【第二部】 第55話 女狐の独り言
レッドホルンの街並みは真昼の盛りを迎え、活気溢れる街道をシロウとナナは歩んでいた。
ミラの構える商店『万屋』は街道沿いに立地しており、店構えの良い上品な外観と入口付近に並べられた看板は、多くの旅人や冒険者を惹き付けている。
荒野で軍隊さながらの規律を誇るキャラバン隊を率いたミラの実力は、商売人としてもそこらの商人を遥かに上回っているだろう。商店の賑わいを眺めながら、シロウは改めてそう思った。
そして続けて思案する。商人に対して受け身の姿勢は愚策でしかない。今回の報酬額をいくらまで吹っかけるか。吊り上げられるのならどこまで交渉するか、ある程度は強気の姿勢を見せるべきだと。
しかし相手は美貌の下に狡猾さを隠した女狐だ。勝算は高くはないだろう。
慣れねぇことはするんじゃねぇ。ガンドに告げたその言葉が、あらぬ形で自身に返ってきた。そうシロウは思い、自身にほとほと呆れる。そして品を値切るために声を張る相棒の姿を思い浮かべると、ナナと共に店内に進んだ。
『万屋』の店内には様々な分野の商品が整然と棚に並んでいた。開放感のある天井高からは、空気の循環を促すシーリングファンが回っている。
店内を彩る乾燥薬草や香木からは淡い香りが仄かに広がっている。ガンドの火薬が染み込んだ地下工房から訪れたシロウたちには、場違いなほど清潔な空気であった。
心持ち涼しげな室内にシロウとナナは表情を和らげると、棚に並ぶ品々を横目に奥へと足を運ぶ。
広々とした店の中では、他の冒険者たちも依頼に役立つ品を吟味しており、貼り付けられた値札の額に渋しげな面持ちで物色している。そして重武装した警備員が出口付近を囲み、不正行為を犯す人物を監視していた。
「なんだか緊張しますね。シロウさん、ここは初めてですか?」
「あぁ、初めてだ。静かすぎて喧騒と人混みが恋しくなってくるぜ。ナナ、あんまり浮足立つなよ。それと、商品に触るんじゃねぇ。碌なことにならねぇからな」
「この瓶とか──金貨三枚!? ぜ、絶対に落としちゃ駄目ですね……」
ナナは小瓶に飾られた値札の額に驚愕した。
少女の細い手に収まる小瓶の中には不気味な液体が詰められている。慎重に小瓶を棚に戻したナナは、ほっと息を吐いて安堵の表情を浮かべた。
「そいつは数滴で致死量の猛毒だろうな。小瓶や巻物、変異性生物の素材、全部が値打ち物だ」
「全部が貴重品なんですね。そういえばどこまで進むんですか?」
「とりあえず奥の小部屋まで行ってみよう。もっと希少な品があるかもな」
シロウに続いてナナも店内の奥に進んだ。すると大きな影が遮るように現れた。
気品と規律が漂う店内を訪れる客は、身だしなみの整った商人やゴールドランクの冒険者たちが大半だろう。だからこそ、シロウたちの前方を遮るように現れた大柄な警備兵の姿は、半ば予想していたことだった。シロウの表情に変化はない。
「お客様よぉ、誠に申し訳ございませんがね。ここから先は冒険者ランクがゴールドか、正規の商人、または招待状をお持ちの方のみのご案内になるんですよ」
「招待状? ちと汚れちまったが、ハンカチならあるぜ」
シロウは刺繍が施された手拭いを手渡す。訝しげに受け取った大柄な警備兵の態度がぐるりと反転するのはまさに一瞬の出来事だった。
その手拭いを凝視していた大柄な警備兵から、先ほどまで滲んでいた警戒心が嘘のように晴れた。
「……こ、これは!? 今すぐ店主をお呼びします! ご案内致しますので、少々お待ちください!」
そのハンカチは以前、荒野の公道でミラから渡された品であった。策略と賭けの象徴とも言える不穏な贈り物だ。
しかし今ではそのハンカチ一つの恩恵で、先ほどまで店内に張り巡らされていた監視の圧迫から解放されたことにシロウは気がついた。
