1-3.好意と厚意に背を向けて
――は……あ、そうだったんですか。なんていうか……恐縮です。申し訳ないですね。今更になっちゃいますけど……
――いや、今からでも遅くないかもしれないよ。少なくとも、うちの方はね。少し待ってもらえば、また採用も出せると思うから。
私は、彼がその言葉に含ませて示した好意というか厚意は、本物だと思った。実現の可能性がないから本物になっただけのことだったけれど。つまり、偽物だと確かめることができないから本物ってわけだ。
これまでには、それが実現しないということ、決定的な利益を私に与えないことが、厚意につきまとっていた。代わりに目先の現実的な価値を与えて私をつなぎ止めようとする。つまりお金だ。そして今では、もう彼はそれを持ち出すことはできなかった。手詰まりというやつ。しかし本人はまだ、投了を宣言しようとしていない。
無理矢理作っていた笑顔を、こみ上げてくる感情による自然なものに滑らかに移り変わらせながら、私は答える。
――すいません、さすがにちょっと無理ですねえ。向こうの仕事も家も決まってて、手続きも終わってますから。
――ああ、いや、もちろん。分かってはいたんだけどね。やっぱり、いざお別れとなると、名残惜しくなってしまったから……まあ、もし戻ってくるなんていうことになったら、なんでも相談には乗ってあげられると思うよ。
――ありがとうございます。そんなふうに甘えることにならないように、頑張ります。
私が笑い、彼も笑う。私にとっては本心そのものを表した言葉を、完全に冗談として受け取られるというのは、これまでなら苛立ちしか招かなかっただろうけど、今は痛快そのものだった。ある作家が、冗談あるいは挑発として剣道の試合を申し込まれたとき、「真剣でならいいよ」と言い放ったそうだけれど、たぶん似たような気分だったのだろう。ただし、残念ながら私の場合、相手は私が言葉に込めた意味の、冗談以外の面については理解してくれていないのだった。
――それじゃあ、失礼します。
一度席に戻って荷物をまとめてコートを羽織り、事務室の出口に向かいながら、通りがかりに、私は次長席に向かって深々とお辞儀をした。
――ああ、お疲れ様。気をつけて。荷物は大丈夫? 駅まででも、持ってあげようか?
――いえ、ありがとうございます。寄るところもありますから。
――そうか……いや、これで本当にお別れと思うと、本当に残念だよ。
――そんなふうに言わないでくださいよ、私も行きづらくなるじゃないですか。笑顔でお別れにしましょう。
自分の言葉の通りに、私は笑っていた。たぶん、自然に。自分でも自然すぎて不自然に思えるほど、自然に。
――そうだね、じゃあ……さよなら。
――本当に、お世話になりました。
私がもう一度お辞儀をすると、彼も立ち上がって、同じように、ただし大げさに私に頭を下げた。顔を上げるのも、私より遅かった。それが偽りの心情を表しているからというわけではないけれど、またしても、わざとらしく見えた。
私は事務室の中を、一渡り見回した。無機質な蛍光灯の明かりに照らされた光景が広がり、相変わらず何の感慨も湧かなかった。だから、というわけではないけれど、深くため息を一つついて、彼に向かってもう一度笑い、頷くように少しだけ頭を下げながら、出口に向かった。私にまた礼をした彼に見送られて。




