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嵐は夜に  作者: あおい
05
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05-3

 年明け早々の市長選で保守政党推薦の新人・槙田強志まきたつよしに負けてしまい、その座を追い出された。


 青天の霹靂、であった。


 改革派で鳴らした金塚秀樹かなづかひできは世間の噂通り、決してクリーンな身ではなく、後釜の市長に過去の事を調べられたら不正が発覚しないとも限らない。


 外国人団体に金を横流ししてキックバックを懐に入れたり、入札などに関しても好き放題コントロールして来た。

 勿論、見返りはたんまり頂いた。見返りとは金や女、だ。


 抱き込んだ職員も何人かは居るけれど、自分に転ぶような奴らだ。槙田が同じように抱き込もうとすれば、いくらでも情報を売るであろう。


 金塚が非常に危うい立場である事は、間違いが無かった。


 選挙で浮動票が組織票を上回った事を今更嘆いても仕方が無いのであるが、このまま何もせずに事態が悪化する事だけは避けねばならない。


 槙田が失脚すればそれだけでいいのだ。あいつさえ居なくなれば二位の自分が繰り上がり当選なのだから。


 スキャンダルや悪事の捏造を、どこの誰に頼めばいいか。マスコミや暴力団で間違いはないのだけれど、その中でも誰を選べばいいか。ネタはどんな種類がいいか悩んでいた。


 日々、そんな事を考えていた頃である。

 会員制の高級レストランで〈彼女〉と出会ったのは。



 細く華奢な肩を出したドレスを身にまとう、それは美しい少女であった。

 白いドレスの上で揺れるひまわり色のウェービーな髪が、燃えるように輝いている。



 リップスティックが床を転がり、金塚の靴に当たった。

 それを追いかけて来たのが彼女・アビーであった。


「失礼」と言って彼女が微笑む。


 これまで見た事もないような、妖艶な微笑みだった。

 少女なのに色艶やかで、これまで出会ったどの女とも違う。

 金塚の息は止まり、鼓動が激しく乱れ打ち始めた。


 まだ中学生程の少女から目が離せない。


「アビー」と呼ばれて彼女が戻って行った先には、地元経済界の重鎮が居た。

 彼と目が合った金塚は元市長として、挨拶をしに向かった。無視は出来ない相手だ。


 初老の男と腕を組む少女は、どう見ても孫娘には思えない。

 チラチラと彼女を見ていると男は「ああ、この娘は」と、少し言い難そうに苦笑いを浮かべた。


 金塚は「あっ、いや!」と言って説明を拒んだ。男も「そうか」と苦笑いのまま頷いた。


 けれどでも、そうか。

 愛人なのか。


 こんなに若くて美しい少女を自分のものに出来るなんて、やはり市長などより金回りのいい男の方がモテるのであろうな。


 この美少女に比べ、自分に充てがわれる女達の、クオリティの低い事よ!


