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おいでませ竜神の湯 〜辺境王国の観光立国史〜  作者: フユめん


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竜神の湯

 ついにこの日が来た。人工温泉が完成し、竜神様を招いてのオープニングセレモニーの日である。

 否、来てしまったというべきである。赤竜にとっては。

 シトリンが、人工温泉を作り、そこに竜神様をお招きしたいと言い出した時は、温泉事業、及びラヴァリン王国の将来を考えて承諾してやったのだが、人里に下り、人間の前に姿を晒すという事が、憂鬱で仕方がない。

 かつての時代、誰もが竜神様と崇め奉っていた時代でさえ、人里には下りなかったのだ。

 山を下りたのは、もう何年前だったか、忘れてしまうくらい昔の事である。

 その頃は、川漁師の集落があった程度で、城も無かったし、当然城下町も無い。

 領主や王といった概念が存在しないほど、寂れた、ある意味でのどかな土地だった。

 だから、賑わう町に降り立つという経験が無い。

 その上ラヴァリンの民は、つい最近までこの山を禁足地として、自分を怪物として畏怖の感情を向けてきたのだ。

 今はどうか? シトリンとの交流があって、人々恐怖心は薄れたのかもしれないが、見て確かめた訳ではない。

 とはいえ、行くしかない。約束を破るのは、道理に悖る行いである。

 赤竜は、洞窟から這い出すと、よく晴れた空を見上げた。青く澄み渡り、雲一つない快晴。お披露目日和とでも言うべき天気だ。

(飛ぶのは久方ぶりじゃが、飛べるかのう……)

 竜の生態として、居住地を決めたら、そこから引っ越すという事は滅多に無い。特にこの赤竜は、人目につくのを嫌い、山に引きこもっていたので、長い間飛ぶという行為をしていない。

(まあ最悪、歩いて行けばよかろう)

 これだけ長く飛んでいないのだから、もうこの翼は役に立たないだろうと思いつつ、一応羽ばたいてみる。

 すると、意外にも力強く風を捕まえ、赤竜の巨体を持ち上げてくれた。

(おお、意外と衰えておらんものじゃな)

 人間が有難がる、温泉の薬効。自分には効かないと思っていたが、竜にも薬効はあるのかもしれないなどと思ったが、それを確かめる術は無い。

 それはともかく、久方ぶりに飛び上がった空は、実に爽やかだった。

 温泉も地熱も無い空は、寒く感じないでもないが、風を切って飛ぶ事に、それなりの気持ち良さがある。

 洞窟の前から飛び立ち、グレンヴァル山の裏に回れば、眼下にラヴァリン王都が見える。

 随分と発展したものだ。山の上から見たことは何度もあるが、空を飛んで見るのは初めてだ。

(む、あれか?)

 人工温泉の形状については、事前の打ち合わせでシトリンから説明されている。

 グレンヴァル山からは見えないので、今始めて見るのであるが、それでも一目で分かる。

 頂上に湯を湛えた石積と、その周りぐるりと作られた貯水池。

 池は、いくつかの仕切りで隔てられ、仕切りの数だけ小屋が隣接している。

 高度を落としていくと、人混みが見えてくる。

 今日の完成お披露目を見に来た、あるいは温泉に浸かってみたいという人間が、詰めかけてきているのだろう。

 その人混みの中に、ぽっかりと空いた空間がある。更に高度を落とすと、そこに一人だけ、高貴な雰囲気を持つ少女が立っているのが見えた。

 言うまでもなくシトリンだ。式典の主役を迎えるべく、華美なドレスを纏い、旋回しながら下降する赤竜を目で追い、その視線をしっかりと捉えている。

 群衆に目を向けると、皆、両手を上げて振りたくったり、大きな声を張り上げたりして、赤竜を歓迎している様子だ。

 見る限りでは、こちらに拒否感を持っている者は居ないように見える。シトリンがそういう者を厳選したのかもしれないが、厳選したにしても数百人は居るという事は、大多数が歓迎してくれているのだろう。

