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113.無慈悲な笑顔

残酷な描写があるので、苦手な方はお気を付け下さい。

次話の冒頭で簡単なあらすじは入れます。

 

 ーーこの国はおかしい。


 私が初めてそう思ったのはいつの頃だったろうか?

 それは遠い昔の記憶に思える。


 あれは私が10歳の頃だったか。


 当時の私は同い年の奴隷の少女に恋をしていた。我が家で雇われていた奴隷の少女だ。彼女はいわる高級奴隷といわれる(・・)だった。


 彼女に名前はなかった。身の上話も聞いた事はなかった。ただ、私の親に高い金で買われた奴隷という事しか知らなかった。


「全くこの出来そこないは……満足に掃除も出来ないのですか。親方様が高い金を出してお前を買ったのだから、いい加減掃除ぐらい満足にこなしなさい」

「申し訳ありません……メイド長」


 私の家は有り体に言えば、いわゆるお金持ちだった。この国では珍しく毎日三食食事を取れ、更にメイドも奴隷もいた。

 それは、私の父がこの国の政治を担う大臣であったからだ。その権力はこの国の王よりも強かった。もはや父がこの国の王と言っても過言ではない程に。


 だから、私に対しての教育もかなり厳しいものだった。幼い頃から剣を学ばされ、勉強も毎日夜遅くまでさせられていた。

 そんな私の心の拠り所が彼女だった。毎日、一生懸命に働くも幼さからか失敗も多い。その度にメイド長に頭を下げる彼女に近似感を覚えた。


「もういいから、皿洗いでもしていなさい」

「はい……」


 私は優秀ではなかった。だから、何故出来ないのだと父の癇に触る事が多々あった。そんな私と彼女は似ていると子供ながらに思ったのだ。


 しかし、私は臆病者で彼女に話しかける勇気がなかった。毎日、私は物陰から彼女を見詰める日々を送った。


 彼女は働き者だった。目端が効き細かい所まで掃除をして、偶に他のメイド達がやり忘れた仕事まで自分から行っていた。しかし、誰もそんな働き者の彼女を褒めたりはしなかった。

 それが幼い私には不思議に思えた。


 彼女が少しでも失敗したら誰も彼もが声を荒げて、時には拳を振るって怒るのに、誰一人として彼女を褒めたりはしない。

 そこが私とは違った。私は父にも、指導をしてくれる師にも、褒められた事はあった。また褒められたいと頑張る事が出来た。


 だが、彼女は叱られる事しかないのに何故あんなに頑張れるのだろうか?

 私はますます彼女に興味を持った。


 そして、私はとうとう物陰から彼女の前に歩み出た。


「やぁ」


 私が片手を上げ話しかけると、少女は掃除の手を休め頭を下げた。頭を下げる前に彼女が見せた表情は酷く無表情なものだった。


「これはルクセリア様。何か御用でしょうか? それならば私のような奴隷などではなく、メイドを呼んで参りますが?」

「いや、呼ばなくていいよ。君に用があるんだ」


 この時私は酷く緊張していた。顔には出さなかったが、心中は穏やかならざるものだった。


「私に用でございますか?」

「あ、ああ。いや、毎日頑張っているなと思って。毎日、私達の世話をしてくれてありがとう。君のお陰で私は毎日気持ちよく勉強も剣の稽古も出来ているよ」


 私は私なりに勇気を出して、日頃の感謝を彼女に伝えた。褒めるとは少し違うけど、彼女がこれで頑張れればいいと思っての事だった。

 しかし、彼女は相変わらず無表情な顔で、


「私は奴隷。ルクセリア様がそのように御心を痛める必要などありません。失礼します」


 そう言って一礼して去っていった。

 私はそれを呆然と見ていた。当時の私が想像した反応と、彼女の取った行動が違い過ぎたからだ。


 私はこの日初めて、奴隷という身分に触れた。



 それから少し時が流れた。

 あの日以来、私は何度も彼女に話しかけては、日頃の礼や彼女の仕事振りを褒めていた。それで彼女が前と違う反応を見せる事はなかったが、一度話しかけて仕舞えば、ハードルが下がるというのもあって、折を見てはそんな事を繰り返していた。


