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嵐は夜に  作者: あおい
05
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05-1

■05■


 ユカリ先輩から西区の救急病院に収容されたとメールが来て、梨果はお見舞いに来た。


 クラスメートは北区の中央医療センターに多く収容されたらしい。

 梨果は北区が地元なので、とりあえず先にユカリ先輩のお見舞いを済ませてから他を回ろうと考えている。


 昨日の今日で、病院のざわつきは半端なかった。ここは郊外型で落ち着いた雰囲気が売りの病院なのだが、そんな気配はどこにも無い。


 結局、みんなが倒れた原因は不明のままだし、病院に来てる家族の人達が心配のあまり殺気立ってしまう気持ちも、分かる。


 屋上に居たふたりの女の子達が原因だなんて言ったって誰も信じないだろうから、梨果はこれからも、誰にも何も言うつもりは無い。


 梨果は先輩の好きな炭酸飲料を院内の自動販売機で購入した。それをお見舞いとして渡すつもりだ。

 缶が冷たいので、ハンカチで包み右手に持つ。


 院内の案内板はどこにあるだろう?

 東病棟の三階だとメールに書いてあったのだけど、どっちが東なのだか全く分からない。


 とりあえずみんなが流れて行く奥の方へとゆっくり歩いた。天井のプレートや、壁の案内板を注意深くチェックしながら。


 騒がしい、と言う事もあるのだが、梨果は右手の廊下から、ふざけ合いながら走り寄って来る男子小学生達に気づかなかった。


 突然、身体が衝撃で振動した。

 軽い衝撃ではあったのだが、意識が案内板に集中していた梨果には結構なショックだったのだ。


 右手から缶が弾け飛ぶ。

 それは勢いよく、左奥へ続く廊下を滑って行った。


「あ~っ!」と叫び、梨果は缶の後を追いかける。

 運動神経はあまりよくない。拾いたい気持ちが先走り、腕を前に出して廊下を走るのだが、前かがみの姿勢ではスピードも出ない。

 元々、足も速くはないのだ。


 それに比べて缶は回転しながら、トップスピードに乗ってしまっている。


 ――ちょ、ちょっとぉ~! そんなに廊下を走ったら、汚れちゃうぅ!


