第34話 乖離
宇野啓介は、地面に膝をついた。
息がうまく入らなかった。
手の中に、まだ感触が残っている。
制服の布。
肩の硬さ。
重さ。
橋本翔の体は、もうなかった。
そう思った瞬間、胃の奥が縮んだ。
佐伯真帆は前を歩いていた。
少し先。
木の間。
薄くなり始めた闇の中。
振り返らない。
「止まらないで」
佐伯が言った。
宇野は顔を上げた。
佐伯は歩く速度を落とさない。
「まだ近い」
宇野の声が掠れた。
「近い」
「グレッグさん」
宇野は奥歯を噛んだ。
「グレッグさんって何だよ」
佐伯の足が止まった。
「橋本も、吉岡も」
「藤堂たちも」
「みんなあの男に殺されたんだろ」
「なんで、さん付けなんだよ。友達みたいに呼ぶな」
佐伯は少しだけ目を伏せた。
「ごめん」
宇野は言葉を止めた。
謝るとは思わなかった。
「最初、みんなそう呼んでたから」
「そのままになってた」
「そのままって」
「うん」
「よくなかったね」
佐伯はそう言った。
それだけだった。
宇野は喉の奥が熱くなるのを感じた。
橋本翔が倒れた。
吉岡隼人が落ちた。
男は立った。
右脚が沈んだ。
それでも顔を上げた。
まだ来る。
それが分かってしまう。
「橋本が死んだ」
宇野は言った。
佐伯は振り返った。
「吉岡も」
「うん」
「うんじゃねえだろ」
宇野の声が大きくなった。
森の中で、少しだけ響いた。
佐伯は瞬きをした。
いつもの顔だった。
「目の前で死んだんだぞ」
「うん」
「なんで」
宇野は立ち上がった。
膝が汚れていた。
手も。
橋本の血かもしれないと思った。
でも、暗くて分からなかった。
「なんで、そんな普通にしてられるんだよ」
佐伯は少しだけ首を傾げた。
「普通じゃないよ」
「普通だろ」
「急いでる」
宇野は言葉を失った。
佐伯の声は、変わらなかった。
「急いでるって」
「止まると、間に合わない」
「何にだよ」
宇野は一歩近づいた。
「橋本には間に合わなかった」
「吉岡にも間に合わなかった」
佐伯は答えない。
「正しい配置だったんじゃないのかよ」
佐伯は宇野を見ていた。
「お前が決めたんだろ」
「橋本は右」
「吉岡は奥」
「俺は橋本の後ろ」
「そう言っただろ」
「うん」
「お前のギフトは計算なんだろ」
「うん」
「じゃあ、なんで死んだんだよ」
佐伯は少し黙った。
森の奥で、鳥が一度鳴いた。
夜が薄くなっている。
「配置は、悪くなかったと思う」
宇野は息を止めた。
「悪くなかった?」
「橋本君が当てれば、足は止まった」
「外れても、吉岡君の範囲に入る」
「外れても?」
佐伯は頷いた。
「ただ、宇野君のギフトを一度見せてた」
宇野は佐伯を見た。
「最初の時」
「……あ」
森の中。
男から逃げた時。
佐伯に触れて飛んだ時。
あの一回。
「奇襲じゃなくなってた」
「あの人は、宇野君がどこへ出るかを考えてた」
「あの人って言うな」
宇野の声が低くなった。
佐伯は瞬きをした。
「グレッグは、あの男は宇野君がどこへ出るかを考えてた」
言い直した。
それだけだった。
「それで橋本は死んだのかよ」
「うん」
佐伯の声は変わらなかった。
宇野は拳を握った。
「うんじゃねえって言ってるだろ」
佐伯はまばたきをした。
「でも、止まった」
「何が」
「グレッグ」
宇野は奥を見た。
見えるはずがない。
でも、あの男が膝をついた姿だけは、まだ目の裏にあった。
「すぐには追ってこられない」
「だから成功って言いたいのかよ」
「成功とは言ってない」
「じゃあ何なんだよ」
「必要だった」
宇野は佐伯の胸ぐらを掴みそうになった。
