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066話 南伊勢侵攻


 伊勢の国 紀州藩領 南伊勢


 元禄15年8月8日(1702年9月)、イワレヒコ軍が南伊勢へ侵攻した。

木下 㒶(きん)定(さだ)率いる関羽配下のホムンクルス部隊と藤堂家の兵約6,000余りである。

いつものことだが藤堂家の兵は生死に係わる戦闘は、孔明によって禁止されていた。主役はあくまでも突撃隊のホムンクルス部隊であり、藤堂家の兵は後片付けと占領地の治安維持を命じられた。

しかしながら藤堂家次期当主の藤堂 高睦(たかちか)は戦に参加した、と言ってもホムンクルス部隊のすぐ後ろに付いて行っただけだか......ホムンクルス部隊がどんな戦いをするか興味があったのだ。

いままでは伝え聞きしか無かった、この身で実際に見て体感したいという思いが強かったのである。




 伊勢の国 紀州藩領 南伊勢 松阪城にて


 1619年(元和5年) 松阪藩・古田氏が石見の国 浜田藩に転封となり、南伊勢は紀州藩の領地となった。松阪城は当地を統括するために城代が置かれた。

城の縄張りは梯郭式平山城で、松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている。江戸時代初期には松阪藩の居城となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢17万9千石を統括するために城代が置かれたのである。


 木下 㒶(きん)定(さだ)率いる関羽配下のホムンクルス部隊が松阪城大手門前に集合する。門破りの担当は関-11と関-12の二人だ。5月の松江城の戦いで関-10までの出番は終了した。

隊長代行の木下が門の前に立とうとすると隊員からブーイングされてしまったのである

『あんたはいつも活躍しているでしょ』

という主張だ。なので今回は木下の出番はない、おとなしく見ているだけの役割だ。

 関-11と関-12の二人の得物は青龍偃月刀 (せいりゅうえんげつとう) だ。この青龍偃月刀は『三国志演義』における関羽の象徴として広く知られているが、正史である『三国志』の記録には登場しない。実際の戦いで関羽がどのような武器を使用していたかは定かではないが、当時の武将の標準的な武装として槍や戟などを使用していたと推測される。


 関-11は門前に立つ青龍偃月刀を右上から左下へ袈裟懸けに振り下ろした。関-12はこれとは逆に左上から右下に振り下ろす。門戸は×印の切れ目が入り内側に開いた。木下の


「突入せよ」


の合図と供に関羽隊の二十数人が三の丸敷地に侵入する。そもそもこの松阪城は南伊勢を管理するための出城のようなものだ、城代が置かれているが守備兵は少ない。

あっという間に三の丸を突破され、二の門前に関-13と関-14が立つ。二人によって大手門同様に二の門が破壊されると関羽隊は二の丸に侵攻する。

これまた同じく次の一の門前に関-15と関-1が立つ。二人は青龍偃月刀を振り下ろす。「ピキッ」という音と共に門戸がゆっくり開いた。


「よしっ、本丸を制圧せよ」


という木下の命令と供に関羽隊がなだれ込む。この本丸と天守にはさすかがに多少の守備兵はいたが、関羽隊の振る青龍偃月刀の錆(さび)となって消えたのである。

天守を制圧した隊員が木下に報告を入れる


「隊長代行、城代の身柄を拘束しましたがどうしますか?」


「よし、総大将の藤堂殿の前に引っ立てろ」


 今回の南伊勢侵攻軍の総大将は藤堂 高睦(たかちか)である、あくまでも名目上の総大将ではある。

作戦の立案は本拠地の孔明が行い、指令は阿久利が出す。高睦の役目は現場監督であり監視人でもある、分かり易く言うと見物人だった。

そんなわけで高睦はホムンクルス部隊のすぐ後ろに付いて来ていた。


「此度の総大将を任された藤堂 高睦(たかちか)である、城代殿に相違ないか?」


「いかにも拙者は城代でござる、イワレヒコ軍とお見受けするが何故(なにゆえ)松阪城を攻めたのだ」


「何故もなにも、もはや我がイワレヒコ軍と徳川は敵同士だ。攻めるは必定!」


「ぐぬぬぬ...我が紀州藩はイワレヒコ軍と戦はしておらぬ」


「お目出度い御仁であるな、ここまで太平呆け(平和ボケ)とは。貴殿は開放する故、和歌山に戻り藩主殿に報告するとよい。南伊勢は失ったとな」




 二日後、元禄15年8月10日、イワレヒコ軍は更に南下し田丸城に至る。

この田丸城は古くは南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる平山城である。その後第5代北畠政郷の四男顕晴が度会郡田丸城に入り、田丸氏を名乗った。

