8 アンモナイトの深い眠り
化石になったアンモナイトぐらい長く深く感じられる眠りを経て、しげるは結局目醒めた。アンモナイトだって、ずっと未来に掘りだされるとは夢にも思わないだろう。
翌日――水曜日の午前10時だった。
不眠は解消されたが、いいことである気がしない。だるさも徐々にでてきて、熱はまだ下がりきってはいないのがわかる。
しげるはそれでも、「よっこらしょ」と声にだしながら起きて、カーテンを開けて晴れ空を確認すると、洗面所に向かう。
使えそうなタオルをチョイスしてシャワーに入った。
芽に気を使ってシャンプーは使わなかった。髪を寄り分けて確認した二葉は青々としている。ドライヤーもやめておいた。
ソファにもどって緑茶を飲みながらスマホを確認したが、迷惑メールぐらいで、だれからの着信もメッセージもなかった。
作務衣先輩に「寝過ごしました。すみませんが本日もお休みします。返事はなくても大丈夫です。ご迷惑をおかけします」と送っておいた。
しげるは台所に向かい、冷蔵庫を覗き、期限が過ぎた弁当をみつけたので、レンジでチンして、ソファにもどって黙々と食べた。ときどき、さほど好きだったわけでもない8分の5チップのことを思いだしたりもした。
それから、服を着替えると(おなじようなデザインや色だけど)、財布とキャップと保冷バッグをもち、外出した。電池が切れて替えがなかったら、ぜんまいを巻くようにして動かなければならないと、しげるはなんとなく感じたのである。生存本能のようなものとして。
陽射しはあいかわらずで、蒸し暑くもあったが、昨日より体感温度を低く感じるのは、しげるの心境にもよるところだろう。
それでも、みゆきがしばらくは、あるいはもうもどってこないことは事実であるし、それは自分でコントロールできないことの最たるものだ。いつか、こうなるという感覚はどこかであったかもしれない。
しげるはコンビニで数日分の飲食料を買い、帰り道でふと神社の附属公園に立ち寄った。
疲労感があったことも大きいが、部屋に直帰するのもはばかられたというのも大きい。だいたいの理由がなにか大きい。
公園にはまだ未就学と思われる男児を連れた三〇代前半ぐらいの母親がいて、遊具で遊んでいた。
しげるは四阿のベンチに坐り、背もたれによりかかり、背の高い杉を下から見上げていき、空を眺めた。
雲間の太陽はしらん顔だった。
親子には気づかれそうもないため、キャップをとり、二葉を風に当てる。
二葉はしげるの気持ちを知ってか知らずか、さわさわとゆれ、ゆるぎなく存在した。
そのときの心情について、しげるに微々たる変化をあたえたものは、みゆきとの別れではない。
恋愛とか、その手の感情はしげるのなかでは、ずいぶんまえに化石になっている。
それでもしげるがふと、ぼんやりした空に見いだしたものは、この不滅の現実で、よろこびもかなしみもかならず滅びゆくある種の寓話なのだという認識だった。
ふと、金切り声がして、見やると――男児が泣いて地団駄を踏み、母親が無表情でやるせなさに堪えていた。
どうやら、昼までに帰りたい母親と、帰りたくない男児のせめぎあいらしい。
男児の無差別の憎しみが、母親に精神的なダメージをあたえているように見受けられる。
しげるはここ数日遭遇した人たちを順繰りに思いだす。
みんながみんな、顔にはだそうがださなかろうが、少しずつ齟齬を感じているようだった。
しげるはふいに、あたまの二葉が木だったらいいなと思った。
花でもいいけれど、できれば木がいい。高く大きく、長い枝がひろがり、たくさんの葉がしげり、傘をひろげるように成長する一本の樹だ。
そうしたら、作務衣先輩でもだれでもいいから遺言を頼んで、死後あたまだけでも火葬にせず、このあたりの森の奥にでもこっそり埋めてもらおう。
そうやって人知れず育っていき、ずっと先、1000年、2000年さきの未来で、生きとし生けるすべてのものの頭上を覆うような大樹になる。
歩きつかれたものがその木陰でほっとひと息つけるような、うなだれたものが幹に手を当て上を向くような、とても長くつづきそうな雨を避けて集まってきた色々なものたちがけんかせずにおだやかに過ごせるような、大きな樹になるのだ。
2000年後のそのとき、いまいる人たちはだれもいない。当然、しげるもそこにいることはないだろう。でもそれでいい。