 赤竜がいよいよ着陸しようとすると、にわかに群衆がざわめいた。上空に居るうちは距離感が掴めなかったが、いざ目前に降りて来ると、その巨大さがよく分かったという事らしい。

 その巨体に対する興奮なのか、恐怖なのか、それは定かではないが、皆が黄色い声を上げたり、口をぽかんと開けて唖然のしたりしている。

 その喧騒の中でも、一際通る澄んだ声が赤竜の耳に届いた。もちろん、シトリンの声である。

「竜神様ーーー! どうぞこちらへーーー!」

 この時のシトリンは、民衆が見たことが無い、実に砕けた様子だった。

 なにせ、弾けんばかりの笑みを浮かべ、腕を大きく振っているのだ。いくらお転婆と揶揄されても、民衆の前では王女然とした振る舞いを見せるのに、今日は違う。

 それを見た民衆は、一瞬混乱した後、あの王女様がこれほど心を許しているのならば、竜神様は本当に無害で優しい存在なのではないかと、いくらか安心した。

 それからすぐに、シトリンの前に赤竜が降り立った。巨体が着陸した事で起きた風で、群衆の帽子がいくつか飛んだ。

 真正面から風圧を受けたシトリンは、少し体勢を崩し、初めて陽光の下で見た巨体に圧倒されたが、あくまで取り澄ました態度で、一礼する。

「竜神様、ようこそお越しくださいました。ラヴァリン王国一同を代表して、わたくしシトリン・ドゥ・サフィニアが、心よりの歓迎の意を表させて頂きます」

 シトリンが挨拶して一礼したので、赤竜は居住まいを正して、挨拶を返した。

「召喚の応じて馳せ参じた。此度は、我が為にこれほど大層なものを用意してくれた事、心より感謝する」

 赤竜が言い終わり、シトリンに向けて一礼すると、また観衆からざわめきが起こった。

 何しろ巨大な竜であるから、一礼しただけでその威容は凄まじい物がある。そもそも、巨竜が王女と恭しく挨拶を交わしたという時点で、異様な光景なのであるから、ざわめくのは無理からぬ所である。

「ありがとうございます。早速ではございますが、式典に移らせていただきたく存じます。竜神様をお呼びしておいて、愛想の無い事ではございますが、人々を持たせるのも忍びなく……」

「かまわぬよ。そもそもわしは、人の世から離れた竜、人間が式典をどうしようと、口を挟む物ではないからな」

 それからの式典は、施設の壮大さの割に、驚くほどあっさりと終わった。

 ラヴァリン、アルタリア両国の代表者、シトリンとソラヤの挨拶と、少しばかり楽団の演奏。

 一応、計画段階では除幕式を行う予定があったのだが、この人工温泉を隠す布となると、これが莫大な面積になってしまう。

 それは流石に無駄遣いだろうという話になって、除幕式は行わず、観衆は既に完成した人工温泉を見ているという状態で、式典をすることになったのである。

 それに、シトリンには観衆を湧かせる代替案があった。

「さあ、いよいよこの時がまいりました。皆様方も大変お待ちかねと存じます。皆様、それぞれお好みの浴槽にお入りください、その後で、竜神様が頂上の浴槽にお入りになられます」

 シトリンの声を受け、観衆がわっと湧いた。それから駆け出そうとする者達の背中に向かって「皆様、温泉は逃げませんので、落ち着いて移動してください」とシトリンが釘を刺すと、王女に注意されてドギマギしながら、観衆はそれぞれに小屋へと入っていった。

「のうシトリン、どうして浴槽があんなにあるのだ? 一つあれば……いや、男用と女用に一つずつあればそれで事足りるではないか」

 群衆が移動して静かになったタイミングで、赤竜は一つ疑問に思った事をシトリンに尋ねた。

 人間用の浴槽は、なんと8つもある。細かく分けたとて、全部同じ湯なのだから、男と女で分ければそれで十分だろうと赤竜は思っている。もっとも、これは人間の文化を慮っての考えで、竜としては混浴一つで良いだろうと思うのだが。