 そんなある日、その光景を見ていたメイド長に声を掛けられた。


「ルクセリア様、あの奴隷が何か失礼をなさいましたか?」

「ううん。日頃、彼女にも、メイド長にもお世話になってるからね。お礼を言っていただけだよ」


 私は特に隠す事なくありのままにメイド長へ伝えた。


「なんとお優しい。しかし、奴隷に礼など不要です。奴隷は物です。物に礼を言う者などおりませぬ」


 メイド長はそう信じられない事を言った。幼い私はすぐにそれを否定した。

 彼女は人間だと。


「物? メイド長、それは違うよ。彼女は人間だ」

「いいえ、物です。ルクセリア様はまだ幼いですからお分かりにならないかもしれないが、彼女は人間ではなく物なのです」


 しかし、尚もメイド長は口調を強め、奴隷は物であるという考えを押し付けてきた。

 私は何も言わなかった。言えなかった。自分ばまだ幼く、知らない事が沢山ある。だから、彼女は人ではなく物なのかもしれないと思った。


 その日から私は彼女に話しかけるのを止めた。また物陰からひっそり見守る生活に戻った。

 それは彼女が人か物か見極めるつもりで取った行動だった。


 だが、幾らメイド長の言葉の通り彼女を物だと思おうとしても、私には一人の人間にしか見えなかった。

 せっせと床を掃き、窓や花瓶を拭く彼女は無表情ではあったが、無感情な物ではなかった。見せる感情は明るいものではなかったが、それでも彼女には心があった。


 そんな風に彼女の暗い感情ばかり見ていたからか、彼女が人か物か見極める事も忘れ、私は純粋に彼女が笑っている顔を見てみたくなった。


 どんな顔をして笑うんだろうか?

 可愛らしい笑顔なのだろうか?

 どうやったら笑ってくれるだろうか?

 と私は毎日のように考えるようになった。


 そして、その日がやって来た。

 私がこの国はおかしいと確信した日が。


 その日私はいつものように彼女を見ていた。最早彼女のストーカーと言っても過言ではなかった。


 彼女はいつもの無表情を顔に貼り付けて、屋敷の掃除をしていた。だが、毎日掃除をしていてはいずれミスは起ころうというもの。

 彼女はその日飾ららていた高級な花瓶を割ってしまった。


 ガシャァンッ!という花瓶の割れる音が屋敷に響き、すぐにメイド長が何事かと駆け付けた。


「何事ですか!」

「申し訳ありません……花瓶を割ってしまいました」


 奴隷の彼女は深く頭を下げ、メイド長に正直に謝罪した。しかし、その肩は震えていて何かに怯えているかのようだった。

 私はそれを見て、チャンスだと感じた。

 ここで私が彼女を助ければ、きっと笑顔を見せてくれるに違いない。そう思った。


 私は物陰から這い出て二人の前にやって来た。


「メイド長、済まない。私が走って通り掛かった時にぶつかってしまったんだ。つい怖くて隠れていたが、この子は悪くない。全て私が悪いのだ」

「る、ルクセリア様が? し、しかし…」


 私は嘘を吐いた。嘘を付いて頭を下げ、彼女を庇った。

 メイド長は私が頭を下げたせいで、奴隷の彼女を叱るに叱れなくなった。このままメイド長が私の謝罪を受け取ってくれれば、彼女はきっと笑顔を見せてくれるそう思った。


 だが……


「何事だ」

「お、親方様……」


 父の出現で事態は一変した。


「何事だと聞いたのだ」

「は、はい。実は……」

「父上! 申し訳ありません! 私が花瓶を割ってしまいました!」


 私はメイド長にありのままを話されては堪らないとメイド長の言葉を遮り、被せるようにして父に謝った。


 そんな私に父は眉を吊り上げた。そして、奴隷の少女を一瞥すると、吐き捨てるように言った。


「そこの奴隷を折檻部屋に入れておけ。きつく躾けろ」

「父上⁉︎ 待ってください、父上! これは私がやったのです! この子は何もしておりません!」


 冷酷な目で奴隷の折檻部屋行きを告げた父に私は食って掛かった。しかし、父は私の言葉など耳には入らないとばかりに、大きな声を上げ、私を叱りつけた。


「ルクセリアッ! 私の後継ぎがそんな事でどうするのだ! この場合、そこの奴隷が花瓶を割ったか等どうでも良いのだ! 奴隷は本来切り捨てる物、それを自分の非を認めて庇うなどあってはならぬ!」

