4-10
10
「あ゛いでっ!」
しわくちゃの老婆に、襤褸切れとなった上着を引きはがされ、ディーンは悲鳴をあげた。
「騒ぐでない。ようもこれだけの傷で済んだものよ」
老婆は、顔の半分ほどもある大きな目玉で少年を一睨みすると、清潔な水で背中の火傷を洗いはじめる。
あれから――。
エデンに戻ったレイたち一行は、まだ余震の続く中、火人たちの熱烈な出迎えを受けた。
魔王の封印近くに住み、それを護る彼らにとって、今回の事件は生死に関わる問題であり、レイたちはまさに救いの主に違いない。
加えて、天眼を持つ彼らは、世界の危機が救われたという事実をも識っているようだ。
ちなみに聖宝が何たるかを最後まで知らなかったディーンは、帰る道すがら、レイからその重要性をみっちりと聞かされ、腰を抜かしかけたらしい。
神殿の前に降り立った三人は、集まった村人の歓声に照れながら、輪の中心にいた長に帰還を告げた。
炎を渡る者は、皺深い顔を和ませ、飾り気もなく言った。
「ようやった。ようやったぞ」
その一言で、レイたちは苦労が報われた思いがする。
戦いの最中、能力者として目覚めたレイは、治癒力が高まったために怪我はなかったものの疲労が激しく、早々に仮宿へ引き上げた。同じく妖魔の九曜も、倒れるように眠りに就く。
一人傷だらけのディーンは、神殿の一間で手当てを受けることとなった。
手当てをするのは、司祭兼医師でもある女長、炎を渡る者その人である。
年齢がいくつかも定かでない長は、老練な手さばきで様々な薬草をすりつぶすと、香油を混ぜ、綿紗に塗っては傷口に貼りつけていく。
戦闘で全身に大小さまざまな傷を負ったディーンだが、不思議と背中の火傷より深い外傷はなかった。打撲は多いものの、瓦礫に埋まった割には骨にも異常はない。
実は、運のいいことに、聖母の法力のために強い霊力を得た護り石が、一種の保護膜のようなものを作って霊的に彼の身体を守護していたようなのだ。
しかし、胸を貫いたユダの魔力の直撃は負荷に過ぎ、その存在を失ってしまったのだ。
それでも引き換えに魔力を中和したのだから、その霊力はレイたちの想像以上だったことがうかがえる。
――やっぱ、働いて返さなきゃダメかもな~。
胡坐を組み、治療をおこなう長のするがままになりながら、ディーンは思った。
長は、傷全体を綿紗で覆うと、幅広の包帯でディーンの上半身をぐるぐる巻きにする。大変な様相となっていく自分の姿に、ディーンは少し眉をひそめた。
背中の火傷が広いのだから仕方ないのだが、なんとなく木乃伊になった気分だ。
だがディーンは、不満を口にする代わりに、ある疑問を長に投げかけた。
天眼を持つ火人の長ならば、戦いの最中浮かんだその疑問に、一番確かな答えをくれると思ったからである。
「なあ、おばば。結局あいつの動機は何だったんだ?」
「ふむ。そうじゃな――」
長は、包帯を巻く手休めぬまま、彼の問いに答えた。
「奴は、そもそも最初から聖宝を狙っておったわけではないのじゃ。誰しもがそうであるように、少しずつ人生の歯車が狂ってしまっただけのことよ。
――奴は孤児よ。見目奇抜な、抜群に優れた能力者であった子供は、ある法術師の目に留まり、弟子となった。じゃが、弟子はすぐに師匠を超え、手がつけられなくなってしまった。それでもその腕を惜しんだ周囲は、双方の安全のため彼を神殿に入れることにした――遠くへ、な」
「エファイオス……」
「そうじゃ。神官になった頃はまだ、奴はただ高い地位を得たいという思いのみがあったようでな。周囲の者を見返すためか、帝都にのぼって父帝に逢うためかは分からぬ。ひたすら上を望み、それが叶わなくなったとき、歯車が壊れてしまったのじゃ」
ユダの父親は、今は亡き前の皇帝ジェサイアであった。
豪胆をもって鳴らした先帝は、好色なことでも知られ、帝都にとどまらず各地で多くの女性関係をもうけていた。ユダの母であるアデイラもその一人で、先帝がアルビオン王国を訪れた際、見初めたものらしい。
先帝は、美しく不思議な魅力を持ったアデイラにのめり込み、実に三月もの滞在の間、片時も手元を放さぬ有様であった。そして去り際には、パルミラ郊外の屋敷を買い与えたという。
しかし、それからしばらくして、はたと先帝からの音信が途絶えた。
アデイラはすでに身籠っており、翌年には珠のような男子を産み落としたが、そのときですら形ばかりの文と祝いの品が送られただけであった。
それでもアデイラは先帝を信じ、待った。少しずつ使用人も減り、さびれてくる屋敷の中で、アデイラは息子と共に待ち続け、ついに公に訴え出た。