 1619年(元和5年)、紀州徳川家の治める紀州藩の所領となる。遠江久野城城主であった付家老久野宗成は駿府藩主であった徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州徳川家の成立)の際にもそのまま付随となり、紀州へ移ってきた。

久野氏は、家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。という事情で田丸城の城代は久野一族である。


 門破りは関-2と関-3から再開だ。二の門担当は関-4と関-5が行う、一の門は木下分隊に回って来た。木(きの)-4と木-5が進み出る、得物はもちろん淡路槍術の道具である本格的な槍である。二人は閂のあたりを目にも止まらぬ連続突きで破壊すれば『一丁上がり』だ。


「よしっ、本丸を制圧せよ」


という木下の命令と供に関羽隊がなだれ込む。本丸と天守にはさすかがに多少の守備兵はいたが、関羽隊の振る青龍偃月刀と木下分隊の振るう槍の生贄となって終了したのである。

天守を制圧した隊員が木下に報告を入れる


「隊長代行、城代の久野氏を拘束しました」


「よし、藤堂 高睦(たかちか)殿の元に連れて行け」


この後の展開は先日の松阪城と同じである。かくして田丸城と南伊勢の占領は終了した。




 後日談であるが、津城に帰還した藤堂 高睦(たかちか)は留守役の家臣達を集めて、南伊勢侵攻戦について語った。


「いや、余の予想以上であった。関羽隊の戦闘力は凄まじいものがある、彼らに掛かればこの津城とて半日で落城であろう」


「それ程でございますか? この津城とて堅牢でござる、簡単にはいきますまい」


「それがな、城門など無きに等しい。どんな頑丈な門でも彼らにとっては赤子同然であるよ。考えてみよ、槍で門が破壊できるか? 普通は門が壊れる前に槍が保(も)たぬ。槍は無事で門だけ壊れるのだぞ」


「それでこちらの被害はいかようで?」


「被害も何も、誰も死んではおらぬし、怪我さえもしておらぬ。例の腕時計型通信機というもので戦況が確認出来るし、戦闘指揮所から指示も来る。」


「左様です。拙者は一部隊を率いましたが『イヤホン通信機』というものから常に指示を受けておりましたぞ。もっとも後片付け...怪我した敵兵の捕縛...が主な仕事でしたが」


「まあ余の決断が正しかったということであろう。あそこでイワレヒコ様に臣従していなければ松平家四家と同じ運命を辿(たど)った、ひいては此度の松阪城・田丸城のようになるのは今だから想像出来る」




 紀伊の国 紀州 和歌山城


 元禄15年8月18日(1702年9月)、松阪城が落城して10日後のことである。

和歌山城に松阪の城代か這う這うの体でたどり着いた、

『火急の知らせである』

と藩主・徳川 綱(つな)教(のり)に謁見を願い出た。


「申し上げます、松阪城は落城しました。突如としてイワレヒコ軍に攻め込まれ半日も持たず城は占拠されました。10日前のことでございます」


「なにっ それは誠かっ? お主よく生きて戻れたな...」


「某は殿に伝えるために開放されました」


松阪城代の報告を受けている最中に取次ぎ役が慌てて入って来る


「申し上げます、只今田丸城代が戻りましてございます。『お家の一大事』とか申しております」


「通せ」


「殿に申し上げます、お預かりした田丸城は落城いたしました。誠に申し訳ございません」


「なんと、こっちもか......それでいつ落城した?」


「8日前のことでこざいます。イワレヒコ軍を名乗る者たちにあっという間に占領されました」


「それでお主も、余に伝える為に生かされたと言うのか?」


平穏な和歌山城がハチの巣を突(つつ)いたように慌ただしくなった瞬間であった。



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