第二十話 開幕と、最初の一発
演習場に足を踏み入れた瞬間、喉の奥が少しだけ乾いた。
広い。
普段の実技で使っている訓練場とは、規模が違う。石畳の床は滑らかに整えられ、四方を囲む観覧席には、すでに学生や一般の見物客が詰めかけていた。ざわめきが、頭の上から降ってくる。
公開模擬戦。
実際にここに立ってみると、それがどういうものかが肌でわかった。
これは、見せるための戦いだ。
「思ったより人が多いんだな」
思わず呟くと、隣のテオが頷いた。
「毎年恒例だからね〜。去年の王子班の試合の影響もあるかも。すごかったらしいよ。観客席から自然と拍手が起きたって」
拍手。
今の俺には、まるで想像できなかった。
右腕を、袖の上から押さえる。熱はない。
でも意識すると、その場所だけが妙に浮いて感じた。
三回。
昨夜からずっと、その数字が頭の中を回っている。
魔術使用、許された回数は三回。一発使えば二回。二発使えば一回。三発全部使ったら、それで終わりだ。
「蓮くん」
エヴリンが隣に来た。小声だった。
「三回です。忘れないでください」
「……わかってるよ」
「わかっていても、言います」
それだけ言って、エヴリンは前を向いた。
ノアが全員を一度見回してから、低く言う。
「崩れるな」
長い訓示はなかった。それだけだった。
でも、その四文字で十分だった。
観客席のざわめきが、またひときわ大きくなる。どうやら今行われていた試合が終わったらしい。
テオが軽く手を上げる。
「じゃ、いつも通り頑張りましょうか〜」
声は明るかった。
でも、いつもより少し薄い。笑いにはならなかった。
クララは小さく頷くだけで、何も言わなかった。
カイルは腕を組んだまま、前を向いている。
演習場の向こう側には、すでに王子班が整列していた。
五人。
全員が落ち着いている。それ自体が、もう怖かった。
先頭に王子が立っていた。隣にダリルが槍を携えて並ぶ。
二人が並んでいるだけで、前線が完成しているように見えた。王子が動けばダリルが固め、ダリルが崩れれば王子が補う。そういう想像が、見ただけでできてしまう。
二人の少し後ろに、セリーヌがいた。
静かに立っている。こちらを見ているのか、見ていないのかわからない。ただそこにいるだけなのに、それが一番引っかかった。
その右隣には、弓を携えた男がいる。
矢筒の矢の先端が、淡く光っていた。まだ一本も放っていないのに、もう狙いを定め終えているような顔をしている。
もう一人、前衛寄りに立つ少年がいた。
体が軽そうだ。重心が低く、どこへでも動けるように見える。じっとしているはずなのに、次の一歩だけが先に見えているみたいな落ち着かなさがあった。どこか、カイルに似た目だと思った。
昨日の廊下の光景を思い出す。
俺の右腕を見た、あの一拍。
王子は何を知っていた。何を見ていた。
「位置につけ」
ガイウス先生の声が、場内に響いた。
俺は右手を一度だけ握って、前を向いた。
各班、自分たちの位置につく。開始直前のはずなのに、この時間がまるで止まっているみたいに長かった。
向こうから、低い声が聞こえた。
「前に出る。形を崩すな」
王子だった。
こちらまで届いたのは、それだけだった。でも、その一言だけで十分だった。指示じゃない。確認だ。もうとっくに決まっていることを、もう一度合わせているだけだ。
「はじめー!」
声と同時に、王子が動いた。
迷いがなかった。
様子見をする気が、最初からない。
開始の合図を聞いてから動いた、というより、合図と同時にそこにいたように見えた。
「早い」
思わず声が出た。
「蓮は下がれ。まだ様子を見ろ」
ノアの声が飛ぶ。俺は一歩後ろに引いた。
王子が前線を押し上げてくる。
ダリルがその右横をぴたりと固める。二人の間隔が絶妙だった。くっつきすぎず、離れすぎず、互いの邪魔にならない位置に常に立っている。まるで、王子の一歩を最初から知っているみたいに。