我が身の不遇を、ではなく、息子を正式に皇帝の子として認めるよう申し出たのである。
だが、それは認められなかった。
理由は、アデイラの背景にあった。
踊り子として生計を立てていたアデイラは、実は、アルビオンで屈指の実力を誇る呪術師でもあったのだ。
帝都の玄関口である総督府の回答は、こうである。
『闇の呪法を預かる呪術師が、統一世界皇帝に近付くことなど許されぬ。ましてや御落胤を賜るなどもっての他――』
呪術を用いてそのように仕向けたのに違いない。従って、皇帝の子では在り得ぬ、というのだ。さらに、
『妖しき呪法を用いて産まれた子は、悪魔であり、母親共々処罰されるべきである』
とさえ言ってきた。
付け加えると、帝都でノアが見つけた文書は、アルビオン総督府まで届いていない。その前に何者かの手によって握り潰され、存在を抹消されたのだ。
アデイラは怒った。
誘いをかけてきたのはむしろ皇帝の方であり、ましてや男女の間で起こることに、呪法など何の役に立つものではない。
そもそも呪術師・魔術師という存在は、法術師のように神の名のもとに能力を行使しない、外法者への呼称である。したがって、アルビオン土着の呪いや占いを受け継ぐアデイラは、信仰の篤い帝都人からすれば、邪教者と見られなくもない。
しかし人々の助けとなるのは、法術のみに限られたことではないのだ。いや、どちらかといえば弱い人が生きていくためには、些細なことにも柔軟に対応できる呪法がより必要であったといえる。
光があるからこその闇の存在――光明神教を受け入れつつも、その陰で人々はうまく土着の信仰を生かしてきた。もちろんアデイラにも尊敬の念が払われ、彼女自身もまた強い信念と誇りをもって呪術を行なってきたつもりである。
だが皇帝は、その事実を知るには、あまりにかけ離れたところにいた。そうして、悲劇は起こった。
アデイラは、真実を知った翌日に、毒を飲んで自害。
当時すでに九歳になっていたユダは、呪詛の言葉を残して息絶えた母を一人看取り、その亡骸を埋めたという。
その後、天涯孤独となったユダを救ったのは、皮肉にも母を死に追いやったもの――両親から受け継いだ負の遺産である、底知れぬ能力だった。
鍛えれば鍛えるだけ伸びる恐るべき能力は、少年の心に屈折した自信を生んだ。やがて慢心となり野望となった暗い燻りは、エファイオスで神官となった後も消えることはなかった。
いや、それは特異な容貌と強すぎる能力への厳しい差別と、皇帝の息子でありながら孤児であるという報われない現実に晒されることによって、野望よりもっと昏い闇の火種を彼の心に植え付けたと言ってよい。
そして、大祭司への道が閉ざされたと知った時、狂気となって迸り出たのである。
実は、大祭司の落選は、彼を疎ましく思う者たちの策謀でもあったらしい。
いずれにせよ、西の大神殿の長の暗殺を企てたユダは、ついにその地位を剥奪され、母国アルビオンへと追われることとなった。そうして――魔王と出逢ったのだ。
彼がどうして魔王の存在に目を留めたかは、長の天眼をもっても分からぬようだが、アルビオンの砂漠に眠っていた砂巳たちの封印を解いて従え、長い年月をかけて聖宝を奪う手立てを整えたのだろう。
母の遺恨を晴らすためか、その執念は凄まじいものがある。
話を聞いて、ディーンは重い気分になった。
積もり積もった憎悪と恨みの念――アルビオンから出なければ、それはもっと違った形で昇華されはしなかっただろうか。
「あいつも……被害者だったんだな」
ぽつりと、ディーンは呟いた。
「いい人にめぐり会えてれば、きっと――」
「うむ。そうかもしれぬ。じゃが、それでもなお奴はこの道を選んだかもしれぬ。人の心とは計り知れぬものよ。今も昔も――。我らは、ただ生きていくだけで精一杯じゃからの」
「うん……」
頷いたディーンは、ふと、おのれの膝の上に舞い落ちる黒いものに気が付いた。
摘まみあげたそれが何であるかを知り、彼の口から絶叫があがる。
「あ――――――っっ!!」
「なんじゃ、うるさい」
「お……こ、これ俺のぉ……っ!」
「動くでない。動くと首までちょん切るぞ!!」
うろたえるディーンをぴしりと叱りつけ、火人の長は容赦なく、彼の長い髪をじょきじょきと鋏で切り落としていく。
何事かと顔を覗かせた炎の鳥と白い篝火が、ぷっと吹き出した。
床一面に散乱する黒髪の束の中で、半べそをかいて、包帯だらけのディーンが座っている。
気付いたときには大きく鋏が耳の上で入れられ、今さら引くに引けぬ状況で、ディーンはもう泣いていいのやら怒っていいのやら分からぬ有様であった。
