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118.異世界へ……

 憂鬱な朝。

 そう表現するには軽い、息が詰まりそうな朝。まだどんよりとした、ともすれば小雨が降るような天気ならば、少しは気が紛れてくれそうだ。しかし、人の気も知らないで、空は青く澄み渡っている。


「もう一年経ってしまったのか……」


 窓の向こうに見える空の彼方に、もう存在しない彼の姿を映し、私の新しい1日が始まる。


「……酷い顔」


 窓に映った自分の顔が余りにも不細工に見えて、思わずそう呟いた。

 血の気のないは言い過ぎかもしれないが、生まれつき白い肌と色の薄い銀髪の毛。それに、寝不足からくるクマが目元に浮かび、とても酷い顔つきだ。まるで死人のよう。

 しかし、今日は明るい顔よりは、まだ酷い顔の方がいいのかもしれない。明るく振舞っては、きっと彼が悲しむ。自分はもう忘れられてしまったのかと。


 私は、気怠げな体を起こし、身支度を整える。今日は、仮病でも使って休みたい気分だが、そういうわけにもいかない。

 学校に行かなければ、出来ない事もある。そして、それが恐らく唯一、私達と彼の間に残された繋がりなのだ。


 私は身支度を整えると、朝食も取らず玄関へと向かった。今日は食欲がどうしてもわかないのだ。


「結衣、もう学校に行くの?」


 顔も合わせず学校に向かおうとした私に、母が心配そうに声を掛けてきた。


「ええ。……今日は、彼の1周忌だから」

「そう……ね。これ、私達のも頼めるかしら?」


 そう言って母が手渡してきたのは、花束だった。お祝い事の時に贈るような華やかなものではない。質素で、それでいて控えめな死者の冥福を祈る白い花束だ。

 私は無言でそれを受け取ると、


「行ってきます」


 静かにそれだけ言って、家を出た。

 まさかそれが長い別れとなるとは露ほども思はずに……



 〜〜〜〜



 ーー1年前。


 ある殺人事件が私の家の近くで起きた。殺されたのは、私と同じ高校に通う高校生だった。

 1年前の丁度、今時分の朝。学校への登校中、通り魔に刺され、この世を去った。当時、それは悲惨な事件として多くのニュースで取り上げられ、彼の死は日本中に知れ渡った。


 しかし、1年も経てば彼の死を覚えている者など殆どいないだろう。それに、覚えていたとしても、瀕死の重傷を負いながらも、周囲の人々に被害が広まるのを阻止した勇敢な青年がいた。

 それぐらいしか、頭には残っていないだろう。


 彼の顔も、名前も、どんな人間だったか覚えているのは、10人いればいい方か……


 冬の朝の冷え切った風が、無機質なアスファルトの上を流れていく。小学校に向かう子供達が、その冷たい風にも負けず、元気に来週に迫ったクリスマスについて、楽しげに会話しながら、横を通り抜けていく。

 そんな彼らの弾むような足取りとは違い、私の足はトボトボとまるで浮浪人のようにおぼつかない。


 手に抱えた花束と、学校の鞄に刺した一輪の花。

 それを持って、私が向かったのは彼が最後にいた場所。

 そこは、学校へ向かう途中にある交差点。自動車やバイクの音でいつも騒がしい。死を悼むには少し不相応な場所だ。


 交差点には、学校に向かう小中高生が信号待ちをしていた。その彼らの視線は、道路の脇の電柱の前で、座り込み手を合わせる青年に向いていた。彼の前には、ひっそりと花が供えられていた。


