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帝都。
奥庭の一隅で話していた一組の男女が、突然、同時に上空を見上げた。
雲ひとつない晴天を、共に南の方角へ険しい眼差しを注ぐ。
それから遅れることしばし、微弱な振動が大地に響き、卓上に置かれた硝子杯の葡萄酒をゆらゆらと揺らした。
赤味がかる金髪を顎先で切り揃えた女は、恐怖の表情さえ浮かべ、青年に問うともなく呟いた。
「今のは、もしや――」
「うむ。とうとう魔王が復活したか……」
厳しい面持ちをさらに引き締め、ルークシェストが断定する。
イルレイアの顔から血の気が引いた。
「では、まさかレイ様は……!」
「言うな! 口にしたところで何もはじまらぬ。我々には――」
言い差して、ルークシェストは乳白色の塔を顧みた。
「我々には、ただ祈ることしかできぬのだ……」
低い呟きには、言葉で表わしきれぬ深い苦悶が込められていた。
一方、震源地に最も近い火人の村エデンでは、地震は上下の激しい揺れとなって襲来した。すべてを見抜く天眼をもつ彼らにさえも、それは突然の出来事であった。
地面に亀裂が生じ、足場の弱い家が次々と倒れる。
混乱を極める村を、炎の鳥を中心とした女戦士たちが救助して回った。
外界から閉ざされた狭い村のことでもあり、数百人もの村人は、すみやかに神殿周辺に避難する。
長である炎を渡る者は、神殿からその様子を眺め、ほっと胸を撫で下ろした。まだ余震が続いているため、二、三の指示を炎の鳥へ送り、後を任せる。
神殿の奥に戻った長のもとへ、一人の若い女が訪れた。
「ばば様」
「どうした、白い篝火」
黒髪に白の一房を持った娘は言いよどみ、ややあって、思い切ったように尋ねた。
「本当に彼らは、打ち勝てるのでしょうか?」
長は、ぎょろりとした目玉を跡継ぎの娘に向けた。
「おぬしはどう思う?」
「……分かりません。視えないのです。未知の要因が多すぎて……」
「世を動かす鍵となるものは、常に未知のものじゃ。[大災厄]然り――」
三代もの皇帝の治世を生きてきた老婆は、天を仰いで、苦く呟いた。
「どうなるかなど、儂とて視えぬわ」
驚く白い篝火に、やさしい笑みを向ける。
「信じよ。彼らに、我らの命を預けようぞ」
告げる言葉は、誰に向けられたものか――。
火人の長は、魔性の王が甦る谷に眼差しを移すと、声もなく独白した。
――生きて戻れよ……!
*
魔王の目覚めに大地が揺れ動く中、谷底の瘴気は濃度を深めてゆき、かつてない強力な妖気の波動に、あれほどいた妖魅たちが数瞬で消滅した。
闇が切れるように、色のない双眸がゆっくりと開く。
ざわ、と長い髪が逆立ち、数百年ぶりの外光を受けて、玉虫色に照り映えた。
《オオオオオオ……》
雷鳴のごとき産声が、谷間に響く。
約六百年もの間、この谷底に封印されていた魔王は、聖宝の霊力によって数日前から急速な覚醒の途中にあった。
それが皮肉にも、阻止を目的としたレイたちの戦いの衝撃が引き金となり、復活を遂げることになったのである。
絶望的な状況に追い込まれたレイは、言葉もなく蒼褪めた。
対照的に嬉々とした様子のユダは、勝利を確信する。
「決まりだな。世界は、私のものだ」
褐色の頬に、会心の笑いが浮かんだ。
「もはや、これ以上強情を張っていても意味があるまい。最後の封印の解き方を教えろ。ならば、おまえの命だけは取らずにいてやろう」
「私は――」
「何をためらうのだ。私に仕え、共に世界を滅ぼすことこそ、おまえの使命……いや、宿命なのだぞ?」
甘言を弄するユダに、ディーンが食ってかかる。
「くだらねぇこと言ってんじゃねえ。誰がてめえなんかと手を組むかよ!」