ナナは察してはいなかったが、入口を跨いだ瞬間から複数の視線がシロウたちを追いかけていたのだ。
その後、奥から現れた男性の店主から案内を受けて、シロウとナナは小部屋まで移動する。先ほどまでとは打って変わっての丁重な対応だ。
言われるがままに上質な革張りのソファに沈むように座ると、丸テーブルの上には新鮮な果汁ジュースがすぐさまに人数分用意された。
小部屋は広く小奇麗にまとまった応接室であり、案内を済ませた店主はすぐに立ち去ると、室内に取り残されたシロウとナナの沈黙だけが残った。
ナナは困惑した表情で恐る恐る果汁ジュースを口に運ぶと、あまりの美味しさにグラスの半分ほどを瞬く間に飲み干した。そしてシロウと視線が交わると、ハッとしたように我に返る。
「ど、毒はありませんよ。シロウさん」
「だろうな。正直に美味しかったって答えてもいいんだぜ」
「もう、子供扱いしないでくださいよ。味は……本当に美味しかったですけど」
「ナナ、俺のグラスに注がれた分も毒味してくれねぇか」
「シロウさんのいじわる。口元が笑ってますよ」
「外は暑いんだ。帰りにテイクアウト用にナナの分を注文してみようか」
「性格悪いですよ! シロウさん!」
ナナがむっとした面持ちでシロウの頬を指で何度も突いた。年相応の不服そうな態度だ。
シロウとナナが冗談交じりに閑談していた時だった。数回の小気味よい音でノックされると、個室のドアが開いた。
「あら、毒を隠し味に加えた方がよかったかしら?」
靴底の軽快な音を響かせて、ヒールを履いたミラはそう嘯いた。
表情に貼り付けた妖美な笑みを浮かべて現れると、シロウとナナに向き合う形で深く腰を下ろした。ミラの背後には護衛が無表情で佇んでいる。
「盗み聞きは趣味が悪いぜ」
シロウが嫌味を吐くと、護衛の一人が個室のドアをそっと閉じた。先ほどまでの談笑が途切れ、室内が心持ち窮屈になったとナナは感じた。
「さて、ビジネスのお話でもしましょうか?」
まるで蛇が舌先を覗かせるように、ミラは唇を薄く広げて笑って見せる。
「ビジネス? 俺たちは報酬を貰いに来ただけだぜ。商人との長話で良いことなんて何にもないからな。特にあんたとは」
「あらあら、そんな風に言わないでほしいわね。これはお互いにとって、有益なお話よ?」
「生き残れたら……だろ?」
シロウは低い声で笑った。自身の瞳に映るミラに対して、明確な警戒心を宿している。
「依頼は受けねぇ。金の話だけしようぜ」
「奇遇ね。わたくしもお金の話をしようと思ってたの。あなたたちの懐事情を解決できる、とても魅力的なオファーよ」
「おい、まだ盗聴や追跡をしているんじゃねぇよな?」
「レッドホルンはわたくしの庭みたいなものよ。あなたたちが冒険者組合でしばらく徒党として活躍していないことくらい、風の噂でも伝わってくるわ。特にあの狙撃手が単独で依頼を受けていることもね」
「──あいつに手を出したら、ぶち抜くぞ」
シロウの指先が僅かに強張り、瞳孔に殺気が宿る。
隣に座るナナでさえ、肌身に感じ取れるほどだった。それを真正面から浴びるミラの表情は読めない。しかし、その背後に佇む護衛者たちの額に微かに汗が滲んでいた。
「流石ね。畏怖として組合を騒がせた正真正銘の怪物、長耳を討ち取った英雄様は格が違うわ」
「世辞はいらねぇ。答えろ。何を企てているんだ?」
「それは、ビジネスの話をしてもいいってことかしら」
ミラの昂然とした視線の先で、シロウは深くため息を吐き出すと呟いた。
「俺は黙って聞いているだけだ。独り言でも洩らしてな」
「ええ、それなら今から報酬と依頼について独り言を囁くわね」
ミラは薄く唇を吊り上げると、丁寧に話し始めた。
「キャトルランはご存じかしら。家畜として繁殖させたマキシマムブルを始めとする畜産物を、街から街へ運ぶ大規模な交易よ。冒険者組合の徒党とキャラバン隊が群れを成して、街を目指すの」