 床で汚れたジュースなど、お見舞いに差し出すわけにはいかないではないか。梨果自身は炭酸飲料が苦手だし、でも先輩に渡す事も出来ないし。

 だからと言って、飲める物を捨てる勇気は無い。缶を洗って自分が飲むしかないのか。炭酸苦手なのに。


 前傾姿勢になり何度も右手を出すが、缶はあざ笑うかのように先へ先へと行ってしまう。

 梨果は何度もよろけながら、それでも必死で追いかけた。


 息が苦しくなった頃、缶がスピードを落としてやっと拾えた。

 持ち上げて、水滴が黒くなっているのを確認する。

 梨果はガッカリした。思いっきり汚れている。汚れまくっている。もうハンカチで持つ気持ちにもなれない。ハンカチが汚れるのがイヤだ。


 水道、どこかに無いかな。トイレ? は、イヤだ。給湯室とかあるはずだよね、と周囲を見回した時。

 梨果の心臓がドキッ、と跳ねた。


 中庭に面した全面ガラス張りの右手側と、左手側は奥へと壁が続いていて、扉もいくつかある。

 照明が薄暗いのだろうか、さっきまでと全然違う雰囲気の空間に梨果は立っていた。

 窓はUVカットガラスのようだ。薄い色が付いていて、かなり色彩のトーンを落とした庭が見えている。


 さっきまであんなに騒がしかったのに、何の音も聞こえない。耳鳴りが聞こえてきそうなほどの静けさだった。


 梨果は恐る恐る、自分の来た方を振り向く。

 さっきの廊下は見えるのだが、あんなに居た人がひとりも……見えない。


 無意識のうちに梨果は走っていた。元の場所に戻ろうとスニーカーを鳴らして。

 自分の呼吸とスニーカーの音だけが反射している。


 何度も息を飲み込んだ。そうしないと悲鳴を漏らしてしまいそうだったから。

 もし悲鳴をあげてしまったら、きっと自分はパニックになる。それが、分かる。


 ある程度の場所まで来た時、梨果の身体は押し返された。

 見えない空気の壁が、クッションのように反発したのである。


 腹の奥がぞわん、とした。

 重い感情がどすん、と身体の奥へと落ちたのが分かった。


「や……い、や。どうして? いやあっ!」


 両手で空気を叩く。叩きまくる。

 何度も何度も、悲しいくらいに何度も何度も。


「なんで? どうしてっ?」


 出られない――。


 もしかしてまた、あのふたりの仕業なのか? 競技場の屋上にいた、ふたりの女の子。


 ――じゃもしかして、また誰か〈こっち側〉で倒れてる、の?


 そう言えば「足りない」とか「集める」とか言っていたような気がする。


 ――まさか。


 梨果は再び、奥を振り返った。

 この奥にまた、誰かが倒れているのかも知れない。

 なぜいつも自分が無事なのか、それは分からないけれど。


 だけど今は、自分ひとり。


 一緒に居てくれたあの高校生達は居ないのだ。

 名前は……水玻璃と龍壱、とか言ってたっけ?

 昨日はあのふたりが居てくれたから、自分はワケも分からないうちに元に戻れたのだけど。


 いや、自分だけではなく、あそこに居た全員が助かった。彼らに助けられたのだ。でも今は……。


 ――あの制服、どこの高校だっけ?


 などと考えてみても、連絡など取りようもない。連絡先くらい聞いておけばよかった。

 だが今後悔しても遅いのである。どうしようもないのである。


 ――どうしよう……。


 この奥を確認するか? 人が倒れていたとしても、自分にはどうしてやりようもない。だけど。

 あの女の子達となら、話くらい出来そうな気がする。


 水色の空にひまわり色の髪がキラキラとして、綺麗な人だった。

 少し気が強そうな視線と涼しげな瞳、透き通った白い肌と、細い身体に艶かしい足。同じ女の子なのに、こっちが気後れしてしまいそうになる容姿の人だった。


 でも。そんな事を言っている場合ではない。

 ここから出られない、なら。


 ――本当に出られない?