「愚かな小僧め。どうして帝都は、聖宝奪回にただ一人を砂漠に放り出したと思うのだ。貴様は知らぬようだから教えてやるが、この者は銀の兇児――世に災いをもたらす忌み人だ」
ユダの言葉から逃れるように、レイは顔を背け、固く眼を瞑った。
しかし、投げ返されたのは、あまりに素っ気ない一言だった。
「――だったら何だよ」
満身創痍のディーンは、大刀を引っ提げたまま、気軽く告げた。
「友達を助けるのになあ、そんなことはどうだっていいんだよ。そいつが何者かなんてのは、てめえなんかよりずっと、この俺がよーく知ってる」
魔術師を睨み返し、敢然と言い放つ。
「レイファシェール・セジェウィク。俺の友達だ」
はっと、レイは顔を上げた。
ディーンはにやりと笑いかけて、
「こんな野郎の言いなりになんかなるんじゃねえ。第一封印なんて解いちまったら、お宝持って帰れねぇだろうが! ここまで来て、礼金なしじゃ報われないぜ?!」
身勝手な論旨に、レイの口元に苦笑が洩れる。泣きそうになる顔を無理にこらえて、レイは小さく頷いた。
そこへ、少年めいた明るい声が口を挟む。
《そのとおり。それに魔王は完全に目覚めたわけじゃない。今なら、まだ間に合うはずだよ》
「九曜!」
《遅れてごめん。魔王のおかげで、妖魅が全滅してくれて助かったよ》
妖魅の檻から抜け出して、城内に蔓延る下等な妖魔や妖魅の相手をしていた蒼白の獅子は、汚れひとつない体躯で玉間に躍り出た。
虹色の双眸が、ちら、と壇上の男を見やる。
《聖宝を使って魔王を復活させようとするなんて、どんな奴かと思ったら、こんな若造とはね。誰に入れ知恵されたのかは知らないけど、馬鹿なことをしたものだ》
「なに……?」
《聖宝を第五の封印まで自力で解いたのには感心しよう。だけど、おまえは大切な過失を犯した》
獅子は不敵に笑い、
《ひとつは、この僕を敵に回したこと。そしてもうひとつは……聖宝の役目を理解していないことだ》
「戯れ言を……!」
《くだらないと思うんなら、それでもいいだろう。だけど、魔王復活は成し得ないよ》
「貴様が阻むからか? 妖魔が魔王を封じようとはな。だが――」
ユダは鋭く嘲笑し、
「聖宝には勝てまい!」
右腕を一振りした。
その途端、聖宝の周りで湧き起こった電光が、疾り出て、獅子の体を取り囲んだ。
「九曜!」
《く……っ!》
電光の戒めに灼かれ、九曜が呻く。
ディーンが怒鳴った。
「てめえ、そんな石の力に頼らねえで、正々堂々と勝負したらどうだ!」
「聖宝の封印を解いたのは、この私だ。ならば、その力もまた私のものだ」
「そんな詭弁なんざ聞きたかねえっ! 聖宝で魔王を操って魔王で世界を滅ぼす――あんたのやってることは、ただのペテンだ! 力でもって得た力からは何も生まれない。ただ破滅があるだけだ。てめえは、本当は何ひとつ持っちゃいない。何ひとつな!!」
「黙れっ。帝都に諂う狗め!」
ユダの非難に、ディーンは平然と肩をすくめる。
「確かに出資元は帝都だが、俺自身の雇い主は、そこだ」
玉座を見据える濃紫の瞳は、まっすぐに一点だけを差していた。ユダが、はっと腕の中の少女を見る。
ディーンは、大刀を平正眼に構えた。
「俺はこの剣に誓った。必ずそいつを護ると……!!」
「ほざけ!」
告げると同時に、ユダの手のひらから稲妻が迸った。
数歩退いたディーンは、刀身でそれを受け止め、気を込めてさらに弾き返す。
ユダは腕を振り下ろし、稲妻を叩き落とした。
めりめりと目に見えぬ封印の殻を割って魔王が動きはじめる中、魔力と気の剣がぶつかる総力戦が続く。
身動きのとれない九曜は、傍らでそれを見守りつつ、
――見た目は互角だけど、ディーンはかなり消耗してるな。だけど、ユダにはまだ余裕がある。魔王が力を貸しているのか……?
