036話 岩国藩と津和野藩の動向
元禄15年3月14日(1702年4月)、将軍綱吉より第二次討伐が発令された。赤穂事件からちょうど1年後のことである。わざわざこの日を狙って討伐令を出すとは、綱吉の執念も凄まじいものがあった。イワレヒコに踏みつけられてよほど背中と腹の痛みは堪えたのだろう、いやここまで来ると怨念か......将軍の誇りというプライドがズタズタにされたのである、それもわざわざ召集した諸侯の目前で。
第二次討伐が命じられた諸侯は畿内、中国、四国の禄高5万石以上の22家である。綱吉は大名家全員が命令に従うと思っているが、実はそうではない。
この大名家の中にはイワレヒコ側に寝返りそうな家がいくつかある。郡山藩・本多家、膳所藩・本多家、備後福山藩・松平家、長州藩・毛利家の一部など血縁関係、地政学的な要因など理由は様々だ。
その他様子見 (日和見) の大名家もいくつかあるだろう。毛利家、四国の親藩・譜代以外の外様大名家などである。
もうこの時点で徳川幕府の屋台骨がぐらつき始めていた、老中達の懸念が現実のものになりつつあった。何があっても徳川の治世は揺るぎないと信じていたのは綱吉だけであろう。政権内部の老中達が危惧していたのは綱吉の性格だった、すなわち過度の驕りである。
「驕り...おごり」とは、自分の才能や地位、実績などを過信し得意になって威張ることである。綱吉は自身を客観視できなくなり、周囲を見下すような行為が顕著だった。日本で一番偉く権威かあるのだから、当たり前と言えばそれまでである。
元禄15年3月(1702年4月)の岩国藩と津和野藩の動向も穏やかではない。
まず岩国藩だが、ここは広島藩の西隣で領地を接している。長州藩・毛利本家の支藩で徳川から見れば陪臣にあたる。元々長州藩からの独立の意思が強く史実でもいろいろと揉めていた。
戦国時代に毛利元就の次男の元春が吉川家に養子に入り、家督を継いだことから毛利家から見れば吉川家は家臣扱いである。事実小早川家とともに毛利を支えていた時代もあった(毛利両川と呼ばれた)
長州藩の支藩とみなされたが、長州藩では幕府に岩国領を支藩とする届けを出していなかった。吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるから大名ではないと主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われていたという複雑な事情があったのである。
これは誰でも反旗を翻したくなる条件が揃っていたと言えよう。
赤穂事件当時、藩主の吉川 広逵は6歳と幼く家老が実権を握っていた時期でもあった。
広逵はわずか2歳で家督を相続したため、政務は後見人や家老によって行なわれた。このため、家老や家臣団の念願であった吉川家の独立運動が本格化し、家老の今田忠仲によって工作が行なわれたが独立は実現しなかった。
一方、津和野藩の事情は岩国藩と全く異なる。
安芸の国には津和野街道と呼ばれた道が存在した。名前からも想像できると思うが、広島⇔津和野間を結ぶ街道である。街道が封鎖されると津和野藩は干上がってしまう。つまり殺生与奪の権は広島藩が持っているという事だ。
正しくは津和野廿日市街道と言う、津和野から現在の廿日市市宮内までを結ぶ約70〜77kmの街道だった。
江戸時代の津和野藩は、藩の参勤交代や物資輸送のため、安芸の国・廿日市に「御船屋敷」(蔵屋敷)を置いた。
前出の桜尾城の西側に約2,500坪、23隻の軍用船・関船が停泊することができる、津和野藩の大きな船屋敷があった。津和野藩が参勤交代を行う時や物資を輸送する時は、津和野街道を南下して廿日市に宿泊、この船屋敷から海路を経て播磨の国(兵庫県)に上陸して都に向かうというルートを使っていた。
大阪の商人に米を売り渡すのもこのルートを使ったのである。つまり浅野家に敵対した場合、現金に替えることが出来ないという事を意味していた。現在の経済封鎖である。
安芸の国 芸州 広島城
元禄15年3月19日(1702年4月)、津和野藩と岩国藩の使者が広島城を訪れた。
どうやら二家で申し合わせて来たらしい、二人で来れば怖くないの心理であろう。当然徳川家を裏切るわけだから...心情は理解できる。両家とも供侍を入れて二人ずつであった。
両家が客間の座敷へ通されると間もなく当主である浅野綱長が入室すると四人が一斉に平伏する。
「浅野家当主の綱長である、ご両家とも如何なる要件であろうか?」
亀井家・吉川家の四人はおもむろに顔を上げると遠慮しながら答える。まずは亀井家の使者から
「わが主、亀井茲親様からの書状で御座います」
と書状を差し出すと、続いて吉川家の方も同様に差し出す
「主君は幼少ですので、代わりに政務を執る家老の今田忠仲からの書状で御座います」
浅野綱長がこれに頷き、まずは亀井家の方から読み始める。続いて吉川家の書状をしばらく読んでいたが読み終えると大きく頷き
「両家の請願、相分かった。イワレヒコ様は受け入れても良いと仰ると思うぞ。両家当主並びに重臣と面合わせが必要であるが、追って知らせがあろう」
「有難う存じます」
「有り難うごさいまする」
と使者に立った両家の家臣が礼を言う
「亀井茲親殿、家老の今田忠仲とやらに伝えてくれ『広島で会おう』とな。おそらく広島城ではなく他の場所になると思うがな。ほれ津和野藩の方々が通って来た道の途中じゃよ。我らの盟主はそこにおわす、ではこれにて」
「お、お待ち下さい。通って来た道の途中とはいったいどこで御座いましょうか?」
「まあ、いずれわかる。すぐに沙汰があろう、それまでここに逗留するがよい」
綱長は立ち去ろうとして
「こうなったからにはお主らも幕府と敵対する覚悟はできているのであろうな? 腹を括れよ」
綱長は「はて?...どこかで同じ体験をしたような...?」と言いつつ去って行ったのである。
使者達は2~3日ゆっくりできるものと思い込んでいた。しかし半刻(1時間)もしないうちに沙汰が下りたと聞いた。イワレヒコの配下が早や駆けで来れば30分もかからない、しかも綱長の会話が終わると同時に書状が出来ているのだからタイムロスも無い。
家老の上田主水が書状とともに現れ、謁見の場所は明石村、イワレヒコ神社に決まったと伝える。詳しくは文に書いてあるから持ち帰って藩主に渡してほしいと使者に言づけたのである。
使者達は「沙汰があるまでここに逗留するがよい」という綱長の言葉は何だったのか......と思いながら気落ちしたのであった...
これではゆっくり逗留する時間も無いではないか、それどころか用事が済んだら「はよ 帰れ」と追立てられた気分である。
津和野藩の使者の方は「明石村...明石村...」つぶやいていた。彼らは明石村の中を通って来た訳であるが、何か不思議な気持ちだった。
謁見できるような建物「そんな場所があっただろうか?」とまるで狐か狸に化かされていたのではないか...とそればかり考えていた。
まあ帰り道なのでそれらしい建物を探してみることにするか...