 赤竜の疑問を受けたシトリンは、口元に手をやり、上品にうふふと笑った。

「実を言うと、個人的には竜神様のおっしゃる通り、二つにしたかったのです。ですが、裸で入りたい、湯浴み着を着たい、夫婦や親しい男女で混浴したいと需要が様々でしたので、ならば全部作ってしまおうと、こう、思い切りまして」

「人間とは、難しい物なのだな」

 赤竜は、思った事を素直に口にした。特にこれといった感情も無く、そういうものなのだろうと、半ば納得の色も見える口調であった。

「ええ。でもきっと、いつかこの仕切りを取り払い、一つの湯船に一緒に浸かるのが普通の時代が来ると思います」

「そうだな、竜と人が共に湯に浸かるようになったのだから、人と人なら、もっと簡単に混じり合えるかとしれぬな」

********

 赤竜が、頂上の浴槽に浸かると、大きく溢れた湯が石積に掘られた溝を下って、人々が待つ浴槽に流れ込んでいくと、今日一番の歓声が上がった。

 この温泉の効能は、竜神様の加護だと信じられているから、その湯が流れてきたのだから、喜ばない訳が無い。

 中には神聖な物に対したように、手を合わせて拝む者まで居た。

 頂上からだと、どの浴槽もよく見える。

 老若男女、様々な人々が居るが、その中に恐怖の表情を浮かべている者は居ない。

「竜神様ー! いかがですかー!」

 下の浴槽から、シトリンの声が聞こえてくる。 

 彼女もまた、入浴したのだろう。いつか仕切りを取り払いたいという目標があるのなら、自ら率先して民と一緒の湯に浸かるべきである。

「おお、シトリンも入っておったか。うむ、いい具合………」

 ここでようやく声の方に目線を落とした赤竜は、珍しくあんぐりと口を開けた。シトリンが初めて洞窟にやってきた日、『観光名所になってほしい』と言われた時以来のアホ面である。

 シトリンが入っていたのは、裸で混浴する浴槽だ。

 客層は親子連れや夫婦、恋人同士らしき者達が主ではあるが、 当然、男も居る訳で、そこにシトリンは裸で立ち、湯をざぶざぶと掻き分けながら歩み寄って来る。

 大事な所を、隠そうともしていない。

 洞窟の中でも、似たような場面はあったが、洞窟の中は暗かったし、あの時居た男はシトリンが見知った者ばかりだった。

 ここは陽光の下、大衆の面前。

 他の入浴客も困惑して、目を逸らすべきやら、しかし王女様から目を逸らす不敬にあたるかもと、挙動不審になった。

「竜神様?」

 シトリンの何も気づいていなさそうな……、もとい、実際何も気づいていない声で赤竜は我に帰り、開いた口は閉じられた。

「シトリン……、歩み寄らずともよい、湯の中を歩き回るのは少々行儀が悪いぞ。まずは湯の中に腰を落ち着けよ、声は十分届く故な」

「あっ……、左様にございますね。失礼致しました」

 赤竜は、シトリンが男の前で裸になった事を叱らなかった。否、叱ってはいけないと思った。

 シトリンの理想は、全ての人が分け隔てなく混浴すること。今の行動を叱ったら、それを否定することにもなりかねないと、そう思ったのである。

 これからのラヴァリンがどうなるか、人々の意識がどう変わるか、それとも変わらないか、それは誰にも分からない。

 しかし赤竜に憂いは無かった。シトリンが居ればきっと上手くいくだろうと、なんの根拠も無いが、そう思えた。

 空は快晴。どこまでも澄み渡り、雲一つない晴天が広がっていた。


【第一部 完】

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