「……ッ!」


 私は父の言葉に反論できなかった。何を言われたのか理解出来なかった。

 花瓶を割ったか割ってないかではなく、奴隷であるかそうでないかが重要なのだと言われた気がして。


 この時、私は奴隷がなんなのか漸く理解したのだ。

 奴隷は物で、使い捨てる物。

 人ではないそれ以下の物。


 なんだそれは……


 奴隷は、彼女は同じ人間なのに……


 奴隷の少女は私が父に叱られ立ち尽くしている間に、折檻部屋へと連れて行かれた。その体は酷く震えていた。

 私にはそれを止める事さえ出来なかったのだ。


 私は自分の部屋に戻り考えた。

 父の言葉を。


 私は当時はまだ父の事を尊敬していた。国の政治を掌る大臣である父を。

 だから、考えた。父が言った言葉を。

 だけど、私の心はそれを理解しようとはしなかった。それは私が不出来な人間だからだと思った。父のような立派な人間ならば、奴隷が物である事を受け入れられるのだ。


 そんな風に不出来な私は少女1人の笑顔を見る事すら出来ない。

 私はその日眠る事が出来なかった。



 ーー深夜に入る頃、私は部屋を抜け出し、折檻部屋の前に来ていた。そして、近くの壁に掛けられている鍵を使い扉を開けた。


 私はその光景を今でも詳細に覚えている。それ程その光景は私にとって衝撃的なものだった。


 奴隷の少女は、まるで人形のようだった。両手を壁に固定され、力なくぶら下がり、肉が抉られていた。体には同様の何かで体を切り抜いたような傷の他にも、切り傷や打撲の跡が無数に残されていた。

 床は彼女の血で真っ赤に染まり、女の子である彼女の体には何もかけられておらず裸だった。


 生臭い血の匂いと、何かが腐った臭いで鼻が曲がりそうになる。その匂いを乗せた空気はとても冷たく、服を着ている私でさえも寒さを感じた。


「…………」


 私が戸を開けた事に気が付いたのか、奴隷の少女は震えながら、顔を上げた。しかし、彼女の顔は特に酷かった。無残にも膨れ上がった瞼、歯は下に何本も落ち、髪は一部引き抜かれ頭皮からは血が滲んでいた。爪は何枚も剥がされ、とても痛々しい。


 私は吐いた。

 余りにも残酷な仕打ちに。


 これが奴隷……?

 人間に対する扱いじゃない……物だ。

 どうして、どうして、こんな事が出来るんだ……

 彼女は花瓶を割っただけなのに……


「うぅっ……」


 私は痛みつけられてもいないのに、涙が出てきた。何故涙が溢れ出てくるのか、私にはわからなかった。


 何故奴隷なんて身分があるのだ。

 何故人はここまで残酷になれるのだ。

 何故彼女の様な私と同じ子供がこんな目にあうのだ。


 おかしい。父は、メイドは、この家の者は、いや……


 ーーこの国はおかしい。


 私は泣きながら、その血塗れの部屋に入った。そして、彼女の拘束を解く。拘束を解いた瞬間彼女は崩れ落ちた。

 私はそれを抱き止める。


「済まない。君を助けてやれなかった。私は……無力だ」

「…………」


 私は彼女に涙ながらに謝った。彼女がこんな目にあったのは私のせいだと思った。

 私が彼女を救えなかった。私が父の言葉に反論できなかった。私が口を出したせいで父の目についた。


「…………る、ルク、セリア様、のせいで、は、ありません」


 風が吹けば掻き消えてしまいそうなぐらい弱い声で、彼女はそう言った。だが、私はその言葉を即座に否定した。


「いや、私のせいだ。全ては私が招いた事態だ」

「…………聞い、てもいい、ですか?」

「ああ」


 そんな会話を挟みながら、私は彼女部屋から連れ出した。あんな部屋に彼女を入れておきたくなかった。

 そして、廊下の壁に血だらけの彼女をもたれかからせた。

 そして、彼女と真っ直ぐに視線を交わした。


「……何故、奴隷で、ある、私に、優しく、して、くれる、のですか」


 彼女の右目は空いていなかった。左目だけを開け、私に問うてきた。


「それは……」


 私は言葉に詰まった。なんと答えるのが正解か、分かり兼ねていた。

 彼女が奴隷だから?

 彼女が同い年だから?