 まぁどうせ、見返りに送られるような女は、顔立ちはともかく〈その程度〉の価値でしかないのだろうし。顔などいくらでもメスが入れられるのだから。


 少し虚しさを覚えて彼らと別れた。

 その数日後である。


 何の前触れも無く、アビーが金塚の前に再び現れたのは。



 ホテルのレストランで知人達と昼食を取っている時だった。


「あら、こんにちは」と声をかけて来たのだ。


「わたくしの事、覚えていらっしゃいます?」


 テーブルの横に立ち、そう囁き、微笑んで。


 白いブラウスの襟には細いリボンが結ばれている、禁欲的なデザインの服を着ていた。

 学生服のようだ。だが、どこと言う学校の制服でもない。そう言うファッションなのだろう。

 年相応なので勿論、似合ってもいる。


 そんな彼女を見て、連れの男達が息を飲んだのが分かった。まるであの時の自分のようであったから。


「突然声をおかけしたりして、ご迷惑だったかしら。不意に金塚様のお姿を拝見してしまい、わたくしったらつい、嬉しくなってしまったのですわ」


 金塚は立ち上がり「そんな事ありませんよ」と必死で否定した。


「ですが、お連れ様もいらっしゃいますのに……皆様、わたくしの無礼をお許し下さい」


 小さく頭を下げる彼女に、男達は鼻の下を伸ばした。

 ああ、見苦しくて恥ずかしい。金塚は咳払いをした。


「このような所で偶然ですね。今日はおひとりなのですか」


「いえ、友人達と待ち合わせですわ」


「今日は、会長とご一緒ではないのですね」


「あら。わたくしと会長は、特別な関係ではございませんのよ。あの日はわたくし、彼の小さな悩みを聞いておりましたの。そう、人生相談ですわ」


 意外な言葉に金塚は自然と笑い声が出た。こんな少女に人生相談をする老人など、滑稽でしかない。


「まぁ、お笑いになりますのね? お孫さんに関するお悩みは、わたくしのような者でも充分アドバイスが出来たと思うのですけれど」


 ああ、そうか。溺愛している幼い孫娘が居るとは、聞いた事がある。どこの年寄りも孫は可愛いだろう。


「なるほど」


「ふふっ。もし金塚様にもお悩みがあるのなら、わたくし、伺ってみたいですわ」


「私の孫はきみより年上の男の子だから、さて――」


「お孫さんのご相談だけではなく、金塚様の個人的なお悩みにも興味がありましてよ? 周囲に嘘や捏造を振りまいたりしてはいけませんわ」


 心がギクリ、と冷たくなる。


「き……きみ」


「まぁ。そろそろ時間だわ、行かなくては。それでは金塚様、これをどうぞ」


「えっ」


 彼女は金塚のスーツの内ポケットにスルリ、と腕を滑らせすぐに抜いた。何かを入れたようだ。けれど重くもなければ違和感も無い。


「それでは皆様、御機嫌よう」


 彼女が微笑みを残して去ると、テーブルはざわついた。


「いやー、金塚さんにあのようなお知り合いがいらっしゃるとは」


「思わぬ目の保養が出来ました、なんと美しい!」


「本当に羨ましいですな、いや憎らしいほどですよ」


「どちらで知り合われたのですか、あのような少女と!」


 彼らが口々に驚愕を言葉にする。金塚は誇らしい気分になって、とても嬉しかった。

 嬉しかったのだけれど、小さなトゲが刺さっている。


 なぜ彼女はあのような言葉を自分に残した?

 嘘に捏造。毎日毎日、朝から晩まで自分の頭から消えない事だ。


 困惑して胸のポケットに手を入れてみる。

 そこにはカードが入っているようであった。指先で抜き出し、見る。


 ピンク色の小さなカードに、数字が並んでいた。

 どう見ても携帯の番号だ。金塚様へ、とまで書いてある。まるで、今日会う事が分かっていたみたいではないか。


 いやもしかして……わざとだろうか。

 彼女は自分に近づこうとしているのか? 会長にスパイでも頼まれたのだろうか。彼女と会長は秘密を共有出来る程、親密な仲なのだろうか。


 アビーは……どのような瞳であの男を見つめるのだろう。強い意志の秘められていそうなあの瞳は、どんな思いで男を品定めする?


 あの瞳に自分は、どう映った?