「これ。長みずからが散髪してやっておるのだぞ。もうちっと嬉しそうな顔をせぬか」
「だ、誰が嬉しいもんか……っ」
「ならば、焦げてちりちりの頭のままでよいのか? それに――」
長は、手際よく鋏をふるいつつ、
「おぬしにはもう必要なかろう?」
答えを求めるわけでもなく、静かに問うた。
一瞬はっと老婆を見たディーンは、素直に首を縦に振った。
「でも――もう少し長めに切ってくれてもいいんだけど」
「やかましいっ」
長が、鋏を持った手でディーンの頭を小突く。
やがて、焼け焦げた部分を余すところなく切られた黒い髪が、山となって床に積もった。
ディーンの方は、というと、
「おばば、ちょっとこれ短すぎじゃない?」
右に左に鏡を覗き込みながら、しきりに髪を引っ張っている。
耳が軽く隠れる程度の短髪となったディーンは、あのけばけばしい装身具がなくなったこともあって、どこかおとなしい、普通の少年に見えた。
「文句の多い男じゃな」
箒で部屋を掃除する長は、ぶうぶう言う少年の後ろから鏡を覗く。そして、
「うむ。初めてにしては上出来じゃ」
頷きつつ去った。
「おばば~っ」
「ほっほっほぉ~」
蒼褪めるディーンに、無責任な老婆の笑い声が追い討ちをかける。
へなへなと萎むディーンに、さすがに気の毒になったのか、長は彼を祭壇前に招いた。
「そう落ち込むでない。――どれ。おぬしの行く末でも視てみようかの」
神殿正面にある〝永遠の炎〟の火を継いでいるのか、消されることのない炎が、うず高く積まれた焚き木の上で燃えている。
長は、集めた黒髪を残らず祭壇の火にくべると、香を一掴み、めらめらと燃える火中に投じた。
ばっと火の粉が散り、髪の燃える異臭と香の匂いが、熱い煙となって神殿に充満する。
祭壇の前に端座した長は、しばらく炎を見つめていたが、やがて真摯な面持ちで少年に向き直った。
「おぬしはどうやら複雑な星の下に産まれてきたようじゃな」
「複雑……?」
「そうじゃ。知りたいか?」
長の問いかけにディーンは黙り、ややあって、ゆっくりと首を横に振った。
「――いや。俺は今まで自分の意思で道を選んできた。これからもそれは変わらないと思う。だから、未来を知る必要はないし、知りたいとも思わない。だけど――」
語を切って、ひっそりと尋ねる。
「ひとつだけ教えてくれ。俺の……俺の両親の行方は――?」
火人の長は、深いため息をひとつ吐き、答えた。
「――この世では会えぬところにおる」
ディーンは束の間、その紫の瞳を閉じる。
「そうか……」
「おぬしはこれまで、多くの危難を背負ってきた。じゃが、負けるまいぞ。多くの者がおぬしを見守っておる。おぬしの兄弟や……両親もな」
「おばばも?」
その問いに、長は、少し笑って頷いた。
「そうじゃよ」
ようやくディーンに、笑顔が戻る。
いつのまにか訪れた月のやわらかな光が、静かに、二人に淡い影を落としていた。
*
翌日。
夜明けと共に活動を始める火人たちにつられて、ディーンは目を覚ました。
欠伸を噛みつつ、ディーンは軽くなった頭に頭布を巻き、手拭を肩に引っ掛けて、泉へ顔を洗いに出かける。
水資源の豊富なエデンでは、飲料水は井戸で賄い、洗濯は川で行なっていた。ゆっくりするなら少し離れた泉がよいと、白い篝火に勧められたのである。
すっかり顔の知られてしまった彼は、朝靄の中を行き交う村人と笑顔で挨拶を交わした。
火人の村は人口三百人ほどだが、その大多数は女だ。
天眼と呼ばれる能力も女性に優勢的に現われるらしく、長をはじめとする村の重鎮たちも、すべて女性であった。
性質も男性の方が温和で、料理や洗濯、裁縫といった家事全般をこなす。典型的な女性社会だ。
だが例外はあり、妖魔狩人がもつ魔剣の製作に関してだけは、選ばれた男性のみの役割だという。
白い篝火から聞いたそんな村の話を思い起こしながら、ディーンは集落の片隅の雑木林に入っていった。
下生えを申し訳程度に刈った道は、通行する人の足で踏み固められ、赤い土が露出している。
背の高い茅を手でかきわけたディーンは、前方から聞こえてくる水音に足を止めた。
――先客かな?
ディーンは遠慮がちに、ジュラの若木の隙間から顔を出した。
――女……?
腰から下を水に沈めた若い女が一人、気持ちよさそうに水を浴びている。
細いが、よく引き締まったのびやかな肢体。日に焼けているが、まぎれもない白い肌。
女が背を向けて髪を洗っていることをいいことに、ついつい見入ったディーンは、ふとあることに気がついた。
――この村に、白い肌の人間なんかいたっけ?