漆黒の闇を破って起き上がるそれを眺めた。
――だけどあいつ、どこかで見たような……。
金属質の輝きを帯びる長い髪を、彫像のごとく見事な褐色の裸身にまとわりつかせ、それはゆっくりと起き上がる。
《ルオオオオオォ……》
長い咆哮が、遠くこだまする。
それは、紛れもなく人外のものながら、寒気がするほど妖しく、美しかった。
《フシュウウウゥゥ……》
吐く息に辺りのものがぷすぷすと腐ってゆき、そこから芽のようなものが伸びる。
蔦状になるそれらに取り巻かれて立つ影は、まさに異形の王だった。
その光景を一瞥し、ユダはほくそ笑んだ。
傷だらけの少年に、再度稲妻を投げ撃つ。
魔力の凝縮された稲光は、少年に達した瞬間、爆音を発し、左右に割れて天井を灼いた。
火花を散らして燃え消える稲光に、人形めいた男の顔に、驚きが走る。
男の魔力を一刀両断にしたディーンは、不敵に笑って悪態をついた。
「性格と操作能力だけかと思ったら、魔力もたいしたことないようだな」
「口の減らん小僧め!」
ユダが怒気を吐いて、またも手のひらに魔力を集めた。
頭上に浮かんだ、一抱えほどもある光球を、ディーン目がけて叩きつける。
比類のない巨大な魔力の固まりが、ディーンの身体を易々と吹き飛ばし、奥の壁に激突した。
びりびりと、痛いほどの閃光と轟音が室内に響き渡り、そして沈黙した。
もうもうと土埃が舞い、崩れた壁が瓦礫となって積もる中、さすがの少年も身を半分埋めて意識を失っている。
息をついたユダは、それを見て、満足そうに微笑した。
「ようやくおとなしくなったな」
指先に魔力を集中させる。
気が付いたレイと九曜が、蒼褪めた瞬間。
「死ね」
残酷な一言と共に、それは放たれた。
青白い一条の矢が、少年の胸の真ん中を過たず貫く。
「……!!」
声にならない悲鳴が、レイの口から迸った。
瓦礫に埋められたまま、ディーンの上体が仰向けに倒れた。
焼け焦げた髪をふり乱して、黒い頭が力なくうなだれる。そして今度こそ少年は、起き上がることはなかった。
男の手が離れたことも気づかず、全身の力を失ったように、レイはがっくりと膝をつく。
「これで邪魔者は消えたな」
皮肉げなユダの言葉が、虚ろに耳を通り過ぎる。
――まさか、ディーンが……?
哀しみではなく、茫漠とした喪失感と、胸底から湧きあがる熱い何か――。
これに似た感覚を、レイは以前体験していた。
そのときは、これほどまで相手を憎いとは感じていなかった。ただ、自分の無力が許せなかった。
だが、今は――。
「よくも……」
「なに?」
「――よくも……よくもディーンを……!」
それを聞いたユダは、高らかに嘲笑った。
「はっ。満足な力ひとつ持たぬおまえに、何ができるというのだ?!」
掌に魔力が凝る。
「銀の兇児であれば何かの役に立つと思ったが……。よかろう。そんなに恋しければ逢うがいい。冥途でな……!」
ユダが今しも光球を投げつけようとした、そのとき。
熱い想いに満たされたレイの中で、何かが弾けた。
瞬間、辺りは、強大な能力が放つ真っ白な光で満ち溢れる。
「ぎぃやああああぁっ!!」
白熱した光を間近で浴びて、よろよろとユダが後退った。
見ると、その顔の左半分が、まるで酷い熱傷にかかったごとく溶け、爛れていた。
「うおお……わ、私の顔が……」
呻きよろめく彼の前へ、まばゆいばかりの輝きに包まれた少女が立ち上がった。
白銀の髪は色を失って光に舞い、傷ひとつない白い肌までもが、仄かに輝いて見える。
蒼い双眸が、人ならぬ宇宙の輝きを宿す。
「よくも――」
何かに憑かれたように呟き、レイは魔術師を見た。
刹那、凄まじい力の奔流が襲い、ユダは壁まで弾き飛ばされる。
《オオ……ーン……》
突如出現した強大な能力の存在に、魔王がこちらを向いた。
無彩色の両眼が、感情を帯びる。
次の瞬間、奔り出た魔王の力に、レイは一瞬足を浮かせ、すぐに片手を掲げて弾き返した。
常人には見えぬ二つの巨大な力が拮抗し、空間を軋ませる。
九曜は息を飲んだ。
――なんて能力だ……。魔王と対等に渡り合うなんて、銀の兇児はただの迷信じゃなかったのか?! だけど、このままじゃレイの身体が保たない……!