 薄い微笑みの下に隠された本心で本当は、自分をどのように評価したのだろう。


 王女のように眩しいアビー。

 これまで出会った事が無い、どころか……想像の中ですら思い描けなかった程の妖艶な少女。


 彼女の姿が意識に焼き付いて離れなくなってしまっていた。腹の奥が熱くて、イライラする。



 金塚はその夜、どうしても我慢出来なくて番号に掛けてみる事にした。

 自宅書斎の鍵を閉める。

 誰にも邪魔や干渉などされたくない。妻に突然入って来られたりしたら、殴ってしまいそうだ。考えただけで気持ちがトゲトゲしくなる。


 金塚は真剣だったのだ。その分、緊張していた。

 このような気持ちになるなど、何年ぶりであろうか。選挙に対する気持ちとは、真剣さの種類が違った。


 まだ子供のアビーごときに振り回されるのは御免である。

 そう思っているのに、わざわざ電話をかけるだなんて。


 いや。これ以上深入りしない為の、必要な行動なのだ。自分は、間違ってなどいない。


 数回のコールの後、電話に出たのは勿論、彼女であった。

 金塚は単刀直入に問い詰めた。


「なぜ私に近づく? 目的があるのなら話したまえ!」


 すると彼女は金塚の心が欲しい、と言ったのだ。心とはつまり、欲望であると。

 欲望とは具体的に何か。自分の望んでいる事……。


 そう。槙田を失脚させる事。


『あなたの心を、わたくしに託して?』


 甘えるような、トロリとした猫撫で声で。


「どう言う事だね」


 声が、震えた。

 見透かされているようで、恐怖すら感じる。


 彼女はふふっ、と小さく笑った。


『夜も更けてまいりましたわ。あなた様がわたくしをほんの少しでも好いて下さるのなら、今夜は夢でお会いしましょう。それでは御機嫌よう』


 電話は向こうから切られた。返事をする間も与えてはもらえなかった。一方的に切られたのである。


 大人になってから、このような扱いを受けた事は一度もない。

 いや、学生時代だって、エリートコースを歩んでいた自分に対し、このような態度を取る者など居なかった。


 ――クソガキが!


 思考は激しく抵抗しているのに、心が痛い。彼女を拒否しきれない自分をイヤと言う程自覚出来て……惨めだった。


 ――夢……?


 身体の距離など関係無く、直接会おうと言われているかのような。

 心同士で、魂同士で直接会おう、と言われたようなものだ。


 誰にも秘密の、決して他人に知られる事のない、ふたりきりの特殊な空間へ誘われた。


 会えばあの娘に自分の欲望をさらけ出す事になるのか。隠し事など出来るだろうか、夢の中なんて……自分がどうなってしまうか分からない。


 これまで自分のやって来た汚職から始まる、槙田への逆恨み。夢の中で自分を取り繕う事など出来るのだろうか。


 自信は無かった。

 あの娘を手玉に取れるとは思えない。弱気な自分がベッドへ入るのを拒否しようとする。

 けれど心は引かれるのだ、あの娘に。抗え切れない気がする。


 アビーの顔を思い出すだけで、その前に跪きそうになる。

 彼女の前に土下座し、泣き喚きたい気持ちにさえなっていた。



「あら、あなたお休みにならないの?」


 書斎のドアから一歩出た廊下で、金塚は妻の声を聞いた。

 ハッとして振り向くと、ナイティを着た彼女が、不思議そうな表情をして立っていた。


「携帯なんか握りしめて……顔色も悪いわよ?」


 廊下の明かりで見る妻は、老いの面影をその顔に写していた。

 これも議員の娘だ。欲得づくで結婚したが、悪い女ではなかった。箱入りの世間知らずだが、だからこそ善人であった。


「いや……もう寝るよ」


 そう言って金塚は、妻とは別々の寝室であるドアに向かって歩いた。

 背後から「おやすみなさい」と言われたので、少しだけ振り向いて「おやすみ」と返事をする。


『あなた様がわたくしをほんの少しでも好いて下さるのなら、今夜は夢でお会いしましょう』


 自分に嘘をつく事は出来たとしても、アビーに嘘をつけるとは思えない。

 きっと今夜、自分はあの娘の夢を見るのだろう。そして自分をさらけ出す事になるのだ。


 自分はどんな気分で明日の朝を迎えるのだろうか……それがとても、怖い。





 頭がズキズキとしている。龍壱は気絶でもしていただろうか。ハッとしてから、その場に座り込む。

 強か頭を打ったようだ。天井パネルが落ちたのなら、当然か。


 ――オレ、今……何か夢でも見てた?


 周囲は煙っていた。パネル裏の埃だろう。目の前の少女の頭部や身体にも、白い物が降り積もっている。


 龍壱は少女をボンヤリと見つめた。

 血は固まっているようだ。痛そうなガラスを早く抜いてあげたいのだが。


 頭がクラクラした。これが目眩、と言うものなのだろうか。乗り物酔いよりもっと気持ちが悪く、吐き気もする。頭の血管でも切れただろうか……。


「ふふっ、意外と小心者なのね。脳の血管なんて切れていないわ」


 ――えっ? 幻聴?


 聞き覚えのある言葉遣いに、抑揚と言い回しのリズムが誰かを思い出させた。


「そして金塚様、御機嫌いかが? 再会出来て嬉しく存じますわ」


『おっお前……アビー!』


 影が叫んだ。


 ――帰ったんじゃなかったのか、あいつっ!