 どれも完璧な答えだとは思えなかった。


 強いて言うならーー


「私は君の事が好きなのかもしれない」


 この時初めて言葉に出して自覚した。そんな私の告白に、彼女は涙を浮かべた。


「あり、がとう、ござい、ます。そんな、事を、言われた、のは、初めて、です」


 私は泣いている彼女ではなく、笑顔の彼女が見たかった。だけど、この時ばかりは、泣いている彼女が笑っているように見えた。


「まずは怪我を治そう。これを飲んでくれ」


 私は泣いている彼女に小瓶に入った液体を差し出した。しかし、彼女は一人で飲む事は出来なかった。体が言う事を聞かないのか、手を震わせるだけだった。

 私はそんな彼女の手に自分の手を重ねると、優しく語りかけた。


「口を開けてくれ」


 私の言葉に唇を震わせながら口を開けた。私はその中に液体を流し込んだ。

 それは最高級のポーション。だが、この怪我は一本で治るものではなかった。私は部屋にあったありったけを彼女の口に流し込んだ。


 徐々に彼女の傷が癒えていく。だが、それは魔法のように完璧にではなく、抜け落ちた歯や髪、爪は元に戻らなかった。

 それでも彼女の震えは止まった。顔の腫れも引き、両眼で私を見詰めていた。

 そして、搾り出すように私にお礼を言った。


「ありがとうございます……」

「どこか痛い所はないか?」

「大丈夫です。痛みは引きました」


 彼女はまだ涙を流していた。だけど、その表情はいつもの無表情に戻っていた。

 感情と表情が合っていない。私はそう感じた。


「私は出来れば、君の笑顔が見てみたい。笑ってくれないか?」

「笑顔、ですか?…………こうですか?」


 そう確認してきた彼女の顔は何も変わっていなかった。無表情そのもの。

 それを私は悲しく感じた。彼女はーー


「申し訳ありません、ルクセリア様。上手く笑えません」

「いや……いつか笑ってくれればいいよ」


 ーー笑い方を忘れてしまっているのだ。


 私はそれが、先の仕打ちよりももっと残酷なものに思えてならなかった。


「はい。いつか笑えるように練習しておきます」

「ああ…………じゃあ、私は君に笑顔を見せてもらうお礼をしなくては。何か私にして欲しい事はないか?私に可能な範囲で」

「お礼? そんな物、奴隷の私に……」

「君は奴隷じゃない。人間だ。私と同じ」


 私は彼女の言葉に被せるように否定した。

 奴隷は人間。物ではない。

 それがこの日私が培った私の人生で最も価値のある価値観であった。


「……では、名前が欲しい、です。人間だという証拠が、私は欲しい」


 そんなものでいいのか、とは思わなかった。

 彼女の切なる願いは、自身の名前。私はこの時ほど人の名前を愛おしく思った事はなかった。


「ユイカ」

「ユイカ……それが私の名前……ユイカ」


 ユイカは噛みしめるように自分の名前を呟いた。


「ユイカは昔の言葉で『笑顔』という意味らしい。いつか君が笑えるように、そう願ってつけた」

「笑顔……ユイカ。ルクセリア様、この恩は一生忘れません。このユイカと言う名前を呼ばれる度にこの事を思い出します」


 今彼女は『笑顔』なのだろう。だけど、表情は固いまま。

 いつか彼女が心の底から笑える日が来るだろうか?


 ……いや、私が作ろう。


 私が彼女を笑顔にさせてみせる。


 私はそう決意した。


 だが、この時の私はまだ知らなかった。彼女の笑顔がどれほど悲しく、無慈悲なものだったのかを。


 私はその決意をすぐに行動へと移した。


「父上、夜分遅くに申し訳ありません」

「ルクセリアか。入れ」

「はい」


 私はユイカを私の部屋に寝かしつけた後、父の書斎へと向かった。

 まずは、この家の中から国を変える。


「失礼します」

「それで、何用だ? 子供が起きている時間ではないぞ。また明日も学ぶ事が多いのだ。早く寝なさい」


 父はまだ仕事をしていたのか、眼鏡をかけ何かに目を通していた。しかし、私が入ると眼鏡を外し私の顔を見て、小言のように叱ってきた。ただ、先の怒鳴るようなものではなかった。