 私は後ろから、彼ーー久城春樹に近付いた。すると、私の足音に気が付いたのか、手を膝に下ろし春樹はゆっくりと振り返る。

 春樹は一度私の顔を見て、それからすぐに視線を歩道へと落とす。


「……お前も来たのか。あいつに会いに」

「ああ……すまない。私なんかが……」


 私も春樹の顔を直視する事は出来ず、目を逸らす。


「別に……そんな事言ってないだろうが……」


 頭を掻きながら歯噛みするように春樹は呟くが、逸らされた目が私に向く事はなかった。


「私も彼の冥福を祈ってもいいだろうか……?」

「俺に聞く事じゃないだろ……したけりゃすれば勝手にしたらいい」


 春樹はそう言うと立ち上がってそこを譲ってくれた。私はありがとうと一言お礼を言ってから、母から手渡された花束と、一輪の白い花をアスファルトの地面の上に並べた。

 そして、手を合わせ祈ろうとした時、後ろから声が掛けられる。


「なぁ……なんて言うかさ……やめないか、こういうの? あいつの事で、ギクシャクして……いや、それもあいつのせいにするの、やめないか?」

「…………」


 私は無言で春樹の言葉を受け止める。


「あの頃から、お前は変わり過ぎて別人みたいだし、あいつはもういないし、昔みたいにってわけにはいかないだろうけどさ……俺、こんな風にお前とギクシャクしたままなのは嫌なんだわ」


 そう、素直に自分の気持ちを春樹は言葉にするが、私は黙り込んだまま答えられない。


「…………」

「何とか言えよ。独り言みたいで、恥ずいだろ」


 そう、答えを催促する春樹。私の瞳は答えを探すように花束へと向けられていた。


「私は……弱い。春樹や、彼のように強くはなれない」

「俺もあいつも、強くなんかない」


 春樹はすぐに私の言葉を否定するが、彼の死を受け入れ前に進もうとする春樹は、私からすればとても強く映っていた。それは、この世にはいない彼も同様に。


「いいや、強い。幾ら、言葉遣いを、態度を変えようと、私の中身は昔から変わらない。ただのいじめられっ子のままだ。そんな私が、春樹や彼と一緒にいたのが、間違いだったんだ。だから、彼はこんな事に……」

「いい加減にしろ!」


 自分を責め立てようとした私に、春樹は怒鳴り声をあげた。


「あいつが死んだのは、通り魔に襲われたからだ! それ以外に理由なんてない! 何でもかんでも自分のせいにして、自分を追い詰めて、お前は何がしてぇんだよ!」


 耳が痛い。彼の言葉が痛い。

 やはり自分はあの頃から何も変わっていない。本質的なところで、私は弱い。

 1年経とうと死に向かい合えず、しまいには幼馴染に怒鳴られるほどに悲観的で弱い私は、心底自分自身が嫌になった。


「……いつまでそうしてるつもりだよ? お前、言ったよな。あいつが死んだ時に」

「…………」

「後ほんの少し勇気があれば、こんな事にならなかったかもしれないって。なら、どうにかしようと思わないのか?」

「……もう手遅れだ。それで、彼が生き返るわけでもない」


 そう、もう何もかもが遅い。たらればの話をしたところで、私達が失った時はもう戻らないのだから。


「なら、何で今日来たんだよ。向かい合おうとしてるんじゃないのか?」

「…………私は許されない事をした。春樹にも、彼にも。だから……」


 そう、全ては私のせい。あの日、私が逃げたから、私達の関係は変わってしまった。その周りもすべて。

 その私が狂わしてしまった歯車が、彼を死に導いたのだ。


「俺は、もう怒ってない。何でお前が俺達を避けてたのかも、わかってる。けど、もういいだろ。いつまで一人でいようとしてるんだ。あいつはもういないけど、その分昔みたいに俺達二人が笑い会えるような関係に戻らないと、あいつも浮かばれないだろ」