 姿を見ようとして視線を動かそうとするのだが、ズキッと頭が痛んで思うように動けない。


『よくも……俺の前に現れたなぁ! この恨み……恨みぃ!』


 風が巻き起こった。

 足元に散らばっていたガラスが、埃が、パネルやテレビモニターの破片が舞い上がる。


 龍壱は女の子の前に再び、自分の上着を広げた。

 怪我をしているのだ。埃やバイ菌が少しでも付着しないように気を遣う。あまり効果が無さそうな行為だとは、自分でも分かっているのだが。まぁ、気持ちだけでも。


「まぁ金塚様、何を怒っていらっしゃいますの」


『お前のあの、夢の中での誘導は、俺を殺す為だったんだろうがっ!』


「あら、それは誤解ですわ。あなたが競技場の件を利用して、責任者である槙田様を失脚に追い込めるよう、わたくし、お手伝いしたまでですわ。昨日、あそこに居た人間を衰弱させたのはわたくしです。あなたへひとつのカードをプレゼントさせていただいたのですけれど、無駄になってしまいましたわね」


 ――どこに居る? いつの間にこの部屋へ来た?


 なぜアビーが現れたのか、納得出来ない。

 彼女が廊下に居るのか、室内に居るのか探ろうとするのだが、そんな事すら全く掴めなかった。頭が痛くて、意識がフラフラしている。


 尚巳の運転を断ってあの山に残ったクセに。

 地元に戻ってすぐここに来た龍壱とあまり時差無く現れた事も、疑問である。どうせここに来るのなら、それこそ一緒に戻って来ればよかったのに。


 他の人に送ってもらった? そんな人間があの集落に居たのだろうか。


 ――それとも〈跳んだ〉のか?


 龍壱には分からないが、とにかくアビーは〈ここ〉に居る。


『お前は俺が計略を企てていると知っていた、何故だ? お前がスパイだったからだろう! あの会長は俺がやっている事を薄々察知していたはずだからな』


「今時珍しく不誠実がお嫌いな方ですものね。確かに、あなたとは上手くいっていなかったとお聞きしておりますわよ? でもだからと言って、あなたのお生命まで奪おうとなど、あの方はなさいませんわ。酷い誤解です」


『ああ、酷いのはお前の方だからな、アビー。お前はあの夜、俺を誘導したのだ槙田を餌にして! この俺の生命を奪う為に!』


「あなたの望みは、呪いそのものでした。槙田様を恨み、呪って……それから怯えておりました。あなたの心は弱く、政治家としての運命は儚げでさえありました。もっと自信をお持ちなさればよかっただけですのに」


『なんだと……弱い? 俺がか!』


「不正の暴露に怯え、あなたは病んでらしたのよ? 金塚様。今のあなたを縛り上げているものも、わたくしへの恨みなどではなく、ご自身の恐怖心です。それを認められない事も分かっておりますわ。あなたが何ものをも恐れず、自分や他人のスキャンダルを利用出来るほど強い心の持ち主でしたならば、今回の悲劇も回避出来ましたのに……残念ですわね」


『どう言う意味だ』


「あなたを少しそそのかしただけで、わたくしに〈許可〉を与えてしまった。それがあなたの弱さなのです。スキャンダルを捏造してでも槙田様を陥れたかったのは、その心が弱いからです。不正を突き付けられればあなたは、潰れるしかないですものね。でも、いくら悪徳を掘り返されても、潰れない政治家はたくさん居ますのよ?」


 確かに、そんな政治家はたくさん実在すると龍壱も思う。政治にはあの図太さが必要だと言われれば、そうなのかも知れない。


 ――こいつ。だから国政に出られないんじゃねーの?


 もしかして〈地方の市長〉と言う肩書きですら、彼には大き過ぎたのかも知れない。背負いきれないほどに。


「いくらわたくしが人のエナジーを好き勝手に利用出来るとは言え、この国で勝手な事は出来なかった。いえ、してはいけなかった。例えあなたのような人からであろうと、わたくしには〈この国からの許可〉が絶対に必要だった……あなたの心を利用したと言えば、それはそうなのです。けれどわたくし、あなたの生命を狙うために動いたりしていませんわ。あなたなんて、利用する以外には何の価値も無いのですもの」


 ――うわ。酷い。


 好きでもない相手に対してならいくらでも冷酷になれる、とはよく聞かされた。

 女って、怖い。


「人を呪う心がどのようなシステムなのか、一度冷静に考えてみるべきです。心が強ければ誰をも呪う必要などなく、怯える事もなく、わたくしに利用される事もなかったのです。……さぁ金塚様、そろそろあちらへ参りましょう」