「それは謝ります。しかし、今夜はどうしても眠る事が出来ませんでした。父の言葉を部屋でずっと考えておりました」

「そうか。ここに来たと言う事は私の言った事を理解したのだな?」

「いえ、逆です。父上の仰った事は間違いであると言いにきたのです」

「何?」


 父の目がギラつき細められた。あの目はいつも私を叱り付ける目だ。だが、私はひるまなかった。

 なぜなら、自分は間違ってなどいないと自信を持っていたから。


「奴隷は物ではありません。奴隷は生きています。私達と同じように怪我をすれば血が流れ、痛みを感じます。嬉しい時には涙を流します。奴隷は私達と同じ人間です」


 父は私をキツく睨んだ。だが、それでも私は父の目から目を離さなかった。それをどう感じたのかはわからないが、父は深い息を吐いた。


「……まだ早かったか。ルクセリア、今日はもう寝なさい。明日からは授業の内容を変える」

「父上、待ってください! まだ話は終わっていません! 彼女は物ではないと、そう認めてください!」


 私を部屋から追い出そうとする父上に私は喰ってかかった。しかし、それは父の一言で一蹴される。


「くどいッ! 今一度言おう。あの奴隷の娘は物だ。ルクセリア、小さい其方にはまだ理解出来ぬ事かも知れぬ。あの物が壊れかけたのを見て、私の部屋に入ってきたのだろう? だが、その優しさは要らぬのだ。もっと非情になれ。すぐには出来ぬだろう。だから、明日から其方にはその奴隷の娘を使って奴隷の躾方を学んでもらう」

「父上、いったい何を……」


 私はこの時、父が化け物に見えた。人を人とも思わない化け物に。


 私はその後すぐに父の部屋を追い出された。そして、父のお付きの男に部屋へ文字通り放り込まれる。


「だ、大丈夫ですか? ルクセリア様」

「ユイカ……ユイカ済まない。私はまた君を助けられなかった。むしろ状況を悪くした」


 放り込まれてきた私をユイカは心配してくれた。私は彼女にまた謝った。

 彼女を助けようとして、また状況を悪くした。


「謝らないで下さい。私の為に貴方が心を痛める必要はありません。私は貴方に感謝しているのです。だから、私なんかの為に謝らないで下さい」


 違う。私なんか、ではない。君が自分を蔑んでも、私は君の事を蔑んでなどいない。


「ユイカ、済まない。私の軽率な行動のせいで、君を辛い目に合わす事になる。父上……あの化け物は私に君を傷付けさせようとしている。奴隷の躾方を君で学ばせるそうだ。……済まない。本当に済まない」


 父が学ばせると言った。だから、私がどんなに抵抗しようと、父は私に無理矢理にでもユイカを傷付けさせるだろう。


「大丈夫です。私は貴方に躾けられるのなら、何も怖くはありません。だって貴方はとても優しいから。誰からも優しさを向けられなかった私に初めて優しくしてくれた貴方に躾けられるのなら、私は何も怖くはありません」


