042話 石見銀山
島根県大田市大森町の代官所跡は、大森地区の北東側に位置する。17世紀から19世紀半ばまで、江戸幕府が石見銀山と周辺地域の150余村を支配するために、幕府が代官を派遣して現地に置いた役所の跡である。
敷地面積は約805坪あり、瓦葺き平屋建ての表門とその左右に付随する門長屋建物が現存する。現存建物の規模は、幅約4m、長さ33mである。
石見銀山の大森代官所には、代官などの直属の役人や使用人(約30名)と、鉱山支配などを担当する地役人(約80名)を合わせて、常時100名以上の役人が勤務していた。それぞれの役割や人数は以下の通りである。
代官 : 領地を支配するトップ。通常は単身や家族同伴で赴任した
代官手代 :代官を補佐する実務担当者
有能な町人などから選ばれたお抱え武士など7人前後
地役人:銀山方や地方の口番所に勤務する地方公務員
世襲が多く約80名が所属した。そのため代官所の財政を圧迫
その他:賄い方や使い走りなどの使用人を含め総勢約30名
大森代官所は、幕府直轄地として鉱山経営や周辺地域の支配を担っていたため、一般的な代官所よりも規模が大きく、多くの人員が働いた。銀山方を含めて総勢約120人といったところであろうか。当然だが鉱夫の人数はこれに含まれていない。
また銀山方とは江戸時代の幕府において、石見銀山をはじめとする鉱山の経営や行政、警備などを専門に担当した役職・組織を指す。幕府直轄の鉱山経営において重要な役割を果たした。
銀山方の主な役割は鉱山経営の管理をする代官所の元で、銀の採掘や精錬の監督を行った。
財政と資金の管理は幕府直轄である「御直山」の公費投入や、山師(民間経営者)が開発する「自分山」の許可・管理を行う。
流通の管理は採掘された銀の量や、江戸へ送るための輸送・警備体制の管理を担当した。
石見銀山との関係は銀山を管理した「石見銀山陣屋(代官所)」の中に置かれていた。地方役所と並ぶ中枢施設として、銀山奉行や代官を補佐する実務の中枢として機能する。
現在の島根県大田市にある「いも代官ミュージアム(石見銀山資料館)」の敷地内に、当時の銀山方役所の遺構が残されている。
元禄14〜15年(1701〜1702年)の記録によると、当時の大森代官所が管轄していた石高は60,400石だった。これには、大森代官が兼任して支配していた「隠岐諸島」の18,000石も含まれいる。
石見の国 幕府直轄地 石見銀山大森にて
浜田城落城の翌日、元禄15年5月2日(1702年6月)、イワレヒコ軍の浅野本家と三次浅野家の軍勢1,000人が石見へ侵攻した。石見銀山を押さえるためである。
石見銀山を管轄する大森代官所自体には戦闘員は少なく多く見積もっても100人程度である。なぜこの人数が必要かと言えば、銀山の坑道に立て籠もられたり、逃げ込まれたりすると非常に厄介である。その対策として1,000人が動員された、また鉱夫の一部が抵抗する場合も有り得た。
5月2日の朝方、大森代官所は大騒ぎであった。
浅野方軍勢がここ大森地区を取り囲んでいた。代官手代の一人が大森代官の由比 長兵衛の仕事場である執務部屋に飛び込んで来た。あまりの慌て様のため入口で転んでしまった。それでも立ち上がりながら代官に報告をする。
「お代官様、大変で御座います。いづこの軍勢が大森代官所を取り囲んでおります、その数およそ1,000、いかがなさいますか?」
「なにっ どこの軍勢か?」
「旗印は、白い布に3本の横線を引いた『三つ引両』です。おそらく浅野家かと思われます」
そうこうするうちに別の代官手代が駆け込んで来た。代官手代とは代官を補佐する実務担当者で、この者は家臣のお抱え武士だった。
「お代官様、『イワレヒコ軍』と名乗る軍が大森代官所の降伏を求めて来ました。降伏すれば命は助けると言っております。いかが返答しましょうか?」
「うーむ、この大森代官所に勤める役人は100人そこそこ、抵抗しても勝てるとは思えん。やむを得んが降伏しかあるまい、一旦降伏して幕府の援軍を待つ事にする」
この由比長兵衛なる代官はまことに有能である、1680年代頃から石見銀山の代官を務め始め、20年近く現職であった。今年の後半には後任の大島貞次に引き継ぐことか決まっていた。
彼の心情はこの非情事態において死者や怪我人をなるべく出さないことであった。故に降伏の決断は迅速である。
しかしながらいつの世にもトップの命令に従えず、徹底抗戦を主張する輩はいるものである。江戸から新たな石見勤番を命じられた旗本の子息とかはこれに当たる。
『イワレヒコ軍、何するものぞ』
と徒党を組んで坑道に立て籠もった、そして大勢の鉱夫を従えて血気盛んである。
イワレヒコ軍が大森代官所を占領したのちに抵抗分子の坑道掃除をするわけだが、これはあらかじめ三次浅野家の担当と決めてあった。
安芸の国 芸州 三次藩 藩庁三次陣屋にて
時間は少し遡る。元禄15年4月10日(1702年5月)、阿久利がイワレヒコの拠点訪問を終えた数日後、三次藩 藩庁三次陣屋に元赤穂藩士を名乗る堀部弥兵衛と名乗る老武士が訪ねて来た。
陣屋に着くなりイワレヒコの使者だと告げ、前当主浅野長照に面会を求めたのである。
「お初にお目にかかります、某は元赤穂藩士・堀部弥兵衛と申します。此度は我が主イワレヒコ様の命により参った所存で御座います」
「うむ、ご苦労である。して要件は何か?」
「実はイワレヒコ様は浜田藩、松江藩、石見銀山の制圧をお考えです。つきましては石見に最も近い三次藩からも出兵をお願いしたいとの事です」
本当のところイワレヒコは三次浅野家など期待してはいない。ただ孔明が
『手柄を立てさせてやるべき』だと主張するのでそんなものかと流されたのである。報酬は阿久利と○○できるアレを渡すと喜ぶだろうとのこと。
続いて堀部弥兵衛がイワレヒコが出す報酬について説明する。おもむろに小箱に入った腕時計らしき物を取り出し
「イワレヒコ様がおっしゃるには、褒美としてこれを与えるとの事です。これは手首につけて使用するもので、何時でも何処でも阿久利様と○○できる神器だそうです。金で買うことは出来ないが、もし買うとしたら10万両は下らないそうです」
「じゅ...10万両...の神器で...阿久利といつでも...どこでも...」
と腕時計型通信機を眺めてうわの空であった長照。とどめを刺すように堀部弥兵衛は
「しかも前払いで結構だそうです、長照様いかが致しますか?」
「よし乗った、しかと承ったとイワレヒコ様に伝えてくれ。むふふふ....」
その日はもう仕事にならなかった...実は隠居しているため仕事などないのだが本人は働いているつもりだ。家臣達を集め自慢大会の始まりである。
この腕時計型通信機は音声指令ですべての機能が使えるように孔明が調整していた。江戸時代の人に複雑な操作は出来ないための親切設計である。
通信は勿論、空中にホログラムも投影できたりする。空中に投影された阿久利の姿を見て、家臣達が腰が抜けるほど驚いたのはまた別のお話である。
浅野長照は銀髪オカッパ・ミニスカートの阿久利を見て
「さすが我が娘、美しい」
とどこまでも親馬鹿である......