「申し訳ございませんが、わたしたちにも予定があります。そのご依頼を受けることはできません!」
ミラの独り言に真っ先に反応したのはナナだった。
ガンドの依頼の件や万全ではないシロウの体調を案じたナナの気持ちは、自身でも驚くほどに、はっきりとした口調で依頼を断っていた。
ミラは予想外の少女の言葉に、一瞬だが瞳を揺らした。だがすぐに薄く笑みを溢す。
「でもね、近頃は街へと辿り着く頭数が減少しているの。──原因は不明。家畜を喰い荒らす変異性生物や、ならず者の仕業かもしれないけど。気に掛ける必要はないわ。広大な砂漠を踏み越えるサンドエンド街までの道中に、遮蔽物や炎天下を退けるセーフティゾーンは存在しないから。だからこそ圧倒的な火力と物量で押し通る従来のやり方と同じで、今回も突き進むわ。でも、英雄様が加わると一層に心強いわね」
「断固として断る!」
シロウもナナに続いて依頼を突っぱねる。大規模な依頼は報酬の割に拘束が長い。この依頼が良いオファーだとは到底思えなかった。
「あら、独り言よ? まだ話の途中ね。けれども年々と被害が増すばかりのキャトルランの貿易に、冒険者組合も遂に対策を打って出た」
ミラは瞼を細めると、真っ直ぐにシロウを見つめて微笑む。
「それは──ある狙撃手の噂話。その一発の弾丸は風の加護を纏い、怨敵を射るために死の軌道を描く。あらゆる災いを視認する瞳は風を見通す。荒野に潜む長銃の魔女──」
「これ以上は独り言も聞く気はないぞ!」
シロウはミラの語りを遮るように席を立った。ナナも続いて立ち上がるが、ミラは平然とした様子で座り続けている。
背後の護衛たちは微動だにせず、重い沈黙の中でミラの声だけが響いた。
「優秀さを誤魔化す方法はないの。あなたが負傷していた際に、少々依頼を頑張りすぎたようね」
「チッ……くそったれが」
「わたくしとは無関係よ? 変な誤解をしないでほしいわね。今日中にあなたたちには、いえ、その噂の狙撃手には依頼が発行されるわ。高額だけど、ほぼ断ることができない依頼。それをわたくしのオファーなら上書きできる。より高額な報酬で、あなたたちと徒党を組ませてね。どう? ビジネスの話を始めたくなったかしら」
ミラはあざとくシロウに対してウインクしてみせる。そして背後の護衛からシガーケースを受け取ると、口元に一本咥えてからゆっくりと火を燈した。
その仕草が、独り言の終わりを告げていた。次に口を開くのはシロウの番だ。依頼を断るという退路は、いつの間にか切り離されていた。
「……その前に報酬を払ったらどうだ? 新規の依頼はそれ次第だな」
「ふふ、当然よ。賭けの勝者には相応の報酬を渡さないと。じゃないと商人の格が落ちてしまうわ。でも交渉は必要ないわよね? こちらは既にあなたたちに有益な情報を、無償で提供しているのだから」
「うるせぇ。独り言なんだろ? それで報酬はいくらだ」
「──金貨を百枚」
ミラの吐く淡い紫煙の向こうで、シロウは耳を疑うほどの金額に目を見開いた。
吹っ掛けるにしても、あまりにも法外な金額だった。それは隣に座るナナの驚愕ぶりからも明らかだ。
「……そこまでの額を渡すんだ。いったい何をやらせるつもりだ」
「あら、話が早くて助かるわ。察している通りこの報酬は条件付きよ。前金で金貨三十枚用意するわ。そしてあなたたちにはキャトルランでわたくしの護衛を務めてもらう」
「そんなピクニック程度でもらう額じゃねぇだろ」
「もちろんよ」
ミラは再び深く煙草を吸うと、次第に真剣な眼差しに切り替わる。その短い沈黙がナナの喉をゴクリと鳴らした。シロウの面持ちにも既に笑みはなかった。
「あなたたちには、もう一度──怪物を討ってもらうわ」
その言葉は酷く冷たい声だった。