『なに?』


「怯えながらも不正に手を染め、大勢の他人を呪うための人生ではなかったはずですわ。あなたの人生は最初から、そうだったわけではないはずです。いつ、どのような事がその心に積もり、今のあなたになってしまったのか。あなたはこれから確認をする必要がありますの」


『や……めろ』


「記憶ではなく、記録された体験が待っています。懐かしい方々にもお会い出来ますわ」


『やめ……いや、だ』


「ご病気をした時、ずっと付き添ってくれたお母様や、お父様」


『頼む、やめ……』


「学校の先生やお友達、それに初恋の女性、奥様との出会い。お子様やお孫さんのお誕生。それから――」


『止めてくれ――!』


 悲痛な叫び、だった。無関係の龍壱ですら同情しそうになってしまう、怯えきった声だった。


「ふふっ。それでは金塚様、御機嫌よう」


 アビーの声には、慈悲も感傷も混じってはいない。龍壱はゾッとした。




 上からバチッ! と激しい音がした。

 驚いて頭上を見上げると、天井からぶら下がった何本もの配線から、黄金色の火花が飛び散っていた。


 その時、病室の入り口から人が入って来た。スーツを着た、廊下に居た男達である。

 その男達が病室内の惨状に「うわっ!」と驚いた後。


「貴様ら、どこから入った!」と怒鳴りつけられ、矛先がこちらへと向けられた。


「んな事より、看護師さん呼んでくれよっ! この子、全身ケガしてんだろーがっ!」


「お前ら、テロリストか!」


 予想外の言葉に呼吸が震える。


「ふ……フザけんな! 何でオレらがそんな事しなきゃなんねーんだ! 看護師さん、看護師さぁぁん!」


 龍壱は廊下に向かって叫んだ。

 背後に引っ張られながらも、必死で抵抗して看護師を呼び続ける。


 こちらが余程うるさかったのか、ひとりの看護師がパタパタと駆けつけてくれた。

 そして病室内を見るや、絶叫である。

 まぁ、それはそうかも知れない。病室は廃墟と化してしまっていたのだから。



 それから押し問答などがあり、楓がチンタラと遅い登場で、やっと落ち着いたのは一時間ほど後だったろうか。


 楓は彼らの方面に名前が通っていたようで、龍壱のテロリスト疑惑は払拭してくれたのだが。

 それでもどうも疑われっぱなしみたいで、納得出来ない。

 でも、拘束される事は免れた。


 そして槙田市長のこの病室に、アビーは居ない。逃げたのだろうか。


 ――オレに挨拶も無く?


 考えられない、あのアビーが。



 龍壱は自分に刺さっていたガラスを抜き取り、ナースステーションで消毒だけしてもらった。そしてすぐ、迷惑な見舞い客としてナースステーションを追い出された。


「ったく、ただでさえ病室が足りないようなのに。新しい部屋を用意するのも大変なんだぞ」


「オレに言うなよ。サッサと来ないお前も悪いんだろぉ」


「パーキング、空いてなかったんだもん」


 とりあえずベッドを他の部屋に移し、看護師達は市長の搬送先を探しているようだった。

 やはり一般病棟で大部屋、と言うわけにはいかないらしい。



 一階のベンチが並んでいる場所まで移動し、楓がジュースを買ってくれた。

 ベンチに座ってふたりで飲む。


 正面には窓口がズラリと並んでいて、〈会計〉だの〈再診〉だの〈入退院〉だのの表示がある。総合受付、と言うヤツだろうか。

 周囲にも見舞客や患者らが数組居り、それぞれ談話していた。来た時ほど騒がしくはない。走り回る子供が見当たらないせいだろう。


「改めて聞くけどさー、楓は何しにここへ来たわけ」


 数秒、間があった。そして「う~ん」と唸り声。


「え? オレをここまで引っ張って来ておいて、秘密とか無いよな?」


「だから市長の様子をだな……まぁ、コレだ」


 楓はゴルチェの鞄から、書類の入ったA4封筒を取り出した。


「ナニこれ」


 それを受け取り、封筒の上から中を覗き見る。堅苦しい内容の書類になど興味は無いし、読みたくもない。だからまぁ、見るだけ。


「金塚市長の、不正の証拠書類」


「えっ! マジか」


「いいや」


「は?」


「亡くなった市長はマトモではない状態だし書類を〈読める〉とは思わないから、中身は適当で関係の無い紙の束だ」


「ハッタリかますつもりだったんか。コエぇ……」


「どうせすぐには納得しないだろうから、取り引きするつもりだったんだよ。孫の未来と引き換えに、槙田市長から身を引け、って。家庭に対して愛情があまりなかったとは言え、それでもひとり娘はまぁ、可愛いがってたらしくてさ。その息子の将来を突き付けたら、可能性はあるんじゃないかなと思ったわけだ。でもまさか、もう〈逝ってた〉とは思わなかったわー」