手が動きかけたが止めた。
佐伯は逃げなかった。
ただ見ている。
「切っただけだと、たぶん戻る」
佐伯が言った。
「は?」
「血とか、浅い傷なら」
「でも、足はすぐには戻らない」
「何の話だよ」
「グレッグの話」
宇野は何も言えなかった。
何を聞いているのか、分からなかった。
橋本が死んだ。
吉岡が死んだ。
なのに佐伯は、あの殺人鬼の足の話をしている。
「お前」
宇野は言った。
「お前、どうしたんだよ」
佐伯は顔を上げた。
「橋本も言ってた」
「お前、そんな感じじゃなかっただろ」
佐伯は何も言わない。
「クラスで話してた時も」
「昨日、学校にいた時も」
「こんなんじゃなかっただろ」
佐伯は少しだけ首を傾けた。
「そんなこと言われても」
声は静かだった。
「私は私だよ」
「違うだろ」
「変わったって言うなら」
佐伯は宇野を見た。
「宇野君だって、昨日登校した時は跳べなかったでしょ」
宇野は黙った。
「私にこんな怒鳴ったりもしなかったよね」
「というか、誰かに怒鳴ってるの、見たことないよ」
宇野の喉が詰まった。
佐伯の言っていることは、間違っていなかった。
昨日の朝。
教室。
机。
鞄。
誰かの笑い声。
その時の自分は、どこにもいない。
「みんな変わったんだと思う」
佐伯が言った。
宇野は息を吸った。
「そういうことじゃねえだろ」
それだけしか出なかった。
佐伯は何も返さなかった。
木々の間が、少し白くなっている。
佐伯は空を見た。
「明るくなってきた」
宇野は答えなかった。
「ここからは、飛ぼう」
宇野は佐伯を見る。
「飛ぶって」
「尾根まで」
「少しずつでいい」
「みんな、そこに集まるから」
「またそれかよ」
宇野は吐き捨てた。
「誰がいるんだよ」
「相澤さんたち」
「本当にいるのかよ」
「いると思う」
「思う?」
「集まると思う。森本君ならそうする」
宇野は佐伯を睨んだ。
佐伯は気にしなかった。
「しばらくしたら、軍が動く」
「その前に着かないと、合流できなくなる」
合流。
その言葉だけが、宇野の中で引っかかった。
橋本は動かない。
吉岡も動かない。
合流する人数は、もう減っている。
「軍が動くって、なんで分かるんだよ」
「明るくなるから」
「それだけかよ」
「夜の間は、囲むだけ」
「明るくなったら、動くと思う」
佐伯は森の奥を見た。
「逃げる場所を減らす」
宇野は言葉を探した。
見つからなかった。
佐伯は手を伸ばした。
「早く」
その手は、昨日の教室にいた佐伯の手と同じだった。
細い。
白い。
少し冷たそうな手。
でも、宇野には違うものに見えた。
納得できることは、一つもなかった。
橋本が死んだこと。
吉岡が死んだこと。
佐伯が冷静なこと。
配置は悪くなかったと言われたこと。
軍が来ること。
尾根に行くこと。
何も納得できなかった。
信用もできなかった。
「くそ」
宇野は小さく言った。
佐伯は手を伸ばしたままだった。
「本当に、くそだ」
それでも、他に行く場所がなかった。
後ろには、あの男がいる。
森の外には、軍がいる。
橋本も吉岡も、もういない。
尾根に行けば、誰かがいるかもしれない。
相澤がいるかもしれない。
森本がいるかもしれない。
他の誰かが、まだ生きているかもしれない。
宇野は佐伯の手を掴んだ。
佐伯の手は、思ったより冷たくなかった。
「見えるでしょ?」
宇野は前を見た。
木の間。
薄い朝の色。
少し先の地面。
見える。
「……ああ、少しだけ」
「うん」
佐伯が頷いた。
「なら行こう」
宇野は息を吸った。
跳ぶ。
二人の姿が、森の中から消えた。