 相変わらずの無表情。だけど、ユイカの心が私に微笑みかけてくれている気がした。


 その夜、私達二人は抱き合って寝た。どちらも震えていたから。明日から始まる地獄の日々に。


 ユイカは痛みを恐れて。

 私はユイカを傷付ける事を恐れて。


 私は恨んだ。この国を。思えば、これが初めて私に生まれた強い負の感情だったのかもしれない。


 この日生まれた恨みはまだ消えていない。

 私の胸の奥底で消える事なく燃え続けていた。



 ーー地獄の日々だった。


 父から命を受けた男は抵抗する私の腕を掴み、何度も私にユイカを傷付けさせた。泣いて喚いても、男はやめなかった。

 私とユイカは毎日のように体を震わせながら、二人で寝た。そして、目が覚めるとまた始まる地獄の1日。


 日に日に傷を増やしていくユイカ。すぐに私の持っていたポーションはなくなり、私の拙い回復魔法で彼女を癒す日々。だけど、完全に彼女の傷を癒す事は出来ない。


 このままではユイカが死んでしまう。私はその地獄の日々で実感していた。


 だから、私はユイカを連れて逃げる事にした。もうそれ以外ないと思った。化け物の魔の手から逃れるには……


 私がその逃走計画を実行したのは、父がいない深夜の事だった。事前に二人で計画を練り、この日が一番見張りが少ないと判断し逃走を企てた。


 だが、所詮は子供の考える事だった。

 私達二人は屋敷の外に出る事さえ叶わず捕らえられる。

 そして、私達二人は縛りあげられ、父の書斎へと連れてこられた。そこで私達を待っていたのはーー


「な、何故、ここにいるのですか……?」


 父、否ーー化け物だった。


「所詮は子供の考える事。其方が考えている事など、私には手に取るようにわかる。その考えを誘導する事などもっと容易い」

「そんな……」


 私は目の前が真っ暗になった。私達は所詮父の手のひらで踊らされていたにすぎなかったのだ。


「ルクセリア、よく見ていろ」

「や、やめろーーッ‼︎ ユイカ!ユイカッ‼︎」

「ルクセリア様‼︎」


 剣を持った父の前にユイカが引きずり出された。私は父が何をするつもりか、言われずともわかった。


 すなわちーー


「ユイカ? この物の名前か? 奴隷に名前など不要だ」


 ユイカを殺すのだと。


 父の殺意さえ篭っていない、無機質な物を見る目がユイカを捉え、一瞬の戸惑いもなくその胸に、剣を突き立てた。


「ユイカーーッ‼︎」

「ル、ルク、セリア、様……」


 私は父に串刺しにされたユイカを見て、滝のように涙を流しながら悲鳴をあげた。


「放してやれ」

「はっ」


 ユイカの胸から剣を抜き取った父は、私を捕らえていた男に命令した。

 私はそれと同時にユイカに向かって縛られたまま駆け出した。


「ユイカ! あぁ、何て事を……」


 床にはかつて折檻部屋で見たよりもずっと多くの血が流れ落ちていた。剣は彼女を縛っていたロープごと彼女の胸を貫き、血塗れのロープが床に散在していた。その血だまりの中に仰向けに横たわるユイカ。ユイカは私が駆け寄ると、瞼を細かく震わせながら半目を開けた。


「ルク、セリア、様……」

「ユイカ⁉︎ しっかりするのだ! 今、私が!」


 私は縛られたまま、治癒魔法を唱えた。今の私に出来る精一杯を彼女の傷を癒す事だけに向けた。

 しかし、止めどなくユイカの胸から溢れ出てくる血は一向に収まる様子はない。それどころか、彼女の顔からはみるみるうちに血色が失われていく。


 そんな必死な表情で魔法を唱える私に、ユイカは血に染まった細い手を私の頬へあてた。


「ルク、セリア、様……私は、貴方の、事が……好き、でした」

「ユイカ……?」


 私は彼女の言葉に耳を傾けた。それは無意識のうちに悟ったから。

 私では彼女を助けられないと。それをユイカも悟っている事を。


「ユイカ、という名前を、くれた、貴方が……私を、守ろうと、してくれた、貴方が……そして、眠る、前に、必ず、語って、くれた、貴方の、理想が……」


 私は彼女の最後の言葉を一言一句、その息遣いまで覚えている。私にとって、彼女は始まりだったのだ。


「どうか、貴方の、理想を、叶えて、ください……私達が、笑って……暮らせる、国を……」


 それが彼女の最後の言葉となった。ユイカの手がバチャと血だまりの中へと帰っていった。

 私は彼女の亡骸の前で血の涙を流した。


「なぜ……何故、最後に、笑うのだ……感想も、お礼も言えないだろう……」


 彼女は笑っていた。死ぬ間際に。私のお願いを叶えてくれた。


『私は君の笑顔が見たい』


 それをユイカは最後の最後で見せてくれた。凄く可憐で華やかな笑顔だった。だけど、それでいて悲しく、無慈悲な笑みでもあった。


「ルクセリア、これが奴隷だ。私の意思だけで、簡単に壊れる。それが奴隷という物だ」


 父にとってそれは教育だった。ユイカの命を私の前で奪う事が。


 私はそんな父の言葉に反論する気力もなかった。ただ、抜け殻のように目から頬を伝い涙が零れ落ちた。無残に横たわるユイカの亡骸に……


 何故ユイカは死なねばならなかった。

 何故奴隷はこの様な不当な扱いを受けるのだ。

 何故私はこんなにも無力なのだ。


「部屋が汚れてしまったな。綺麗にしておいてくれ。その奴隷の亡骸は、犬の餌にでもしろ」

「はっ」


 私は父の言葉に耳を疑った。

 彼女の命を奪っておいて、その亡骸でさえも犬の餌にするなどという残酷な仕打ちを、何故この人はそんな残酷な事を平然と言えるんだ。それを特に疑問に思うことなく受け入れた男。


 この国は化け物しかいないのか?


「ルクセリア様、その汚しい物から離れてください」

「断る! ユイカを、ユイカにこれ以上酷い仕打ちして何になるというのだ! せめて、せめて土の中に……!」

「残念ですが、それは出来ません。親方様のご命令です」


 私の涙ながらの訴えも何も意味をなさなかった。男は私を無理矢理ユイカから引き離すと、ユイカの亡骸を床のカーペットごと包み、何処かへ持っていった。

 私は父の書斎で這い蹲り、それを止める事が出来なかった。


「ユイカァァァァ‼︎」



 私は知らない。彼女の亡骸がその後どうなったのかを。


 私は知った。この国は腐っている事を。


 私は誓った。この国を変えると。



 これが私の10歳の頃の記憶だ。


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