九曜の案じるとおり、強靭な妖魔の肉体をもつ魔王に対し、レイは目覚めたばかりの能力を制御しきれず、肉体に過度な負担をかけていた。
今や両手を添えるレイの腕は、放ち、撥ね返る能力同士が作り出す想像を絶する圧力に耐えかね、細い血管が切れて薄く血が滲んでいる。少しずつ、魔王に押されていく。
レイの顔に焦りが浮かんだ――と。
《レイ、玉兎石の封印を解くんだ!》
電光の檻の中から、九曜が声を投げた。
「だが、そんなことをしては……!」
《――大丈夫。自分を信じて》
力強い獅子の後押しに、レイの脳裏を聖母と火人の長の言葉がよぎる。
レイは、蒼白の妖魔にしっかりと頷きかけると、一気に能力を高め、魔王の魔力を天井高く弾き飛ばした。宙に浮かぶ涙型の宝石に向かって、高らかに告げる。
「玉兎石よ。神の従者たるそなたの真名を呼びて命ず―――」
宇宙の双眸が、喝、と輝く。
「神の左手たる月の雫よ……目覚めよ。安息の眠りは破られた。今こそ甦り、魔王を封じよ!!」
宣言が終わるや否や。
すべては、一瞬のうちに起こった。
玉兎石の光が消え、再び灯ったと思うと、輝く文字が全面を走りぬけ――砕け散る。
そしてそれは、そのまま引き伸びるがごとく広がって、一頭の馬に似た生き物へと変貌を遂げた。
額に伸びる、長く捻れた一本の角――一角獣。
伝説の幻獣は、軽やかに宙を駆けると、まっすぐに魔王の胸へと滑り込んだ。
《オオオッ?!》
一角獣となった聖宝が、完全に魔王に呑み込まれる。
その魔王の身体から、ひとすじ、細い光が洩れ零れた。
内側から闇を浸食する光は、すぐに幾筋もの光の矢となり、かつてない輝きを放ってその場を覆い尽くした。
光が消えた後にはもう、魔王の姿はなく、聖宝は元の石となって、レイの手の内にあるだけであった。
「――ひゃ~。すっげぇ」
極めて世俗的な表現で、何者かが感嘆する。
驚いて振り向いたレイは、瓦礫から身を起こす少年の姿に、己が目を疑った。
驚きのあまり、九曜までも思わず不審な顔になる。
「あれ? どうしたんだよ、二人とも。妙な顔して」
とぼけた様子の少年に、レイは、疑い深く問いただした。
「ディーン。おまえ、死んだ……はずでは……?」
「ひっでーなあ。勝手に他人を殺すなよ。それより、ここから出してくれないか?」
ユダの魔力下にあった聖宝から解放された九曜が、少年の救出に向かう。
積み重なる石壁の破片からディーンを引っ張り出し、
《ね、ユダの魔力にやられたんじゃなかったの?》
「そういえば……」
呟き、ディーンは、焼け焦げた胸元に手を当てる。
「あ、そうか」
何を思い出したのか、服の下から金色の鎖を取り出した。
どこか見覚えのあるそれは、一端が焦げて、炭になっている。
「邪魔になると思って、中に入れておいたのを忘れてたぜ。こいつが盾になったんだな」
ぼろぼろ、と崩れる首飾りを握り、
「――悪い。おまえの護り石、返せなくなっちまった」
ディーンは申し訳なさそうに、傍らにやって来たレイを見やる。
うつむいたレイは、言葉もなく拳を握りしめた。
渾身の力で、少年の顔を殴り飛ばす。
「この……大馬鹿者!!」
一時は死んだものと思っていただけに、レイの怒りは凄まじかった。
それを、護り石を壊したせいだと勘違いしたディーンは、ひたすら低姿勢になる。
「悪かったってば。代金は報酬から差っ引いてくれていいから」
「そういう問題ではない!! 貴様、私がどれだけ……」
「だ~か~ら~。ごめんって言ってるだろ」
噛み合わない二人の会話に、九曜は腹を抱えた。
ディーンは、困り果てた表情で、薄情な妖魔に助けを求める。
「笑うなって。おまえの魔力でなんとかならない?」
《くくく……。なんとかするとかしないとかの問題じゃないと思うけど?》
「そのとおりだ。おまえみたいな間抜けは、あのまま瓦礫に埋められていればよかったんだ」
「そんなに怒るなよぉ。悪かったって」
「おまえの反省は底が浅い」
レイの機嫌は直らない。ディーンは何とか怒りの矛先を変えようと、話題を転じた。
「ところでさ、さっきのアレって一体なにがどうなってるんだ?」