ムーア大陸南部でも緯度の低い地域に住まう火人たちは、皆一様によく日に焼けた赤銅色の肌をしていた。
ディーンも焼けてはいるが、元が白いせいか、彼らと比べれば多少薄く見えた。
全員を見知っているわけではないが、この小さな村で自分より白い肌の者を見た憶えはない。
不審に思ったディーンが、さらに身を乗り出した、そのとき。
洗い髪をはねのけた女が、こちらを向いた。
「あ……っ!」
思わずディーンは、声を上げた。
慌てて裸身を水中に隠した女が、木陰の少年の姿を認める。
「ディーン?!」
「わ……悪い。水音がしたんで、つい、その……ごめん!」
ディーンは、口の中でもごもごと謝り、逃げるようにその場を走り去った。
「ディーン、待っ……!」
呼び止めようとして、女は言葉を切る。
ため息をついて唇を噛み、レイは、水に濡れた銀色の髪をかきあげた。
火人たちにあてがわれた家で、仔猫姿の九曜がのんびりと惰眠を貪っていると、慌ただしい足音が聞こえてきた。
薄目を開けた九曜は、血相を変えて飛び込んできたレイの姿に、跳ね起きる。
朝の水浴びに出かけたはずのレイは、髪から雫が滴り落ちるのもそのままに、ぺったりとその場に座り込んだ。
日頃大人びた落ち着きを見せる少女の慌てように、仔猫の目が真ん丸になる。
「どうしたの?」
その問いが耳に入らないのか、レイは張り詰めた表情のまま、呟いた。
「……どうしよう」
「だから、何が?」
訳が分からず、仔猫は首をかしげた。
「ディーンに見られた」
その一言で、九曜は状況を理解する。
おそらく、水浴びに行っていたレイが、ディーンと鉢合わせしたのだろう。
そこまで考えて、九曜は、
「完全に見られちゃったの?」
「多分……。一瞬だったからよく分からないけど、でも、女だとは確実に知られたと思う」
「あー……」
どう言ったものか迷い、九曜は言葉を探した。
「まあ、どうせいつかは分かることだし、説明する手間が省けてよかったんじゃない? 見られちゃったのは、えっと……その、狂犬に咬まれたようなものだと思えば――」
頭が混乱しているせいか、いまいち慰めになっていない。
濡れた身体を抱きかかえて涙ぐむレイに、九曜は、柄にもなくうろたえた。
「レ……レイ?!」
「どうしよう、九曜。これからどんな顔してディーンに会えばいい? なんて話せばいいんだろう……?」
尋ねる声が、小さく震える。
――なぜ……もっと早く打ち明けてしまわなかったのだろう。
ただ、恐かった。
自分が女だと知って、迷いもなく友達だと――好きだと言った彼の目に驚きと軽蔑が浮かぶのが、初めて友と呼べる相手を失うことが、恐かったのだ。
自己嫌悪に押し潰されそうになるレイの手に、そっと、獣の小さな肢が乗った。九曜である。
濡れるのも人の体温も苦手な仔猫は、困ったような顔で、うつむくレイを覗き込んだ。
「素直に全部話しちゃいなよ、レイ。ディーンはただびっくりしただけで、黙ってたからって怒るような奴じゃないって。大丈夫、きっと分かってくれるよ」
「本当に……? だけど私は……」
「大丈夫だって。忘れた? 妖魔は嘘をつかないんだよ。僕を信じて」
仔猫が笑う。ふとそこに、年老いた影がよぎった。
「傷つくことを恐がっちゃだめだよ。傷のない信頼なんて、ないんだから」
その言葉に、レイはわずかに驚いて、九曜を見た。
「……変だな。以前、陵にも同じことを言われた」
「あの暗そーな魔獣使いに?!」
九曜が大げさに顔をしかめた。
レイは、それをやさしくたしなめると、涙をぬぐって立ち上がった。乾いた手拭で髪を拭き、頭布を巻く。
「行くの?」
「……うん。許してもらえないかもしれないけど、話してみるよ」
「ん、行ってらっしゃい。ディーンは――〝集いの家〟にいるみたいだよ」
魔力を使い、九曜が教えた。
レイは立ち去りかけ、戸口のところで振り返る。
「九曜。その……ありがとう」
肩越しの感謝の言葉に、九曜は尻尾を一振りして、照れをごまかした。
村の広場の中央にある〝集いの家〟は、大きな円形の東屋といった雰囲気で、話し合いなどにも使われる、村人たちの団欒の場であった。
村の若者たちと談笑していたディーンは、やってくるレイの姿に気付いて、話をやめる。
事情を察したのか、村人たちが早々にその場を引き払った。さすがに、天眼を持つだけはある。
立ったまま、レイが何と言ったものか考えているうちに、無造作に椅子に座り直したディーンが、先に口火を切った。
「――女、なんだな?」
顔も見ずに訊く。
単刀直入な言い方に、レイは一瞬ひるんだが、黙って頷いた。
「どうして今まで言ってくれなかったんだ?」
「それは――」
答えかけたレイを、ディーンが片手を挙げて遮る。