 もう一度、空気に体当たりしてみた。

 ネットのように押し戻される梨果の身体。やはり出られないようだ。


 ――あの子達を、探そう。


 涙が零れないように、梨果は気持ちを切り替えた。もう少しで泣いてしまいそうだったけれど、我慢した。

 一度泣き始めたら、再び行動出来るようになるまで、きっと時間がかかる。それでは困るのだ。

 泣きながら人探しをするのは体力の分散にもなるし、それに何より。


 あの綺麗な人の前に、泣いて浮腫んだ顔で出たくはない。

 美人に対して腫れた目の自分など、さらしたくはないのだ。

 ただでさえ確実に自分の方がレベル低いのに、そんな体たらくはイヤである。恥ずかし過ぎて、女の子としてのプライドが傷つく。



 廊下の奥へと進む。

 進むほど暗さが増して、空気も冷たくなってゆく。

 いつからか、吐く息が白くなっていた。


 いくつかの扉を通り過ぎ、突き当たりを左に曲がる。

 左にしか廊下が無い。右はガラスが突き当たりの壁まで続いていて、そちらに行き場は無かった。


 左手に進むと、階段があった。

 梨果は彼女達が屋上に居た事を思い出した。ここはやはり上るべき、なのだろう。


 見上げると、さらに暗いような気がした。それを分かっていて暗闇に迷い込むのは、とても勇気が必要だった。足が震える。


 彼女達に会う事が、こんなにも怖いのだろうか。細く尖った氷を突きつけられているような苦痛が、胸を締め付けて来る。


 なんだか、違う気がした。この先に待っているのは彼女達ではないような気がして、仕方が無い。


 足が竦んでいた。行かなきゃ……行くべき? だって、ここに居たって出られない。


 何人もの自分が心の中で呟き合う。

 行かなければどうしようもない、と言う〈答え〉は出ているのに、このような葛藤に時間を取られるのは無意味な事だ。


 梨果は息を飲み込んで、階段を一段、上がった。



 二階。チラリと廊下を覗いたが、特に誰も居ない。少しホッとして、三階に向かう。

 三階。チラリと廊下を覗いたが、そこには人が居た。心臓がきゅっ、と収縮する。呼吸が苦しい。

 でも、そこに居たのはまるで〈残像〉のような、気配の感じられない人であった。


 ――止まってる……?


 そこに見える人は、スーツを着た大人の男性が三人だ。

 誰ひとり、身動きしていない。


 廊下のセットに映像を写したと言うか、重ねたと言うか、そのような感じにしか見えない。何と言う違和感だろう。


 病院に出入りしてる取引業者には思えない。

 彼らは病室の前に立ち、会話をしているようであった。何を話している〈瞬間〉なのだろう?


 色彩は他の物と同じように、トーンが落ちてかなり暗い。グレーの色が付いたフィルムの〈向こう〉に立っているように見える。


 梨果はフと、自分の手を見てみた。

 彼らよりはいつもの服や肌色に近いけれど、照明がほの暗い分、色彩は沈んでいた。


 彼らの傍の、病室の扉が開いていた。

 スーツの人達は、仕事の偉い人を見舞いにでも来たのだろうか、ビジネスの臭いがプンプンする。と言うか、それしか感じられなかった。


 とすると、もしかしてその部屋は個室?

 昨日の事件に巻き込まれた関係者は収容される場所にも困っていると聞いたのに、個室とはいいご身分である。


 どのうような人だろう、と一瞬、好奇心に刺激された。


 病室前にプレートがあるようだ。

 梨果は何となく、その部屋の前まで歩いた。何と言う名前の人だろうか。全く知らない人かもしれないけれど、何となく気になる。


 プレートには名前が無かった。


 あれ? 誰も居ないのだろうか。

 まさか芸能人が極秘入院しているわけでもないだろうし、名前を知られたくない人?

 それともこれから誰かがその部屋を使うから、部下らしき人がその準備をしている途中だったり?


 梨果は深く考えもせず、部屋を覗いた。

 そこに居たのはベッドの足元に立ち、ベッドの上を眺めている黒い人影であった。


 その人影は天井近くまで浮き上がり、足下は宙に浮いていた。浮いていたと言うか、下半身はグラデーションになって、消えている。


 梨果は瞬時にいっぱい、息を吸い込んだ。肺が思い切り膨らんで痛みを感じ、咳き込む。


 梨果は自分が音を立ててしまった事に気づき、凍えそうな気持ちで人影を確認する。

 けれど人影は梨果の気配に反応せず、ずうっとベッドを見下ろしていた。


 梨果は廊下の壁に背中を預け、その場に崩れ落ちた。気づかれなくてよかったけれど、でも……。


 ――あれ……なにっ?


 病院に怪談話は尽きないだろうけれど、その〈ワケの分からないモノ〉さえ、外界と隔絶されてしまい〈身動き出来ない〉と言う影響を受けてしまっているのか。


 ――ううん、違う。彼女達の〈やっていた事〉は〈コレ〉じゃない……。


 時が止まったような、スーツの人達。そして病室の中の人影。

 でも陸上競技場では、時が止まったような気配はなかった。閉じ込められはしたけれど、こんな風に暗くなりもしなかった。


 ……ボソッ。


 低い音が聞こえた、気がした。

 微かな低音だったような気もするが、無音の世界においてそれは、殊更強く梨果には聞こえたのだ。


 誰か、動いた? 何か、動いた?

 自分以外の何かが?