「聖宝の封印を解き放ち、魔王を封じたのだ」
「セイホウって……あの石が?」
《それはつまり――》
九曜が説明しようと口を開いた時、別の低い声がそれを妨げた。
「仲良く無事を祝っているようだが……続きは別の場所でやってもらおうか」
先程レイの能力が壊した壁の瓦礫を押しのけ、背の高い影が現われる。
三人に、再び緊張が走った。
ユダは、左顔面に熱傷を負い、足元もおぼつかない。だが土気色の表情の中、青い両眼だけが、爛々とした光を放っていた。
「貴様たちに……聖宝を渡してなるものか」
あらん限りの魔力を、手の内に込める。
「聖宝もろとも吹き飛ばしてくれるっ……!!」
巨大な圧力と共に叩きつけられた光の奔流は、しかし、目的を果たす前に四散した。
呪言もなく[障壁]を作ったレイが、無言で男に向き直る。
その背後には、谷を護る結界がなくなったことで魔力の回復した九曜が、冷気を漂わせて控えている。
もはや、勝負はついたも同然だった。
ゆっくりと、レイが一歩前に出た。
「退くがいい。このままでは命を喪うことになる」
「何を今さら惜しいものか。いかに聖宝があろうと、相討ちとなれば貴様らを葬ることも可能なはず!!」
「――!」
表情を険しくするレイの側から、穏やかな声が揶揄した。
「甘いぜ、おっさん。俺たちの武器が、剣と能力だけだとでも思ってんのかよ?」
魔力の高まりに仄かに発光しながら、ユダが鼻先で笑う。
「この期に及んでまだ大口を叩くか、小僧……!」
魔力を限界まで高めたユダが、全身を光と変えて突き込んでこようとした、と。
同時に、床に膝を付いたディーンが、その右拳をまっすぐに振り下ろした。
一時の静寂。
次の瞬間、かすかな音が響いたかと思うと、床に密着した拳の周辺から放射状に小さな皹がかけ走った。皹はすぐさま亀裂となって床から壁を這い上り、城を支える柱へと到達する。
ぐらり、と城が傾く。
「おおっ?!」
ユダが発光を止め、波打つ床に足を滑らせた。
亀裂は、ついに巨大な断層となり、玉間全体の床がうねるようにして砕ける。
慌てて九曜が、翼を広げて空を舞い、二人の人間をその背に救い上げた。
九曜の鬣にしがみつきつつ、レイが怒鳴った。
「なぜ城を壊すんだ、この馬鹿者!」
「あいつを殴り倒すくらいじゃ、物足りねぇだろ」
けろりとした顔で、ディーンが言う。
その間にも、壁から壁へと亀裂が伝わり、天井からばらばらと瓦礫が落ちてきた。
九曜が傘のように魔力を張り巡らし、三人を落下物から守る。
「ありがとう、九曜」
《それはいいんだけど……。レイ、悪いけどそいつをあんまり近付けないでくれる?》
最強と言い切る妖魔が、さも厭そうに、上目遣いで玉兎石を睨む。
レイは、両手大の涙型の宝石を腰布でくるむと、懐深くにしまいこんだ。
「おまえにも苦手なものがあるんだな。神剣は平気なようだが」
《そいつとは昔から相性が悪いんだよ》
記憶を失っているとは思えぬ妖魔の発言に、ディーンが話に割り込んだ。
「なんでだよ。だいたい、さっきから思ってたんだけど、セイホウってそんなにすごいもんなのか?」
真顔で尋ねる。
レイと九曜は、同時に長いため息をついた。
「なんだか、隠す努力をした私が愚かだった気がしてきたぞ」
《ま、隠しても意味なかったといえばそうかもね》
一人話の分からないディーンは、むっとなった。
「なんなんだよ、二人して。だけど、よくあんな石一個で魔王が封印できたよな」
《そりゃそうさ。聖宝は、もともと魔王を封印するために創られたものだもん》
「「は?」」
呆気に取られる人間たちに、獅子はにやりとして教える。
《あの魔術師は、聖宝の役目を理解してなかったって言ったでしょう? 確かに聖宝は、魔王の封印を解くだけの霊力を持っているけど、魔王の封印が解かれれば自動的に目覚めて、それを押さえるんだ。難攻不落の〝鍵〟――それが聖宝さ。
問題は、誰が聖宝を行使するかってことだけど、最終的にはレイが封印を解いたわけだし。めでたしめでたしってところだね》
「では、最初から魔王は問題ではなかったと……?」