 ふぅ、と息を吐いて楓はミネラルウォーターを飲んだ。「せっかく来たのに」と呟いて。


「で、誰が始末したんだ? お前じゃないのは分かってる」


「えっと……競技場で知り合ったヤツだよ。昨夜も一緒だったヤツ」


「どう処理した?」


「記録を体験する、とかナントカ。本人はイヤがって抵抗してたけど」


「それは何と、慈悲深い。南無阿弥陀仏」


「そうかぁ?」


「悪い事をして早く生命が落ちると言うのは、まだ悪意に染まりきっていないからだ。染まりきるとこれが不思議な事に、長生き出来るパターンが多いんだよな。悪いバックが出来て、悪い波動を自分のエネルギーとして活用出来るようになるから、だと思うんだけど。長寿の人って言うのは得てして善人と悪人の、両極端である事が多いんだ。ま、普通に健康な人も多いんだけどさ」


「ふぅん? でもとても綺麗な魂も早めに持って行かれる、とか言ってなかったっけ。特に子供とか、さ」


「それもあるな、結局はケースバイケースだ。で、〈適当な悪人〉にしかなれなかった金塚市長は、これから大反省会をさせられるわけか。気の毒に」


 楓が鼻で笑った。とても気の毒そうな表情には見えない。そう言うヤツだ、コイツは。


「さて、飲んだら処置室に行ってみるか」


「え。何で」


「お前がかばってた子、もし帰宅出来るなら送って行ってやろう」


 あんなに傷まみれで帰れるのだろうか。

 看護師が彼女を連れて行った時、あの病室は大混乱していて、自分はテロリスト扱いされていて、あの子の顔もマトモに確認出来なかったけど。


「まぁあれだけの傷だ、処置に時間はかかるだろうし。ゆっくりと飲め。お前だって疲れたろ」


「うん」と呟き、龍壱はジュースを飲んだ。柑橘系の香りがするソーダである。喉越しがシュワシュワとして冷たくて、心地よかった。


「なぁ、ビールって美味しいの?」


「個人差があるんじゃないかな、俺はアルコール嫌いだけど。飲みたいのか」


「いや、別に。喉越しって言葉が思い浮かんで、ついでにビールも思い出しただけ」


「あ、そ」


 それから数分して、処置室へと向かった。



 時間外外来、と表示してあるエリアにそれはあった。休日なので、そこがメインの処置室なのだろう。


 中に入ると、幾つかのベッドが並んでいた。点滴を受けている人が寝ていたり、カウンターでは喘息の処置を受けている子供が居る。


 そしてイスに座ってボンヤリしている女の子が、ひとり。

 見覚えのある服装だ。ミニスカートに春用のコート、そして足元に置かれたネイビーブルーの鞄。

 スカートから出ている脚には、消毒用の綿の上からテープが貼られていた。何カ所も。服を着ているから見えないだけで、その腕にも貼っているのだろうな。


「おい、大丈夫か」


 近づいて声をかけると、彼女が振り向いた。見覚えのある顔だった。


「あっ、梨果っ」


「りゅ……いち、さん?」


 梨果も心底、驚いた顔をした。

 その表情が見る見る歪み、大きな瞳から涙がボロボロと零れ出す。


