第一話
「エリン嬢。……すまない、婚約を破棄してほしい」
ラングヴェルト公爵邸にて、来客用の応接室にその言葉が静かに響いた。
レオナール・ヴァルモン伯爵令息は、申し訳なさそうに、一通の書類をテーブルに置いた。
「……レオナール様」
エリン・ラングヴェルト公爵令嬢はゆっくり口を開いた。
背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ね、視線は真っすぐに相手へ向けられていた。
その姿は、傍から見れば絵に描いたような淑女の落ち着きだっただろう。
「ご、ごごごご冗談をおっしゃっているのですよね!?」
ただし口調は凛としているどころか大動揺だった。
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「冗談じゃないんだ、エリン嬢。……実は、いい女性と出会ってしまって」
「い、いい女性。ですか」
エリンの思考が真っ白になった。
「しゃ、借金は」
エリンは思わず遮った。淑女らしからぬ勢いで身を乗り出し、
「借金はどうなさるの……!?」と続ける。
「ほ、ほら、契約にありましたでしょう? ヴァルモン家の莫大な借金をわたくしが肩代わりするという……。この公爵家の財力こそ、貴方の望みだったはずですわ!」
「そのことなんだけど」とレオナールは言い、わずかに目を逸らした。
「……いいパトロンが現れてね。借金の問題はどうにかなりそうなんだ」
「……は?」
「彼女のつてで紹介してもらった。至れり尽くせりで、君との婚約がなければとっくに飛びついていたところだよ。思えば、公爵令嬢との婚姻なんて伯爵家には荷が重すぎたんだ」
レオナールは苦笑交じりに言った。
「借金のめども立った。素敵な人にも出会えた。……こちらが全面的に有責で構わない。慰謝料も、誠意を持って支払う。だから、エリン嬢」
彼の視線が真っ直ぐにエリンを捉えた。
「どうか、解放してほしい」
沈黙が落ちた。
エリンは動けなかった。
「お……お幸せに……」
ようやく絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
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レオナールとの婚約に愛は一切無かった。
ロマンスの欠片も一切ない。
それなのになぜ、公爵令嬢ともあろう者が、これほどまでに無様に動揺したのか。
それは、エリンにとってこの婚約が「最強の盾」だったからだ。
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翌朝、王立アルデア学院にて。
生徒たちが登校し、爽やかな挨拶が飛び交う中、エリンは目の下に薄いくまを乗せたまま、魂の抜けたような足取りで歩いていた。
「おはよう、エリン。……随分と顔色が悪いね。ゆうべは眠れなかったのかな?」
その声を聞いた瞬間、エリンの全身が、凍りついたようにこわばった。
振り返らずとも分かる。この学院で、これほど清涼感のある声で、これほど自然に自分の名を呼んでくる人間は、一人しかいない。
エリンは必死で微笑みの仮面を貼り直し、ギギギ、と錆びた音が出そうな動作で振り返った。
「ご……ごきげんよう、アルバート殿下」
アルバート第一王子。
金色の髪、澄んだ蒼の瞳。その完璧な美貌は、朝の光を浴びて神々しいほどに輝いている。
「き、昨日は少々、心労がございまして……」
「そうか、災難だったね」
アルバートはにっこりと、花が咲くような微笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、エリンの胃がひゅっと縮み上がる。
「でもね、エリン。愛情を度外視した『契約』は……いつか必ず、綻びが出るものだよ」
あ……。エリンの背筋を冷たい汗が伝う。
この顔。間違いなく彼は知っている。
昨夜何が起きたのか。
レオナールの言葉を思い出す
いい女性。パトロン。
まさか、昨日の婚約破棄は……