《前にそう言ったじゃない。聖宝さえこちらの手に戻れば、あの魔術師だって問題になんかならなかったよ》
ディーンが、すごい眼で獅子を睨む。
「――早く言えよな」
《早く言ったって遅く言ったって同じでしょ。結局は戦うことになるんだから》
「気構えが違うの、気構えがっ」
わめいて、ディーンは背後から九曜の両耳を引っ張った。
《いたいいたいいたい》
「じゃかあしいっ。肝心なときに、とっつかまってたくせにっ」
ぽかりと殴る。
図体の割に気弱な九曜は、ひーと悲鳴をあげて頭を抱えた。
思わず笑ったレイは、ふと、崩れた玉座に佇むユダの姿に気が付いた。
男は、落ちてくる瓦礫を避けることなく、微動だにせず、その場に虚ろに立ち尽くしている。
明らかに先程までとは違うユダの姿に、レイは、と胸を突かれた。
《聖宝の霊力に触れたために、心身が衰弱しきったんだろうね。彼はもう二度と普通の生活を送ることはできないだろう》
当然の報いかもしないけど、と獅子は冷たく言う。
だが、レイは瞼を伏せると、小さく呟いた。
「……哀れな人だな」
ディーンがレイの肩に手を置いた。
「あいつ自身が選んだ道だ。それに……この方が、あいつにとって幸せなのかもしれない。この世界でどんな権力を手に入れたところで、本当にあいつの望むものは得られなかっただろう」
それよりも、夢を抱いたままこの幻の居城に身を埋めることが、彼の幸福に一番近いのかもしれない。
レイはかすかに微笑んで、ディーンを見た。
「帰ろう。我々の生きる世界へ――」
三人が亜空間に消えた直後、死の腕の一撃を浴びた鬼巖城は、ついに轟音を発して崩壊をはじめた。
それは城の建つ死霊の谷全体にも多大な影響を与え、ただでさえ魔王の復活と封印のために不安定となっていた赤黒い大地は、上も下も定かでない波となって揺れ動いた。
周辺の大地を巻き込んで沈んでいく城に、城門にいた妖魔・砂姫は、逃げることもできずに倒れた。
角がないために空間移動も形態変化もままならず、激しく振動する地面にうつぶせて眼を閉じる。
――もはやこれまで……。
弟の元へ行くことを覚悟した砂姫の目の前に、突如、鈍色の影が疾った。
《掴まれ》
ふさりと太い尾を揺らし、狼が、素っ気なく言う。
《陸王! あなたがなぜ――?》
かつて冷酷で知られていた彼の姿に、砂姫は驚いた。
鈍色の妖魔は、ふん、と鼻を鳴らし、
《ミササギが助けてやれ、とさ。まったく、奴も甘いことだ》
《魔獣使いがどうして……?》
《さあな。人間の考えることはよく分からん。何にしろ、ここにいるのは危険だ。じきに谷も落ちるぞ》
言うや、リュカオンは砂姫を掴まえ、亜空間に身を滑り込ませる。
その様子を上方の亜空間から見届けた陵は、黒衣を翻し、無言のまま崩れゆく城と谷とに背中を向けた。
きり…と空間が軋んで、魔獣使いの姿が消える。
それから数年間、魔獣使い・陵とリュカオンの名が歴史の表に現われることはなかった。
ほとんど原型をとどめなくなった城の内部では、きらびやかな外套を纏った男だけが、一人取り残されていた。
天井が崩れ、床が隆起するのも目に入らぬ様子で、ふらりと玉座の壇上を彷徨う。
ユダは、崩壊の反動で元に戻った肖像画の前で足を止め、変わらぬ美しさをたたえるその人を見上げた。
「母さま……」
絵の中の母に手を差し伸べ、甘えるように囁くと、彼はそっと、その足元に灼け爛れた頬を寄せた。
あれほど表情の欠落していた男の顔に、穏やかな、幼子のような笑みが浮かぶ。
その瞬間、それまで城を支えてきた天井が、大音響をあげて落下してきた。
ユダ・ネ=イ・ザンの野望が築き上げた鬼巖城は、谷の三分の一を巻き添えにして、彼もろとも完全に大地に呑み込まれた。
衝撃の余波を受けて、大地が震える。
それは、エデンやアルビオン王国などに軽度の被災をもたらしたが、やがて、何事もなかったように鎮まった。
崩れた谷底に、ひとすじの夕陽が差し込む。
再び生きた者のいなくなった砂漠が、まるで炎のごとく、燃える真紅に染め上げられる。
怒りと恨みと憎しみと――すべてを灼き尽くす、煉獄の業火。
聖宝盗難から二十八日目の今この時、戦いは終わりを迎えた。