 その時「ご父兄の方ですね」と看護師に言われ、楓が「は?」と返した。


「あ、はい……」と戸惑いながら頷く楓。


「よかった。この子、保険証を所持していなくて」


 ――お、カネの話か。じゃ任せよう。


「こちらへ」と、楓は看護師に連れて行かれた。


 改めて梨果の方を見る。

 彼女は我慢の糸が切れたように、両目を強く閉じて泣いていた。

 声を必死で押し殺して。肩に腕に強く力が入っているらしく、拳を握りしめて震えている。


「お前、何であそこに居たんだよ」


「まさか……龍壱さん、来てくれるなんて。嘘みた……。もぉ会えないと思ってたから……どぉしてぇ?」


 ひっく、ひっく。と呼吸を乱しながら呟く。


「うちの保護者が、市長の見舞いにさ……それはまぁ、いいじゃん」


「よくな……い、よくないよぉ。ひっく。だって私、誰も助けてくれるはずない、っておもっ……た、から。だから、ひとりで、ひっく。頑張っ……た、のにっ。ひっく」


 彼女に何が起こったか、どうしてそんなケガをするハメになってしまったのか。理由は分からないけれど。


「怖かった?」


「す……すご、く。怖かったぁ……うっ」


 龍壱は彼女の前にしゃがみ込み、梨果に笑って見せる。


「帰り、送ってやるって。だから安心しな、な?」


「ふえっ!」と妙な声を出して、梨果が抱きついて来た。


 彼女は膝を床に着き、両腕を龍壱の背中に回して来た。

 ぎゅっ。と身体が締め付けられる。身体の震えが伝わって来て、そして、あたたかい……。


 龍壱は彼女の髪を撫でた。泣く程に怖かったのなら、号泣するのも仕方が無い。


 ああ。だけど、女の子はいい匂いがするのだな。


 初めて会った時にも感じたけれど、梨果からは甘い果実のような香りがする。

 優しいフレーバーの、クリアな蜜色の液体が頭を過った。さっき飲んだジュースとは比べ物にならないくらい、レベル違いの美味しそうな液体である。

 フルート型のシャンパングラスに注がれ、ゆらゆらと揺れている。ガラスの表面には水滴が滴り、よく冷えているようだった。


 ――旨そう。飲んでみてぇ。


 けれどそれはイメージの中にしか存在しないドリンクだ。現実に飲める物ではない。龍壱の想像なのだから。


 ――よく言うよな。食事に行ったら実際に食べる行為より、メニューを見ている時が一番、幸せなんだって。


 それはメニューを反映して、脳が一番の理想を思い描くからだと聞いた事があるような気がする。温度も固さも香りもとろみも酸味も甘みも塩味も何もかも、脳は理想を作り上げるのだ、と。


 今、自分が抱いている女の子だってきっと、そうなのだ。

 シャンプーかトリートメントかフレグランスかは分からないが、梨果から受けるイメージが〈美味しそうな液体〉と言うだけだ。

 そんな事は分かっているのに。


 喉が、鳴った。


 人間に対して「旨そう」などと考えるだなんて、これまで無かった事である。

 心の端がツン、と冷たくなった。


 ……やはり自分は、人間ではないから?


