↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
65/68

065話 薩長同盟の拒否と紀州藩


 安芸の国、野貝原山 地中の拠点 作戦司令室にて


 元禄15年8月1日(1702年9月)、浅野綱長が薩長の使者と面会した。

事前に連絡を受けていた孔明は幹部と一緒に見学することを提案した。本拠地の主であるイワレヒコと言えどもこの作戦司令室は阿久利の城である。一応許可を得て皆でのんびりと見学会となった。参加者はイワレヒコを始めとして阿久利、もみじ、大石内蔵助、関羽、趙雲である。


 面会の終了とともに浅野綱長より通信が入る。


「イワレヒコ様、伺わなくても判りますが如何に返事致しましょうか?」


「当然拒否だな。薩長なんて必要ない、徳川が片付いたら蹴散らしてやるわ」


「そう仰(おっしゃ)ると思いました。では薩長の『提案は拒否する』と伝えましょう」


「そうしてくれ、では頼んだ」


綱長との通信が切れると、イワレヒコは幹部を見渡して意見を聞いた。まず阿久利から


「本家の綱長様のお考えは理解できます。今更という事でしょうか」


「左様ですな。イワレヒコ軍がここまで大きくなって慌てたのでしょう」


大石内蔵助につづいて関羽も発言する


「毛利なんて日和見の見本みたいですなぁ。岩国藩が臣従した時に行動しても良かった、遅くとも山陰制圧の直後までがタイムリミットでしょう」


「イワレヒコ様、同盟は悪手です。もっと我々に戦働きの機会を増やして下さいよ、ホムンクルス部隊を代表して申し上げます」


最後は趙雲のトドメの発言である。要は『戦の機会を減らすな』という彼らにとっては切実な願いだったのである。




 安芸の国 芸州 広島城


 使者達は2~3日ゆっくりできるものと思い込んでいた。しかし四半刻(30分)もしないうちに沙汰が下りたと聞いた。イワレヒコの配下が早や駆けで来れば30分もかからないのだが、既に腕時計型通信機でやり取りする段階に移行していたのである。

 家老の上田主水が使者と面会して結果を伝えるに至る。イワレヒコ軍の方針は『同盟の拒否』であった。

両家の使者はまさか同盟の提案が拒否されるとは思ってもいなかったようである。世の中の流れ、時節を読めない島津・毛利だ。今までのやり方で通用すると思っていたらしい。

イワレヒコ軍にとって戦とは数の大小ではない。精鋭部隊をどれだけ揃えるかである。

たとえ敵軍が100万いようともやり様はある。いざとなれば超テクノロジーの使用でもって殲滅する選択もある。

ただしイワレヒコは超テクノロジーの使用は禁じていた、呆気なくて面白く無いから......

というのが理由である。


 使者達は「沙汰があるまでここに逗留するがよい」という綱長の言葉は何だったのか......と気落ちしたのであった...

これではゆっくり逗留する時間も無いではないか、それどころか用事が済んだら

「はよ 帰れ」

と追立てられた気分である。浅野家側から見れば追い立てていたのは事実だ。




 紀州藩 南伊勢への侵略


『ところで我が君よ、紀州藩の扱いはどう致しますか?』


「紀州藩か...そうよなあ...とりあえず南伊勢の領地は分捕るか。藤堂家と郡山本多家を中心とした軍を編成してくれ」


『畏まりました。では藤堂家には関羽隊を、郡山本多家には本多隊を与力として加えます』


「あん?...与力という名の突撃隊のことか? 解かり易く先鋒隊と言ってやれ、与力では出番が無いと思う奴もいるぞ」 「関羽は行かないのか?」


「私はここで仕事がありますので、関羽隊の指揮は副隊長の木下に任せております」


 実際ホムンクルス部隊の総責任者である関羽のやるべき事は多い。先月7月6日の武庫川の戦いで負傷した新規兵 (重傷が回復した志願兵) の訓練を監督していた。

支配地域が広がって益々人手不足が深刻になりつつあった、もう一つや二つはホムンクルス部隊を作りたいところだ。

新規兵に関しては今回は強化人間という事になる、候補者は90人余りである。


「孔明、例の片目の奴がいたな? そろそろ目覚めさせて活躍してもらうか」


『そうですね、武庫川の戦いで優秀な死体が沢山手に入りました。処置は終わり調整にあと一月ほどかかります、指揮をする隊長格が必要です』


 武庫川の戦いにおいて孔明は黄忠隊にある指示をしていた。即ち戦死した武士で『武芸に優れた者を確保すること』 これは新たに作るホムンクルス部隊要員の確保である。

黄忠隊は戦いを監視しつつ、これはと思った人材を救命艇に運び入れた。もちろんのこと死体である。

これと同時に黄忠隊副隊長の堀部弥兵衛は、仲間と共に怪我人回収の任務に就いて救命活動をしていたのである。




 伊勢の国 津藩 藤堂家 津城 (安濃津城) にて


 元禄15年7月29日(1702年8月)、『第三回 論功行賞』が行なわれた。占領地にてそれぞれの腕時計通信機を活用してリモートで実施した。

藤堂家次期当主の藤堂 高睦(たかちか)は論功行賞の沙汰は津城で聞いた。重臣達もこれに同席した


「高睦様、これは大盤振る舞いですな。我らは兵を出しただけで戦闘に参加しておらず、怪我人もいません。これで南近江が貰えました」


「うむ、イワレヒコ様に鞍替えしたのは大成功であったわ。幕府に従っておったら我らは領地を無くしただろう」


「御意、それに何ですか? この腕時計型通信機とはまさに神器でございますな」


「しかり、こんなものを実用化しているイワレヒコ軍と敵対しなくて幸いである。これは戦の概念を根底から覆すものぞ」


 イワレヒコに臣従し領地が増えたことで、家臣からの藤堂 高睦(たかちか)に対する評価が上がった。国元の家臣団からは絶対的な支持を得たのである。そんな折にイワレヒコ軍本部の孔明から命令が下った。

『南伊勢を奪取する、出陣に備えよ』と

元禄15年8月1日(1702年9月)、そろそろ秋になろうかという頃である。




 紀伊の国 紀州藩の事情


 1702年 紀州藩は第二代藩主・徳川光貞の治世であった。その光貞が5月に出家して徳川 綱(つな)教(のり)が藩主を継いでいた。

綱教は第5代将軍・徳川綱吉の娘婿であり、一時は綱吉の後継者(次期将軍)として有力視されていた。こういう事情があって幕府は第二次討伐軍に参加させなかったのである。


 ここ和歌山城は穏やかであった、畿内がイワレヒコ軍の支配地になったとて『どこ吹く風』状態でまるで無関心である。

裏返せば徳川の治世は盤石であると疑いもしない。御三家という事実に加えて当主の徳川 綱(つな)教(のり)は綱吉の娘・鶴姫を正室に迎えたという事実が紀州藩の中で大きな安心感を持たせていた時期でもある。他人から見れば『お花畑』としか言いようがない。

こういった事情なので8月以降紀州藩内で激震が走ることになる。すなわちイワレヒコ軍の『南伊勢侵攻』という事実によって、他人事では済まされない状況になったのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。