「いや、やっぱりいい。どうせ最初から訳ありなんだろうと思ってたしな」
肘をついた片手を額に当て、ディーンは言葉を選んだ。
「ただ――もう少し信用してほしかった」
少年の口元に、何ともいえぬ苦さが漂う。
レイはうなだれた。
「すまない。信用していないわけではないけれど、だけど私は――わたしは……」
言いかけて言葉を切り、少年の斜め向かいに、すとんと腰をかけた。
「――ユダが言ったことを覚えているか?」
脈絡のない問いに、ディーンは少女を見る。
レイは、昏い眼差しを外へ注いでいた。だが、その眼は何処をも見てはいなかった。
建物を吹き抜ける風が、頭布からはみ出した白銀の髪を、ふわりと巻き上げる。
「かつて――聖母に匹敵するほどの能力を持った娘がいた。彼女は、月光のような銀色の髪をした、それは美しい女性だったそうだ。だが彼女は、自分こそ聖母にふさわしいと思い上がり、聖母と神とに戦いを挑んで、世界を戦乱に巻き込んだという……古い言い伝えだ」
「銀の兇児って、まさか――」
「神の使徒に封印された彼女は、後世に必ず甦ると予言を残したそうだ。だから、銀の髪の女子は産まれてすぐに殺される。魔女をこの世に甦らせないために……。わたしが今、こうしていられるのは、とても幸運なことなんだ」
「だから女だってことを隠すのか? 馬鹿げてる!」
ディーンは、吐き捨てるように言った。しかし、その力強い否定すら、レイの瞳を染める昏さを打ち消すことはできなかった。
「そう……馬鹿げているかもしれない。だが、現にそうした伝説は生きているんだ。この髪だって染料で色を変えることもできないし、ひょっとしたらわたしの能力も――!」
新たに発現した強大すぎる能力。魔王と渡り合うほどの強さは、そのまま魔女の証ではないのか。
レイは怯えるように、おのれの肩を抱いた。
その手を、ふ、と暖かいものが包む。
「大丈夫。おまえが兇児なもんか」
妖魔の分身を宿す右手で少女の手を取り、ディーンは、静かに微笑って立ち上がった。
自分の胸元から、玉をつなげた革紐の首環を外して、レイに掛ける。
「護り石の代わりだ。今度は――俺がおまえを護るよ」
「……」
「……まあ、霊力のほうはあんまり期待できないけど」
白銀の髪を一房、手のひらですくい上げ、穏やかな口調で冗談めかす。
レイは何も言うことができずに、黙って少年を見上げた。触れる指が、髪をすべり、顎先を伝って離れる。
「その……ディーン。あの、夜のことなんだけど――」
思い切ったように言いかけ、レイは、またも言葉を濁した。
戦闘前夜の一件を思い出したか、ディーンが照れ臭そうに、あらぬ方を向く。
「ああ、あれか」
「わたしが……男でもって――」
「気にすんなよ。あれは……冗談だ」
「え?」
驚くレイに、ディーンは肩をすぼめ、
「おまえがあんまり緊張してたから、言ってみただけだよ。忘れろ」
でも効果あっただろ、と笑ってみせる。
「そう……なのか」
レイは、拍子抜けした表情になった。
「だけど――今になって言うのも変かもしれないけれど……」
かすれた声で、囁くように尋ねる。
「わたしが女でも、友達でいてくれるか……?」
ディーンは、外の景色に眼をやったまま、頷いた。
「ああ、もちろんだ」
その答えに、レイは、やっと心から安堵した笑顔を浮かべる。
そこでようやく、相手の少年の〝異変〟に気がついた。
「ディーン、髪をどうかしたのか?」
「なんでもねぇよ」
うろたえるディーンを捕まえ、レイは手を伸ばすと、赤い頭布を引っ張った。
ぱら、と長い布が解けて、短く切り揃えられたくせのある黒髪が現われる。
レイは眼を丸くした。
「……おばばに切られたんだ」
仏頂面で、ディーンが言う。たまらず、レイは吹き出した。
「笑うんじゃねーっっ!!」
「いや……うん、よく似合う」
「笑いながら言っても、全然説得力がないっつーの!」
「そんなことはない。どれどれ、よく見せてみろ」
レイは神妙な顔を作って、長かったときにはあまり目立たなかった癖毛を摘んだ。思わず、鳥の巣だな、と本音が洩れる。
ディーンが、頭を抱えて逃げ出す。しつこくレイが、それを追いかけた。
にぎやかに言い合いをはじめる二人の様子を遠目に眺め、九曜は、ほっと息をついた。
「やれやれ」
「――どうやら、うまくおさまったようじゃの」
しわがれた声がして、背後から火人の長が現われる。
九曜は、仔猫の顔をしかめた。
「まさか、髪を切ったのもわざとじゃないだろうね?」
「そこまでは儂も世話をしきれぬわ」
白い篝火たちに命じ、ディーンとレイに泉に行くよう焚きつけた老婆は、ため息を吐く。
「おぬしがついておるかぎり、後は大丈夫じゃの」