 チラリ、と高校生達の事を思い出していた。水玻璃と龍壱を。

 もしかしてあのふたり? と考えただけで安心した。と言うわけでもないのだが、呼吸が少しラクになったのは確かだ。


 音が聞こえた方を梨果は見た。病室の入り口を。


 ――あの、部屋の中……。


 不気味な黒い影は浮かんでいたけれど身動きはしなかったし、ここに居る他の人間達と同じく、動く事はないだろう。


 勇気を出して梨果は再び、その部屋を覗いた。

 さっきと変化の見られない景色しか見えなかった。窓の外に誰かが居るわけでもない。


 ――そう、だよね。そんな都合良くあの人達が来てくれるわけない、よね。


 ガッカリする必要はない、と自分に言い聞かせる。一瞬でも期待した自分がバカだった。


 涙がじわり、と瞳から零れそうになるが、グッと我慢する。泣くとブサイクになっちゃうから! と、強く自分を脅迫した。


 そんなのはイヤだブサイクはイヤだ、と考えてはみるけれど本当は、梨果の本当の気持ちは、もう自分がブサイクになっちゃうとか、そんな事はどうでもよくなっていた。


 だって自分の他には誰も居ないのだ。居ると言えば居るけれど、相手はただ〈居る〉だけで、意思の疎通も出来はしないのだから。


「はぁ……行こ」


 小さく呟いた時、梨果の耳はもう一度さっきの、微かなボソッ、と言う音を捉えていた。


 伏せていた顔を上げ、振り返る。それはやはり病室内――ベッドの方から聞こえた。


 窓の外の木の枝どころか、雲さえも動いてはいないのに何の音だろうか。

 不思議過ぎてその時、恐怖心はどこかへ消えていた。


 原因の方が気になるけれど、答えが分からない。


 梨果は戸惑った。

 幻聴かも知れないほどに頼りない、わずかな手がかりなのだけど、無視するわけにはいかないだろう。


 物が落ちた? 空気の流れが起こした摩擦音?

 何でもいいから知りたかった。自分以外の、音の原因を。


 梨果は室内に足を踏み入れた。

 他人の病室に無許可で入るのは心苦しいし、あの黒い影だって怖い。個室で黒い影など、まるで死神ではないか。


 ――だよね……考えてみれば、こんなのが見えている事自体、あり得ない事だよね。


 天井近くまで浮き上がり、しかも足元がボヤけている影など化け物でしかない。

 普段の梨果ならば認めないし、見えもしないし、信じてすらいないような存在だけど。


 今、すがれるものは、それだけだから。


 ボソッ。


 再び聞こえた。

 梨果は目を閉じて、自分の感覚を確認する。

 どっちの方向から聞こえた? 距離はどれくらいだった? いや何より、何の音だろうか。


 耳に残っている感触を、意識して追いかける。

 自分の中の感覚を把握しようと、全身の神経を探った。


 ボソボソッ。


 集中している耳と感覚にそれは、更に自分の存在を示す。


 梨果は目を開けた。そして黒い影を見上げる。身体が震え始めた。


 目が見える。

 黒目がこっちを見下ろし、睨んでいるようであった。


 その目は、赤かった。

 本来なら白目の部分が赤く染まり、その中に黒目がある。白目の部分は血よりもどす黒い赤で、汚く濁っていた。


 喉が、呼吸器が、全身の筋肉が引きつる。


 ボソボソッ。ボソボソッ。


 ――なに? 何て言ってるの……!


『……の、おん……』


 ――え?


 梨果の意識が乗り出して聞こう、と言う体勢を取った時だった。


『お前からあの女の匂いがするうぅ――っ!』


 それは頭蓋骨まで震え響き渡るような、怒りの込められた怒声であった。


 小さな声を聞こうとしていた梨果の神経があまりの大声を受け止めきれず、身体が背後に吹っ飛んだ。背中を強く壁にぶつけ、その場に崩れ落ちる。


 それと同時に周囲から、小さな破壊音が聞こえたのである。

 その正体に気づいた時、梨果は恐怖で絶叫した。

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