「右は抑えます、殿下」
ダリルの声だ。
「ノア、左に来ます」
エヴリンの声。
「わかっている」
ノアが腕を前に出した。魔力が広がる。青白い光が凝縮して、大きな盾の形を作った。縦に長く、横幅もある。一人を守るには十分すぎるほどの、分厚い壁だ。
ダリルの槍が、その盾に叩きつけられる。
演習場全体に、金属が弾けるような音が響いた。
盾の表面に亀裂が走る。だが、砕けない。ノアが足を一歩、後ろに滑らせながら圧を受け止めた。
「このまま押す!」
ダリルの声は短かった。
ノアの動きが止まった瞬間。
来ると思った。
でも、セリーヌは撃たなかった。
「……」
撃てる場面だったはずだ。
なのに動かない。後ろで静かに立っている。
それが怖かった。
撃ってくる方がまだましだった。撃たないということは、もっといい場面を待っているということだ。
「カイル、右から崩せるか」
ノアが指示を出す。
「ああ」
カイルが動いた。影みたいに滑らかに右へ回り込む。短剣を構えながら槍線に割り込もうとする。
でもその動きに合わせて、前衛寄りにいた少年が滑り込んできた。
「っ」
カイルの進路を、正面から塞ぐ。
カイルが右へ出ればそちらへ、左へ出ればそちらへ。影を追うみたいな足運びだった。カイルと同じように低い重心で、同じように相手の動きを読んでいる。
「行かせねぇよ」
少年が短く言った。
カイルが舌打ちをこらえたような間を置いて、後ろへ跳んで距離を取った。
「フィンか」
カイルが短く言う。
向こうから声が届いた。フィンだった。
「何回来ても同じだ」
煽るような声色ではなかった。ただ淡々と自分の役割を遂行する怖さがあった。
「クララ、私に合わせて」
「わかった」
クララが魔導書を開いた。ページが光り、複数の魔術式が展開される。
支援魔術がエヴリンの防御魔術に重なっていく。
だが、その動きに合わせるように、弓使いの男が矢を構えた。
「させるか」
低い声が聞こえた。
光の矢が飛ぶ。
魔術の影響か、本来の軌道とは違う。曲がるように、けれど迷わず対象を狙っていた。
狙いはクララだった。
クララの展開していた魔術式が直撃を受け、そのうちの一つが散る。クララが一歩退いた。
「クララ!」
「大丈夫……当たってない」
「ルカ……」
エヴリンが呟く。
俺は後ろで見ていた。
右手が、袖の内側で疼いた。
今なら右前が空いている。
一発撃てば、少し止められるかもしれない。いや、でも。ノアの「まだだ」がまだ耳に残っている。今は動く場面じゃない。わかってる。
わかってるのに、仲間が削られていくのを後ろで見ているだけなのが、苦しかった。
「テオ、わざと右に流れろ」
ノアの声が変わった。
指示から、仕掛けの声に変わる。
「え? いいの?」
「大きく動け。王子の目を引け」
「……了解」
テオが動いた。後衛から大きく右へ。普段なら絶対にしない、あからさまなくらい目立つ動きだ。
王子の視線がそっちへ向く。ほんの一瞬。
「追うな」
王子が短く制した。
でも、そのわずかなズレだけで、カイルが滑り込むには十分だった。
王子本人を止めるんじゃない。王子班の“形”を、一瞬だけでも崩す。それが今の狙いだった。
さっきと同じようにフィンが対応しようとする。
でも今度は、カイルが動かなかった。
フェイントだ。
その隙に、カイルが別の角度から入った。
そのままダリルの方へ抜ける。
ダリルの槍が右へ流れた瞬間、左から角度を変えて踏み込む。短剣がダリルの槍ごと外へ弾く。完全には届かなかったが、ダリルの体勢が崩れた。
「くっ……」
ダリルから声が漏れた。
「エヴリン!」
「はい」
エヴリンが踏み込んだ。左手を前に出し、半透明の壁を展開する。