「ひとを当てにしないでよ」
しゃべりつつ、二人は並んで歩き出した。幼児と変わらぬ背丈の老婆と仔猫では目線が近いのか、互いに気安げな様子だ。
「しかし、妖魔のおぬしが妖魔狩人の村におるというのも、おかしな話じゃの」
「警戒しないそっちにも問題があると思うけど?」
「我らの狩るのは、外れ妖魔だけじゃ。それに、我らではおぬしには勝てまい」
「だからって、警戒心薄いのも変じゃない?」
「妖魔の本質を心得ておるだけじゃよ。妙なのはおぬしの方じゃ。いつまであの少年にくっついておる気じゃ?」
「さ、ね。先のことは考えないようにしてるんだ」
「では、ひとつだけ教えてやろう……」
後ろ手を組んだまま、天眼をもつ老婆は、蒼白の妖魔を顧みた。
「おぬしがあやつに出会ったのも、運命のひとつと思うがよい」
すべてを見抜く黒い瞳が、深い光を湛える。
「失われたものが甦るとき、おぬしは失っていたもうひとつをも、取り戻すことになるであろう」
「――忠告、憶えておくよ」
そう答えた仔猫の虹色の瞳が、陽光を受けて、一瞬刃のように輝いた。
*
その日の昼すぎ、三人はエデンを後にした。
聖宝は無事取り戻したものの、これを[西の塔]に還さないことには、せっかくの今までの苦労が水の泡となる。
心優しい火人たちとは離れがたく、いつまでも抱擁と感謝の言葉で別れを惜しんでいたが、やがてレイとディーンは、獅子となった九曜の背にまたがった。
「旅の幸運を……!」
白い篝火の一声を最後に、獅子の足が地面を離れた。だいぶ慣れた独特の浮遊感が、二人を包む。
隣で獅子の長い鬣に顔を埋めていたディーンが、ぽつりと呟いた。
「くそ……旅はこれが嫌いだよ」
顔こそ見えなかったが、涙ぐんでいるのだろう。冷徹になりきれない彼に、レイはこっそり微笑んだ。
ディーンはそれを悟られまいとしてか、乱暴に切り出す。
「それで、これからお宝はどこに配達すんだよ?」
「エファイオスの[西の塔]だ。正確には、それを管理している大神殿・真珠の宮だが……」
言い、レイは自分たちを運ぶ妖魔を覗き込んだ。
「九曜。大神殿の結界は平気か?」
その問いに、蒼白の獅子は、皮肉な声音で答える。
《壊してもいいんなら行くけど、あとでどうなっても知らないよ?》
レイは唸った。魔王の復活を阻止した後に、九曜対真珠の宮の戦いが勃発したなどとなったら、洒落では済まされない。
「じゃあ、おまえ一人で届けるのかよ?」
間に合うのか、と言外に不安を匂わせ、ディーンが訊く。
期限の一月まで、あとたったの一日。
めくるめく雲の流れに藍色の眼を細め、レイはディーンを見た。
「ほう。心配してくれるのか。ようやく責任感がわいたようで、何よりだ」
「阿呆。ちゃんと届かなかったら、おまえは縛り首。となると、俺は金がもらえないっつーことだろうが。ここまできて報酬ゼロなんて、嫌だぜ、俺は」
「ここまできて、まだ金の話をするか、おまえは」
「持ってる奴には分からないだろうが、金は大事だ」
《はいはい、二人ともそこまで!》
話があらぬ方向へ行きそうになり、九曜が慌てて仲裁に入る。
馬や駱駝と違い、空を翔る獅子の一蹴りは優に三公里を進み、フィーネ山脈をはるか後にしていた。
《レイ。そろそろ目的地をはっきりさせてくれるとありがたいんだけど》
「では、パルミラへ向かってくれ」
《了解。――じゃ、ちょっとだけ急ごうか》
蒼白の妖魔は、翼を広げ、一気に空へ駆け上がる。魔王の封印を護る結界から充分に遠ざかった九曜は、魔力を高めると、空間移動に入った。
周りの空気が、すごい力で押し寄せる。上も下も分からぬ眩暈の中で、レイとディーンはしっかりと鬣を握り、のしかかる圧力に耐えた。
しばらくして、不快な耳鳴りが急にやんだように、辺りの風の音がはっきりと聞こえ、獅子の足取りがゆるやかになった。
《アルビオンに到着――》
すずやかな少年の声が教える。
まだ残る眩暈をこらえながら、ディーンが尋ねた。
「アルビオンって、エファイオスには行かないのか?」
「アルビオンの首都パルミラには南の大神殿・柘榴の宮がある。そこで充分事が足りるはずだ」
「どういうことだよ?」
「古五王国に配置されている五つの大神殿は、帝都の主神殿・金剛の宮も含め、すべてひとつの門でつながっているのだ。普段は閉ざされているが、特別な呪法を使えば門が開き、空間を飛び越えて、人でも物でも瞬時に行き来が可能になる」
「すごいな。それを使うってことか」
「そうだ」
頷き、レイは黙った。
口にしなかった一言が、鈍い痛みとともに胸の底に重く沈む。
柘榴の宮にも当然結界が張られており、妖魔の九曜がそこまで行けないのは自明の理だった。