「……あ、貴方が……。貴方が仕組んだのですか」
「さて。何の事かな?」
アルバートは否定しなかった。だが楽しそうに一歩詰め寄ってきた。
背が高い。見上げなければならないほどの圧迫感。蒼い瞳には怒りも嘲りもなく、ただ深く静かな、どろりとした熱だけが宿っている。
「君の自由時間は終わりだよ、エリン」
声が、低く、柔らかく、耳元に滑り込んでくる。
「あんな男に縋らなくても、私が君を十分に満足させてあげる。……ようやくスタートラインに戻れたんだ」
気付いた時には、背後の冷たい壁に押し付けられていた。逃げ場を塞ぐように、アルバートの腕がエリンのすぐ横につかれる。
「今度はもう、君が誰かと契約を結ぶ隙なんて、一秒も与えないからね」
「ひっ……!」
令嬢らしからぬ、素っ頓狂な悲鳴。
アルバートは満足げに目を細めると、何事もなかったかのように一歩退き、「では、また授業で」と爽やかに立ち去っていった。
周囲の生徒が「おはようございます、殿下!」と歓声を上げている。完璧な王子様の登場に、女子生徒たちがうっとりしている。
エリンはひとり、壁に背中をつけたまま、ゆっくりと天を仰いだ。
そう。わざわざ借金まみれの格下の伯爵令息を金で釣ってまで「愛のない婚約」を結んだ理由は、たった一つ。
この王子から逃げるため。
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アルバート・オーレリアン第一王子。
次期国王最有力候補。容姿端麗、頭脳明晰、武芸も嗜む完璧な王子様。
民衆からの人望は厚く、他国の賓客からも一目置かれている、王家が誇るカリスマそのもの。
そして何故か、エリンが幼い頃から、ずっと重すぎる視線を向け続けてくる男。
王家主催の園遊会のたびに感じる、あの目線。エリンとアルバートが隣に並ぶと、大人たちは楽しそうに噂した。「あの二人は将来きっと」「公爵令嬢とのご婚約なら申し分ない」「ゆくゆくは王妃様に……」
『王妃』
冗談じゃない。
王妃候補ともなれば、一挙手一投足を監視される。扇の持ち方から始まり、多国語の習得、各国の歴史と外交の慣例、礼法、舞踏、音楽、社交術などなどなどなど……何年もかけて叩き込まれる地獄の王妃教育が待ち受けている。
そして王妃になれば、分刻みのスケジュールで公務に忙殺される。自由を奪われた「国家の歯車」としての人生。
その恐ろしさは、身近な実例を見ればよく分かる。
自身の兄、シオン・ラングヴェルト。
次期宰相候補として王宮で働く兄は、エリンから見れば、自分など足元にも及ばないほどの天才である。その天才的な処理能力を持ってしてなお、兄は連日、山のような書類と外交折衝の荒波に揉まれている。
時折、公務の合間に公爵邸へ戻ってくる兄は、どこか楽しげに「いやあ、陛下に無理難題を押し付けられてね」と笑っているが、その背後には間違いなく、常人なら過労で倒れるレベルの業務量が透けて見えた。
絶対にお断りだ。
平穏を愛し、家政を程々にこなし、のんびりと本を読んで生きていきたいエリンにとって、王宮はまさに地獄そのものだった。
何があっても関わりたくない。
だからエリンは学院入学の前に手を打ったのだ。
学院にはアルバートも入学してくる。学院生活の中でアルバートは確実にエリンにアタックしてくるだろう。それを防ぐために、エリンは必死に情報を集め、機会を探し、ヴァルモン伯爵家の借金問題に目をつけた。レオナールに接触し、公爵家が借金を完済するから婚約してほしい、という取引を持ちかけた。
レオナールはすぐに了承してくれた。
婚約者という既成事実があれば、いくら王族のアルバートでも、公然と手を出すことはできない。
学院に入学してからの一年間、完璧に機能してくれた盾だった。
が、それが今、アルバートの策略により、音を立てて完全に崩れ落ちてしまったのだ。
王宮という名の巨大な監獄へ繋がる一番太い鎖こと、『アルバート・オーレリアンの妃』という道が目の前で舗装されつつあるこの状況。
何としても回避しなければならない。
負けるものか。
エリンは潤んだ瞳に決死の光を宿した。