縦長の光の膜が、王子の進行線に割り込んだ。ノアの大盾とは違う、薄くて広い壁だ。止めるのではなく、角度を変えるための壁。王子の一歩が、わずかに外へ流れた。
「今」
ノアがその瞬間に動いた。
大盾を展開しながら前に出る。崩れかけていた前線を、一手で立て直す。
一瞬だけ、均衡になった。
観客席のざわめきが変わった気がした。
でも、長くは続かなかった。
王子が修正した。
「体制を整えろ」
たった一言だった。
たった一歩、踏み直しただけで、さっきまでの圧が戻ってくる。ダリルも位置を整える。フィンがカイルの前に戻る。ルカが矢を構え直す。ノア班が作った隙が、静かに埋められていく。
「問題ありません」
ダリルの低い声が重なる。
「……強い」
声に出すつもりはなかった。
「そうだね」
隣でクララが小さく言った。
「派手な技じゃない。…でも、一手ずつ正解を積み上げてくる」
正解を積み上げてくる。
その言葉が、的確すぎた。
王子班の強さはそこだ。圧倒的な一撃があるわけじゃない。ただ、一歩ごとにノア班の立ち位置が悪くなっていく。気づいたら、少しずつ追い詰められている。
「蓮くん、今使った方が……」
クララの声が小さく揺れる。
その時、ノアの声はまだ来ていなかった。
セリーヌが動いたのは、その直後だった。
王子とダリルの圧で、ノア班の前線が半歩引いた。
エヴリンの防御壁が一枚消える。
その瞬間を、最初からそこしか見ていなかったみたいに。
いや、違う。
露出するのを、最初から待っていた。
「敵、対象、見えました」
セリーヌの静かな声が落ちる。
魔術が飛んだ。
狙いはテオだった。
前線が崩れた瞬間、大将の位置が露出した。
セリーヌはそこを見ていた。最初から。
「テオ!」
エヴリンが叫ぶ。防御壁を展開しようとする。
でも前線を維持しながらでは、間に合わない。
ルカが追い打ちをかけるように矢を番えた。エヴリンの意識を割るために。
遠くでセリーヌの声が届いた。
「ルカ、エヴリンを」
返事は聞こえなかった。でも、矢が飛んだ。
「今だ、蓮」
ノアの声が来た。
反射だった。
右手を前に出す。魔力を集める。うまく束にならない。それでも、指先に風が集まる感覚だけはあった。
放つ。
威力はいらなかった。
止まれば、それでよかった。
風だけが横から噛みつくみたいに走って、セリーヌの魔術をわずかに押し流した。狙いが、ほんの少しだけずれる。
テオへの直撃が、右肩を掠めるだけで済んだ。
「っ、痛……! で、でも生きてる!」
「クララ、テオの補修を」
「もうやってる!」
クララの魔術式が展開される。
テオの防御魔術に新しい層が重なっていく。
一秒の沈黙があった。
観客席のざわめきが、大きくなる。
息をつく。
使った。一回。
残り、二回。
たった一発なのに、残り二回という数字だけが急に現実味を帯びた。
「よくやった」
ノアの声が来た。短かったが、それで十分だった。
王子班の動きが、一拍だけ止まった気がした。
王子がこちらを見ていた。昨日と同じ目だった。静かで、何かを測っている。
でも今回は、少しだけ違う何かがあった。
向こうから、低い声が聞こえた。
「……ルカ、蓮を警戒しろ」
ルカが短く返す。
「わかった」
それだけだった。名前を呼ばれた。向こうの作戦の中に、俺が入った。
「…蓮くんを、見てる」
クララが小さく言った。
「さっきまでと視線が変わった」
「無視できなくなった、ってことだ」
カイルが短く言う。
まだ不利だ。
テオの防御は削れている。クララの魔術式も一つ壊された。セリーヌはまだ後衛にいる。ルカの矢筒も、ほとんど減っていない。フィンはカイルの前に立ち続けている。
何もひっくり返していない。
ただ、押し潰されるだけだった流れに、ようやく指をかけただけだ。
でも、もう“何もできない側”ではない。
右手を、一度だけ握る。
残り二回。
王子班は、まだ崩れていない。