 だから甘い香りの女の子に対して、こんな事を考えてしまうのだろうか。旨そう、なんて。


 自分は本当は、人間にはなりきれていないのかも知れない。何の能力も使えなくて、腕力しか無いのに。


 普通の人間とは違うのだ、と言う事実が龍壱の胸をチクリ、と刺した。


 ――今更、バカじゃないのかオレ。


 こんな事で不安を感じるだなんて。


 でも、なんだか寂しくて。

 龍壱は梨果の頭に頬を押し当てた。梨果は抵抗する事なく、まだ泣き続けている。


 と、その時。

 ぐ……ぐうぅぅぅ。と、龍壱の腹部から妙な音が響いたのである。


 震えていた梨果の身体がピクッと反応し、震えが止まった。


 そのまま、数秒経過して。


 梨果がゆっくりと顔を上げる。


 少し目を見開き、キョトンとした表情をしていた。

 間近に見ると、瞳が潤んでキラキラとしている。少し小さめの口が開いて。


 それから彼女はクスッ、と笑った。

 目元で小さな光が弾けて、きらめく。


 ――梨果が笑ってる……よかった。


 龍壱は心の底からホッとした。

 数秒前までの、自分の不安も消えてしまっている。

 何と言う威力だろう、梨果の笑顔は。まるで魔法だ。


「んだよ。笑うなよ。どう言うわけか、お前の顔を見てると腹減るんだよ」


「どぉして? ……初めて会った時に、私がアイスをぶつけちゃったから?」


「あ、そーかも! それだ、きっと! 条件反射ってヤツだ。だから甘いモン連想するんだ、お前の顔を見ると……」


 梨果は不満そうに口を尖らせたけれど、それも一瞬の事だった。


「ヤだもぅ、そんなの……!」と小さく息を吹き出して笑う。龍壱に身体を預けたまま。


 龍壱の胸の中で、梨果が笑う。小さな子供みたいだ。


「今度一緒にアイス食おうか」


「うん」


「じゃ、来月かな……オレ今、七十円しか持ってないからさ」


「なにそれ。子供みたい……」


 子供みたいな笑顔を浮かべた梨果に言われると、ちょっと恥ずかしかった。


「昨日、買い食いしちゃったからな」


「もぉ。ホントに子供ね……」


「そぉかな」


「そぉだよ」


 いつまでもこのまま、抱いていたい。

 だが人目もあるし、そろそろ離した方がいいのかな。


 でもあまりにも抱き心地がいいから、せめて楓が戻って来るまでは、このまま抱いていたい。

 あたたかくて華奢で、柔らかくていい匂いで――甘い。

 鼓動の音が聞こえて来そうだ。


「不思議。さっきまであんなに怖かったのに……龍壱さんが居てくれて、よかった」


「あ、それなんだけど……オレの事は龍壱、でいいよ。さん付けはちょっと、居心地悪い」


「そぉなの? でも呼び捨ては遠慮しちゃうなぁ。私の方が年下だし」


「いや、頼むから。耳慣れないし、ムズガユクてさ」


「そっか、わかった。じゃ、今度からそう呼ぶね。でも、今日だけは許して……龍壱さん」


 龍壱の名前をゆっくりと呟き、小首を傾げて梨果は、素直に微笑んだ。



 戻って来た楓と一緒に、三人で処置室を出る。

 このまま駐車場に向かおうと廊下を歩いていた時、龍壱の袖が不意に引っ張られた。


「あのね、帰る前に行きたい所があるの」と、梨果が小首を傾げて言う。


「どこ?」


「本当は私、先輩のお見舞いに来たの……だから」


 ――あぁ、怖い先輩がどーのこーのとか言ってたな。


「じゃあ行ってくれば。オレら、玄関口で待ってるから」


「うん」


 頷き、梨果はまだ赤い目のまま、廊下を小走りで行ってしまった。

 龍壱は、一緒に立ち止まってくれた楓の方を見る。


「そー言えば会計、どうした?」


「ちゃんと払って来たよ。後日、保険証持って来れば差額は返してくれるって」


「あ、そーなんだ。へぇ」


 ふたりで再び、歩き始める。


「それにしても、疲れたあぁ」


「明日から学校なんだから、今夜はちゃんと眠れよ」


「言われなくても眠るわぁ~。めっちゃ眠るわぁ~。明日は起きれないかも知れないわぁ~」


 そんな事を話しながら歩いた。




 梨果と連絡先交換をし、明日再び会う事にした。保険証を持って病院へ行くためだ。龍壱が付き合う事になった。


 彼女を送り届けてから帰宅する。

 腹は減るし眠いしで、体力の限界だった。


 帰宅して飯を食い、シャワーを浴びてからベッドへ倒れ込む。

 ずーっと何かを忘れているような気がしていたのだが、もう思い出そうとする気力も無かった。


 そして気絶するようにして、眠りに落ちる。



 ふふっ。


 あの、軽い笑い声が聞こえる。


『お疲れ様、龍壱。あなたの身体は居心地がとてもよかったけれど、ここで本当にお別れよ。またどこかで巡り会えるといいわね』


 寝ている龍壱の頬にチュッ。とくちびるらしき柔らかい物が触れたかと思うと同時に、腹の奥から〈何か〉が抜け出たような気がした。


 ああ、あの時。山でアビーから別れのキスをされた時。

 妊娠でもしたかのような違和感を感じたっけ。

 そうか。彼女のエネルギーを〈この身〉に受け入れていたのだな。


 ではもしかして、あの病室で影と会話をしていたのは、もしかして自分?

 アビーを探したけれど見つけられなかったのは、自分の口が影と会話をしていたから?


 けれど、答えは分からない。


『では失礼しますわ。おやすみなさい龍壱、御機嫌よう――』


 髪をするりと撫でられ、それ以後、気配は途切れてしまった。


 寂しいような、ひとりになってリラックスしたような、不思議な感情を抱いたまま龍壱は、深い眠りに落ちてゆく。



  ・ お わ り ・

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