すなわち、パルミラに着けばディーンとの契約は完了する。旅が、終わるのだ。
「……イ。レイ」
ディーンに呼びかけられ、レイは我に返った。
「あ……ああ、すまん。なんだ?」
「九曜が休憩をとるかってさ」
《このまま飛んだら、夜にはパルミラにつくと思うんだ。そこから[西の塔]に聖宝を還すのはそんなに時間がかからないでしょう? 少し降りて休んでも大丈夫だけど……どうする?》
「そうだな……」
いつのまにか頭上には星が姿を現わし、足元の雲海は燃えるような落日の朱金に染め上げられている。
レイの胸がまた、しくりと痛んだ。
「降りてくれ。休憩にしよう」
*
風向きと太陽の位置を確認し、二人は最後の野営を建てた。星月の光を浴びてほんのりと輝く砂漠の地平には何も窺えなかったが、それでも都市に近付いているのだろう。打ち捨てられたように転がる灌木が、水の名残をとどめていた。
三人は、火人たちからもらったパンで最後の晩餐を囲む。
これが最後だ、ということを頭で理解はしていても、寝食を共にした日々が打ち切られることに、誰もが実感できないでいた。
いつものように食後の紅茶を入れながら、ディーンが陽気に笑う。
「これで寝過ごして、期限切れ、なんてなったりしてな」
「そういうことをするのは、ディーンだけだよ」
久しぶりに少年の姿になった九曜が茶化した。すっかり人間臭くなった彼は、上手に紅茶をすする。
レイも、同じく香辛料の効いた甘い紅茶を手に取り、
「心配はない。そのときは、おまえだけここに置いていくからな」
「なんだよ、それは。じゃあ、聖宝は俺がもらっておくからな」
「もらってどうする気だ?」
「売ればいくらかにはなるだろう」
「おまえ……本当に、聖宝をなんだと思っているんだ?」
「――宝石?」
真顔で答えたディーンの側頭部を、空の茶瓶が襲う。
「あ、いい音」
九曜が笑顔で褒める。頭を抱え、ディーンは悲痛に叫んだ。
「おまえといると体がもたね~っ」
「もうじきいなくなるから、安心しろ」
「なんか、いなくなっても遠くから法力で攻撃されそうな気がするぜ」
「なるほど。それはいいことを聞いた」
「げ……」
などと、たいしてしんみりせず、三人は変わらずに雑談をして、夜が更けていく。
今夜は、ようやく魔力を充分に発揮できる九曜の結界に護られ、レイとディーンは寝床に就いた。
「こんなに楽なら、最初から九曜に見張りを頼めばよかったよな」
ぶつぶついうディーンの声を背中に聞きつつ、レイは毛布を身体に巻きつける。
――変だな。ちっとも眠くない。
エデンで充分な休息をとったためか、あるいは翌日の帰還を控えて気が立っているのか、長距離の移動で体は疲れているのに、眼を閉じても一向に睡魔はやってこなかった。
気がつくと、隣からディーンの寝息が聞こえてくる。
――呑気なやつだ。
かすかに笑って、レイは胸元の首環に指を触れた。
今までのひんやりとした護り石の感触の代わりに、革紐のざらついた感じと、玉のなめらかな肌ざわりが、レイの気持ちをさらに現実に引き戻す。
――なぜ……こんなに苦しいのだろう。
別れは、出会った時から分かっていたこと。
ディーンは九曜と共に再び旅の空へ、レイはいるべき場所――帝都へ、帰る。
すべてが一月前に戻る。それだけのことだ。
――違う。戻れるはずがない。
この一月に経験したことは、あまりに強く、深くレイの胸に刻まれてしまった。
――このまま時間が止まるものなら……。
止まってしまえ。
レイは、叶えようのない願いを込め、固く瞳を閉じた。
二つの寝床が身動ぎを止め、やがて安らかな呼吸に変わる。
ふと、片方の寝床が動いた。
ひっそりと音もなく起き上がった影は、隣の人間が完全に寝ているのを確認する。そして、何も言わず何もせぬまま、ただじっと相手の寝顔を見ていた。
それは、暁闇が地平線を満たす頃まで、変わることはなかった。
九曜には、なぜかそれが、せつないまでに長い、別れの挨拶のように思えた。
*
早朝すぐに出発した三人は、太陽より一足先にパルミラに入った。
眼下に胡麻粒ほどの藁屋根が見えた。かと思うと、城砦で囲まれた都市が、みるみる大地を埋めていく。
二人の人間があっと思う間もなく、パルミラの白い城砦が目前に迫る。
《――あれ?》
何を発見したのか、九曜は城壁の手前で速度を落とすと、徐々に降下をはじめた。
最初は分からなかったレイとディーンも、すぐにそれを見つける。
朝の薄闇の中に浮び上がるように、白銀に光る鎧姿の兵士たちが城壁の前で整列していた。その数は、およそ一個小隊。兵士に囲まれて、役人らしき姿や白い法衣を纏った神官たちの姿も窺える。
反射的に、レイは眼を伏せた。
