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第29話 夜はまだ長い

 夕闇に彷徨う影は、ただ当てもなく走っていた。「シ……ロゥ!」誰かが後ろから俺の名前を呼んでいる気がした。けど、振り返るつもりはない。決して掴まれずにあいつから逃げ切るために。


「……シロ……ゥ!」


 もう一度、背後から声が聞こえる。


 余力を残さずに全力で駆けたのに、背中越しから微かに感じられるあいつの肩を揺らしたような歓笑。醜く歪んだ笑みが忘れられない。


 あぁ。声が次第に近づいて来る。後ろから俺の肩を掴み、あいつは俺に微笑みかける。忌々しい程の優しい手つきで。


「……シロウ! 起きて!!」


 シロウは勢いよく目を覚ました。大袈裟な程に肩を揺すられ、寝覚めの覚醒ですっ飛んで、ソファーから床に転げ落ちる程の寝相の悪さである。


「あんた……大丈夫?」


 悪夢にうなされていたシロウの肩を揺すり、起こした張本人であるレッドは緊張と不安な面持ちで質問した。


「あ? あぁ。……悪い、ちょいと碌でもない悪夢を見ちまった」


「……そうみたいね。あたしがマスターから食料をもらって部屋に帰ってきた時には、ドア先まで歯軋りの音が漏れていたわよ」


「すまねぇ。ナナは? 起こしちまったら謝らねぇとな……」


「ナナちゃんは騒音に影響されず熟睡中よ。きっと明日の朝まで起き上がらないかもね」


「まだ真夜中か……クソ、少年兵以前の、スラムに住んでいた頃の嫌な記憶を思い出しちまったぜ……」


「ねぇ……シロウ? 本当に大丈夫なの」


「あぁ、問題ない。大丈夫だ」


 夜の静けさに溶けるように、シロウは窓に反射された自身の顔を見つめた。生気は薄く、疲労の抜けない瞳が真実を映している。


「もう大丈夫だってことなら、そろそろ握っている物騒な得物は放してもいいんじゃない?」


 その言葉で、ようやくシロウはレッドの緊張と不安の原因に気が付いた。


 自身の右手には愛用のナイフが固く握られている。起き上がった瞬間、無意識に抜刀していたことにすら、本人であるシロウはまったく気付く余裕はなかった。


「……くそ。悪いな」


 苦虫を噛み潰したような表情でシロウは謝罪した。


「……無理に眠らなくていいわ。ほら、何か口に入れながら明日の件で、少し話しましょ」


「そうだな……夜はまだ長いからな」


 シロウはレッドの気遣いに安堵すると頷いた。ナイフを鞘に収めて、先程転げ落ちたソファーに今度はしっかりと腰掛ける。


 レッドはシロウと向かい合わせでソファーに座り、小奇麗な丸テーブルにマスターから頂いた紙袋の中身を広げた。

 バケット、ロースハム、コップに注がれた汚染されていない綺麗な飲み水を人数分並べる。そしてもう一袋から状態の良い戦闘用タクティカルベルトと、一枚の紙切れを置いた。


「これもマスターから渡されたのか?」


 シロウは食料と一緒に並べられた紙切れと、タクティカルベルトを訝しげに覗いた。


「そうよ。マスターが衛兵達と事情聴取をする前に、上半身が吹き飛んだ男の死骸……残された下半身を探ったら案の定、ポケットにナナちゃんを襲った者の手掛かりとして、指示書を発見したみたい。それと、まだ使えそうな状態の良いベルトも頂いたわよ」


「このベルト、内側は血で染まってないよな?」


 シロウは男の最後、爆ぜる瞬間を脳内で思い返していた。狂気と興奮に染まった終焉は、数多の死を見届けた経験があったとしても常軌を逸している。


「たとえ血がこびり付いていても、今のあんたには必要でしょ? 以前と違って装備も増えて、弾薬や備品、応急用ポーチ、鞘やホルスターを取り付けれる頑丈なベルトが必要よ。いつまでも今のボロボロのベルトに、全部を備えるのは無理があるんじゃない?」


「仰る通りです、だな。この紙切れにはなんて書いてあるんだ?」


「指示書ね。ちょっと読み上げるわ。『対象はレッドホルン街に立ち寄る可能性あり ●容姿:少女・銀髪・両眼は赤と青の異なる瞳 ●護衛に手練れの冒険者あり、発見次第、護衛は排除、対象の確保を優先とする ●対象引き渡し地点:×△○▽Σ ●備考:本指示書は確認後、隠滅として必ず焼却すること』これで終わりみたいね」


 レッドは読み終えると、紙を卓上に投げ出すように置き、呆れたように鼻で息をついた。その顔には低ランクの冒険者による詰めの甘さ、正確には冒険者崩れのならず者に対する蔑視が色濃く浮かび上がっている。


「回収予定地点だが、ここは確か以前、野党どもの縄張りだったよな?」


「そんなに遠くない場所だわ。数カ月前に殲滅されたって噂だったけど、街の防衛隊や冒険者達ではなく、他の勢力とぶつかり合ったみたいね」


「……そして占領地を拠点にしている何者かがいる。可能性は高いな。それも、俺たちを付け回すクソッタレな奴がな」


「明日、ナナちゃんの訓練と情報収集も兼ねて、その付近までピクニックはどうかしら?ガソリンを補充して、バイクで探索をするの」


「悪くはねぇ。ただ、こっちは相手の顔すら知らねぇってのに、向こうは俺たちを狙い済ましてるんだろ? 依頼を受けた人数と規模も把握する術はない以上、派手に動き回るのは危険なんじゃないのか?」


 シロウは箱から煙草を抜くと、オイルライターで火を燈す。


「だからこそよ。“敵を知り。己を知れば百戦危うからず”ね。相手が未知数の時に後手に回るのは危険だわ。少なくとも街の外で活動している間は、近寄ってくる奴はだいたい敵対勢力だと思えばいいし。実際そうでしょ?」


 シロウは咥えた煙草の灰が、食料に降りかからないように気を付けつつも、混濁とした思考の凝りをほぐす。煙草の渋く乾いた苦みのある煙を舌の奥で堪能する。


「明日の予定は決まったな。早朝に市場で食料と物資を買い込むぞ。ガソリンを補充したら向かおう。……それと煙草の補充もな」


 シロウはニヤリと笑みを浮かべると、空の箱を握り潰す。覚悟と意気込みは満ちている。煙を最後まで吸い切ると、灰皿にフィルターの先を指で弾き。灰を落とした。


「ええ、やるわよ」


 シロウの曇りない眼差しに応えるように、レッドも口元から笑みを溢した。


「明日もやることたくさんよ。ちゃちゃっと食べて、寝ちゃいましょう」


 レッドはそう喋り終えると、照れ隠しのように薄く赤色に染まった頬を、誤魔化すようにバケットを大口で頬張る。


 シロウはそれに気付く素振りも一切なく、汚染されていない綺麗な飲み水で喉を潤した。穏やかな静寂の最中、明日への不安を覚える者はこの場にはいない。


 食事が終わり。シロウは再びソファーに横になった。満たされた心と体は深い眠りに招待するように次第に瞼を重くしていく。


「……シロウ。今度はゆっくり眠れるはずよ」


 レッドは向かい合わせに置かれたソファーで横になると、共に眠りについた。

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