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第42話 黒い津波

 シロウの肉体は既に満身創痍だった。


 酸欠で疲弊した体は荒い息を吐き出し、真っ黒の肺は酸素とニコチンを欲していた。心臓は苦情を垂れるように無言で全身を叩き続ける。


「……こいつら! 熱心にもほどがあるだろうがッ!」


 汗ばむシロウの背後には真っ黒に路上を染めるように、大量の変異性生物が絶叫を上げて迫り来ていた。


 血肉を喰らうその醜く荒れ果てた姿は個々で様々だが、執拗に狙う挙動は呪いに等しい。全ての個体が全力疾走で、獲物に喰らい付こうとしていた。


 靴底が摩擦で薄れるほど走り込んでいたシロウは、スクラップ車を遮蔽物として高台に進撃する最中のならず者たちと鉢合わせする。


 互いに予期せぬ遭遇。しかし、シロウにとっては好機であった。


 戦況は更なる混沌に色を濁していく。高台を襲撃していたならず者、シロウ、変異性生物の三つ巴による戦場が、静まり返った廃倉庫群を狂気に遠鳴りさせていた。


 スクラップ車のボディは、無防備に横っ腹から剥き出しの錆び付いた急所が露わになっている。現地改修によるフロントの大部分が視界を覆う幾枚の鉄板のせいで、車両のタイヤは地面に沈んで進みは悪い。


 アスファルトの路面に傷んだタイヤを擦り付けるような鈍い音を鳴らして、鈍重な進攻を継続するため、ハンドルを握る運転手は退屈そうに前だけを見据えていた。


 呑気にも欠伸をした運転席のならず者と、荒い息を吐き出して疲弊を滲ませるシロウ、両者は次第に距離が縮まると視線が交差する。


 トレンチコートの裾が激しく乱れ、シロウの背後に伸びた影の延長線上には禍々しい変異性生物が埋め尽くしていた。


 溢れんばかりの混乱を招き、災厄に相応しい化け物たちが押し寄せて来る。


 シロウは装弾数が半分を切ったマガジンを、全て撃ち尽くす勢いでM4カービンをフルオートで弾丸を撒き散らす。

 スクラップ車の無防備な横っ腹を突くように、運転席に狙いを絞って連射を続ける。


 逃走は闘争に変化し、敵の敵は味方ではなく、囮として利用することにした。


 銃口は全力で駆けている状況下では安定しない。しかし、命中が目的ではなかった。乱れた照準は荒い火花を車両全体に反射させて、周囲のならず者たちの混乱を誘う。


 猛烈な弾丸の集中砲火に運転席のならず者は狼狽して屈むと、本能的にアクセルペダルを強く踏み込む。しかし、前方のみを城壁のように守られた車両は、許容重量を超えた過負荷では本来の速さでは進めない。


「このノロマ! とっとと進めよ!」


 運転席に座るならず者が車両に対して悪態を吐く。


 シロウの怒涛の制圧射撃に、進攻を阻害されたならず者たちは最初こそ取り乱してはいたが、すぐさまに反撃として戦闘態勢を整えて全員が武器を身構えた。


 しかし──それでは遅かった。


 スクラップ車を横断するように飛び越えたシロウは、錆び付いたボンネットに滑り込むように車両を通過する。そして後ろも振り向かずに懸命に走り続けた。


 その背中は呪いを擦り付けたように、清々しく軽やかだった。


 ならず者たち全員がぽかんと一瞬だけ呆けて、シロウの背中に視線を寄せていた刹那、数人のならず者たちが黒い影に飲まれて消えた。


 次第に断末魔が周囲を覆い始めるのに時間はあまり必要ではなかった。その恐怖は伝播して瞬く間に一帯を染めていく。


「なんでこんなに大量の変異性生物たちが!?」


「落ち着け! 全員ぶっ殺せばいいだけだ!!」


「ひぃ! た、助けてくれ!」


 変異性生物は全ての生者から恐れられる共通の敵だ。しかし、その逆も然り。生者を憎む変異性生物にとって、獲物を区別する境界線は存在しない。


 視界に映り込む命の全てを喰らい終わるまでは止まらない。路面を踏み鳴らす足音と、空薬莢が弾ける音が響く。


 黒い津波のようにスクラップ車とならず者たち全てを覆い尽くし、呑み込み始めていた。狂気と混沌の熱気が高まる戦場で、断末魔と銃声が鎮まるのはまだ先の話だ。


 シロウは廃倉庫群の一角、錆び付いたヤードに身を潜めていた。


 荷捌き場の建材が立ち並ぶ敷地に足を運び、埃が積もった置き場に隠れている。荒い呼吸を何度も繰り返しながら荷物に寄り掛かるように座り込む。


 ひび割れた唇は喉の渇きを訴えている。呼吸を整えながら静かに備品入れに腕を伸ばすと、円形のスキットルを口元に注ぎ込んだ。


 レッドおすすめのムーンシャインの粗いアルコール度数が、鮮烈な味わいで舌を焼き、喉奥から疲労を吹き飛ばして意識を再び呼び覚ましていく。


「……っく! 相変わらずキツイなぁ。だが、少しは体がマシになったぜ」


 闘争と硝煙の中、トレンチコートの裾が死臭を帯びた風で翻り、シロウは貴重な休息を噛み締めて、再び立ち上がる気力を得た。


 ゆっくりと重い足腰を何とか起き上がらせる。


 蒸れた呼吸を落ち着けてスキットルの蓋を閉じると、M4カービンのダブルマガジンを抜き取り、逆さにテープで固定していた装弾済みマガジンをしっかりと銃器に差し込む。


 これが最後の弾倉、そう自分に言い聞かせる。


 無駄撃ちができない戦況下、ならず者と変異性生物、その両方を同時に相手にはできない。


 混乱に乗じた奇襲で削り切り、可能なら殲滅する。それしか勝機はなかった。

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