九曜は、彼らから少し離れた場所に、静かに着陸した。
「お待ち申しておりました」
レイたちが獅子の背から下りるのもそこそこに、背の高いアルビオン人の老神官が先頭に立ち、両膝をついて頭を垂れた。背後に控える兵や神官も、一斉に砂地にひざまずく。
やはり、帝都からの出迎えのようだ。聖母の法力があってこそなのだろうが、その手回しのよさにディーンたちは言葉もなかった。
彼らは他にもいろいろと言い含められているらしく、青白い獅子の姿にどよめきこそあがったものの、攻撃を仕掛けることはなかった。九曜も戦意を否定するために、魔力を弱め、仔猫の姿でディーンの荷物の中に潜り込む。
一人歩み寄るレイを、禿頭白髭の老神官が迎えた。
「よくぞ御無事でお戻りくださいました」
「皓炎。柘榴の宮の長みずからの出役とは、よほどに玉兎石が心配とみえる」
薄汚れた旅姿ながら、レイは尊大に言うと、白い綾絹に包まれた涙型の石を老神官に手渡した。布には、火人の長・炎を渡る者によって、霊力を抑制するための呪文がかけられている。
「かなりの気難し屋だ。気をつけるがいい」
「かしこまりました」
神の力を宿す聖宝は、押し頂くように神官たちの手から手へと移り、小さな白銀の箱に納められた。
「レイファシェール様」
帝都貴族と思しき顎鬚をたくわえた男が、声をかけてくる。
「アルビオン総督ロスフェルトにございます。お迎えに参上いたしました」
「うむ」
「あちらに馬車のご用意をしてございますので、まずは柘榴の宮にてお召し替えを。真珠の宮へは、すぐにでもご出発頂けますよう手配は整えてございます。ですが、その……あの者たちは――」
「分かっている」
総督の言葉を遮り、レイは、離れて立つ旅の仲間たちを顧みた。
「礼金は?」
総督が目顔で合図すると、傍らから小さな袋を持った従者が現われる。
「少額硬貨と宝石を交え、五十万アルムございます」
「分かった。おまえたちは下がっていろ」
レイは、金袋を手にディーンたちの元へ戻った。
ディーンが肩をすくめ、大袈裟に両手を広げてみせる。
「――終わった、な。豪勢な出迎えだぜ」
「ああ。少々派手すぎるが、まあ仕方ないというところだ」
冗談めかし、レイは金袋を少年に差し出した。
「報酬だ。貴金属に換えてあるそうだが、五十万アルムあるはずだ。好きに使え」
「そうするよ」
こだわりもなく、ディーンは袋を懐にしまう。
「これからどうする気だ? パルミラに滞在するなら世話をさせるが」
ディーンは、肩口の袋から覗く九曜と顔を見合わせて、首を振った。
「このまま行くよ。必要なものは全部エデンで揃ったからな」
「そうか……。では、見送ろう」
レイは、置物のように背後に控える神官や兵士らを待たせたまま、砂漠を歩き出す。
気まずげな沈黙のまましばらく行き、ほどなく、ディーンが足を止めた。
「ここで充分だ」
はるか広がる黄色い砂丘を眺めたまま、互いになかなか言葉が出ない。
暁の蒼闇に、水鳥の群れがひときわ甲高い声で鳴きながら、影となって飛んでいく。
レイは、もう必要のなくなった橄欖色の頭布をほどいた。
一月の旅で伸びた白銀の髪が、黎明の光を弾いて舞う。
眩しそうにそれに眼をやり、ディーンが口を開いた。
「――もう行けよ。こんなとこでぐずぐずしてたら、マジで期限が切れちまうぞ」
「おまえじゃないから大丈夫だ」
レイは、憎まれ口を叩いたが、ディーンの顔を見ることはできなかった。
彼の表情もまた、頭布の陰になってほとんど分からない。
レイは、それ以上なんと言ったものか迷い、結局、
「世話になったな」
素っ気なく、右手を差し出した。
ディーンが黙って、その手を取る。
最初で最後の、固い握手。
――と。
ふいに、死の右腕が、そのままやさしく後ろに引かれた。
「え……?」
思わず前へよろめいたレイの唇に、ディーンの唇が触れる。
息の詰まる一瞬。
かすかな囁きを残して、それは、ゆっくりと離れていった。
「じゃあ、な」
声もなく、レイは、ただ茫然と立ち尽くす。
少女が気付いたときにはもう、少年は黒い影となって、果てしない砂の海の彼方へと旅立っていた。
昇りゆく真っ白な太陽と、灼熱の黄色い大地。
見つめるレイの頬を、ひとすじ透明なものが伝う。
「――ありがとう……」
告げられなかった言葉は、涙と共に風に舞い、夜明けの空へ溶けて消えた。
白々とした天上が、蒼から紫、紅、そしてまばゆいばかりの黄金色へと色を変えていく。
急速に明けゆく空の片隅で、太陽と出会った月が、静かにその役目を終えていた。
Canaan Saga1~月の雫~ 終
完結設定をするのを忘れたので、次の「登場人物・用語集」で完結表示となります。




