せない状態に陥った。
春樹は手の出せない状況で、ひたすら倉田に嬲られる。前にやられた仕返しだと、散々な仕打ちを受けていた。腕の骨を折られ、足を斬り付けられ、立っていられなくなっても、声さえ漏らさず耐える春樹。
「やめて! お願い、もうやめて‼︎」
ただ泣き叫ぶ事しか、私には出来なかった。足の一本さえ、どかす事の出来ない非力な腕。情けなさが、虚脱感となって全身を駆け巡る。
大きく蹴り飛ばされて、白目をむく春樹。全身傷だらけで、手や足はあらぬ方向に曲がっている。
全て私のせいだ。私が不要な勇気を出したせいで、友達も春樹も、この二人の良いようにされる。
けど、私が消えたら……
私はそっと目を閉じ腕を、凶器にーー
「あがっ⁉︎」
唐突に頭の重みが消えた。人が崩れ落ちる音に私は恐る恐る目を開け、刹那の間に凍りつく。
「ヒヒヒッ、勿体無い勿体無い」
寒気のする声音。その場にいた誰もが一瞬にして動きを止めた。
私を踏みつけていた海堂の体は、血だまりの中に倒れ身動き一つ取らない。それもそのはず。
海堂の首の先にはあるべきものが付いていなかった。
ゴロゴロと目の前に転がる一瞬の苦痛に凝り固まった顔。その表情が変わる事はもう二度とない。
友人とはとても呼べない相手であっても、顔見知り以上に関わってきた相手が、ほんの一瞬の間に命を刈り取られた。
鼓動がこれ以上ないほどに、速く激しく時を刻む。喉は空気を押し返し、足りない酸素を求めて呼吸が速くなる。
限界まで見開かれた目からは、切断された首から流れ出た血が、地面に血溜まりを作る光景が焼き付けるように色濃く流れ込んでくる。
「獲物が一匹減るところだったじゃないですか」
凶器に染まる男の顔。それは、先程私が恐怖を感じた男性のものであった。彼の手には、血濡れの凶器。刃渡り30センチ程のナイフが、それよりも遥かに大きく硬い剣よりも恐ろしく感じられた。
刀身を流れる血水が、曲線を描き先端からポトポトと私の頬に落ちる。
口がカクカクと音の出ない言葉を発する。逃げなければいけないのに、体が小刻みに震えて動いてくれない。
男は、S級の魔物よりも、魔人よりも、より濃密で、おぞましい死の気配を纏っていた。私はその気配の前で、ただの獲物と成り下がっていた。
「ヒヒヒッ、若い血肉がこんなに沢山。きっと貴方達を殺すのは気持ちいいのでしょうね」
男の目は絡みつく触手のようであった。その触手は私達に絡みつき、声を発する事さえ叶わない。息が止まるかという殺気と狂気を身に受けて、体が凍ったように冷めきり、動かない。
ゆっくりと男の体が動き、這い蹲る私の前でしゃがみ込むと、私の白い髪を掬い上げて、匂いを嗅ぐ。
ゾワッと悪寒が全身に駆け抜け、鳥肌が浮き立つ。それでも、私の喉は悲鳴を出してはくれなかった。
視界がぼやける。それは、呼吸がままならないからなのか、それとも眼に水滴が浮かんだからなのか、あるいはその両方か。
歪んだ視界の中で、男は笑う。その笑みは、獰猛な魔物よりも、口が裂けた魔人よりも恐ろしい、狂気的に歪んだ笑みであった。
「綺麗な髪ですね」
深淵に染まる光を失った瞳。絶望が足から這い上がってくる。
「98人目は、貴方にしましょうか」
完全に息が止まった。肺が痙攣でも起こしたかのよう、飲み込んだ空気が押し戻される。
「ヒヒヒッ、息が苦しいのですか? なら、その胸を開いて空気を入れてあげましょう」
死の恐怖が、身を締め付ける。赤い凶器が感触を確かめる様に、ゆっくりと近ずいてくる。
「た、助けて……」
「ヒヒヒ、貴方のナイトはもう動けませんよ」
ようやく出た弱々しい声。それが出た時には、既にナイフの先が、服に突き刺さっていた。服の繊維のなけなしの抵抗が、最後の砦。しかし、その砦は脆くほんの少しの時間稼ぎにもならなかった。
冷たい刃の感触が肌を通して、全身に伝わる。
誰か、誰か、助けて……
「ヒヒヒ、若い娘の柔肌を刺す感触は……!」
男が何か言おうとした時ーー目の前で男の瞳が見開かれた。そして、次の瞬間には男の体は遠ざかり、刃もまた胸から離れた。
冷たい金属の感触が、突然跳ね除けられたと同時に、空気が一変する。
「殺人鬼、みーつけた」
そんな呑気な口調に反して、その言葉に乗る殺気にわけもわからず背筋が伸びる。殺人鬼を圧倒する濃密な殺気が、凍えた空気を業火のように燃え滾らせた。