 胸がキュッと締め付けられる思いだった。

 私はそんな胸を手で押さえるようにして、震える声で自分本意な思いを打ち明けた。


「……わかっている。そんな事は頭ではわかっている。だけど、怖いんだ。恐ろしいんだ。春樹といることで、彼を思い出してしまいそうで……怖いんだ」


 私はすごく臆病だ。

 だから、彼に共にいることが怖かった。それがまたなかった事になるのではないかと。


 気が付けば私は二人を避け、一人になった。

 けれど、彼への恋心を忘れられず、悶々とした日々が続いた。

 そんなある日、私は強くならないといけないと思った。

 春樹は以前と変わらず、彼と接しているのを見て、それが強さだと思ったからだ。


 だから、私は今までの弱い自分を捨て、生まれ変わろうと努力した。弱気な性格を強気な態度と言葉で偽り、抑え込んだ。そうする事で強くなろうとした。

 しかし、私の本質はどこまでいってもひ弱ないじめられ子のままで、昔と何一つ変わらなかった。


 気が付けば、私は往来で涙を流していた。ボロボロと雫が地面に落ちて、嗚咽が口から漏れる。


「……そっか……そうかもしれないな」


 春樹は、そんな私に静かに言葉をかけた。


「けど、それに立ち向かう勇気が出たら、お前から話しかけてくれよ。お前の気持ちが落ち着いてからでいいからさ」


 春樹は、私にハンカチの代わりに、部活で使うタオルを手渡して青になった横断歩道へと歩いていく。


「久しぶりに、昔のお前を見れたみたいで、嬉しかった」


 そう言葉を残して。


 残された私は、涙が止まるまで、彼が死んだその場所から動けなかった。



 〜〜〜〜



 人は簡単に死ぬ。

 食事を取らなければ、栄養失調で死ぬ。頭を強く殴られれば、脳に損傷を受け死ぬ。毒を口に含めば、気付かぬうちに死ぬ。


 人は簡単に死ぬ。

 だけど、人の死がもたらす悲しみは、簡単には表現出来ない。

 その人が自分にとって大切であればある程、悲しみは深く、また度し難い。


「じゃあ、みんな彼の冥福を祈りましょう」


 黙祷。

 担任の先生の言葉を受け、私達は静かに目を閉じ彼へと祈りを捧げる。

 しかし、いったいこの中で、何人が覚えているのだろう。


 いつも窓際の席で、何処か遠い場所を見ていた彼のことを。

 昼休みは決まって、教室からいなくなり、屋上で一人昼食を取っていた彼のことを。

 行事にも一切参加せず、放課後も部活に行くわけでもなく、すぐに帰路に着いていた彼のことを。

 今この場で思っているのは、私と春樹の二人だけかもしれない。


 誰も彼と関わりなどなかった。

 彼と周囲との壁は厚く、誰も壊せなかった。

 たった一人、壁を壊すのではなく、乗り越えていった春樹も、ふとした時、晴れない表情を顔に出していた。

 そんな二人の様子を、私は遠くから眺めていただけだ。


 彼に家族はいない。もう二人とも亡くなった。

 彼に友達はいない。人を避けていた。

 だから、たぶん彼が生きた証は、幼馴染の私と春樹にしか残っていない。


 ーーもう一度、君に会いたい。


 心の声は、冥福ではなく、ただの祈りであった。


 瞼を開き、教卓の上に置かれた彼の遺影を眼に映す。入学時に取られた無表情な彼の顔。

 その顔を、今この場で見ているのは私だけだろう。先生を含め他のクラスメイト達は、まだ黙祷を続けている。


 だから、それを目に出来たのは、私だけ。


 彼の写真が歪み、ほんの一瞬笑ったかのように口元の頬がつり上がった、かに見えた。


 そして、次の瞬間には、私達は眩しい光の中に飲み込まれていた。


「な、何⁉︎ 何が起きたの⁉︎」

「あ、ああいつの呪いか⁉︎」

「ば、爆弾じゃないのか⁉︎」


 光の中で、クラスメイト達の悲鳴だけが聞こえる。突然のことで、誰も冷静さを保てていなかった。

 そんな中で、私だけは……


 嶺自なのか……?


 そんな馬鹿な考えを巡らせていた。


 ーー光が晴れた時。


 私達は、幾何学模様の描かれた床の上にいた。周りには、杖を片手にまるで魔法使いような風貌の人達と、鎧を身に付け腰に剣や、背中に槍を下げている人達が、私達を囲むように立っていた。


 その中で、唯一物騒なものを身に付けず、お姫様のようなドレスを着ている女性が、混乱と恐怖の中にいる私達へと優しげに微笑みかけ、静かにけれどハッキリとした口調で、言った。


「ようこそいらっしゃいました。異世界の勇者様方」


 私が、異世界転移したのだ理解したのは、それから一週間が経過してからのことだったーー



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