1-8 正式に夫婦になりました(?)
(ふふっ、少しだけ誤解があったようですけれど……)
私はソファに沈み込み、虚空を見つめるように固まってしまったヴォルフ様を、そっと見やる。
(でも、安心してくださいませ、ヴォルフ様!!)
両手を胸元でぎゅっと握りしめ、大きく一度、頷いた。
(わたくし、きっと! ヴォルフ様に『嫁にもらってよかった』と心から言っていただけるように、頑張りますわっ!!)
そう心に誓いながら、私はそっとヴォルフ様に視線を戻す。
……それにしても、本当に素晴らしいお身体。
袖越しでも伝わってくる分厚い上腕。しなやかで美しい筋のライン。ユリウス様がおっしゃっていたこと、すべて本当でしたのね。
しかも──お顔立ちだって、とても整っていらっしゃる。目つきは少し鋭いけれど、それがまた騎士団長らしい凛々しさを際立たせていて。短く整えられたアッシュブラウンの髪も、清潔感があって男らしく、とても素敵ですわ。
(はぁ……こんな方が、わたくしの夫になるなんて……)
思わず胸が熱くなってしまい、私はそっと頬に手を添える。
そして決意を新たに、私はすっくと立ち上がると、屍のようになったヴォルフ様のもとへ近寄り、そっとその傍らにしゃがみ込んだ。
「……ヴォルフ様?」
「…………」
小さく名前を呼んでみたけど、返事がない。
(……まだ混乱してらっしゃるのかしら?)
そんなことを思いながらふと、ヴォルフ様の腕に視線が吸い寄せられた。
シャツの袖を無造作にまくったその腕は、しなやかな筋肉がしっかりと浮かび上がっていて……。
(ちょっとだけ……さわっても、バチは当たりませんわよね?)
誰に許可を求めるでもなく、私は好奇心のままに指を伸ばす。
「ヴォルフ様〜?」
そう声をかけながら、控えめに、ツンと腕に触れた瞬間──
「テ、テレーゼ嬢っ!!?」
ヴォルフ様がガバッと跳ね起きた。
全身をびくんと震わせ、まるで雷に打たれたかのように真っ赤な顔で、びしっと正面を向く。
「ダ、ダメだっ! そういうのは、簡単にしてはいけない! たしかに紙面上では夫婦かもしれないが、君と俺は、初対面だ!!」
怒ってる……というより、ものすごく動揺している。
(……かわいい)
真っ赤な顔でそう言い切ったヴォルフ様を見て、私はふふっと微笑んだ。
こうして必死に距離を取ろうとされるところも、私からすれば、むしろ好感度が上がるだけですわ。
「では、初対面でなくなったら、触ってもいいんですの?」
その場に、沈黙が落ちた。ヴォルフ様の視線は泳ぎっぱなし、何か言いかけて、ぱくぱくと口を動かすだけで、まるで言葉になっていない。
そこへ、ゆるゆると年配の女性が歩いてきて、くすっと笑った。
「テレーゼ様、坊ちゃまは女性にまるで慣れておりませんので、あまりからかわないでやってくださいましな」
「あら、からかったのではなくて、本気で言いましたのよ?」
私が目を輝かせると、ヴォルフ様がさらに頭を抱えた。
その様子にくすっと笑ってから、その女性はふと思い出したように手を合わせた。
「……っと、申し遅れましたわね。わたくし、マチルダと申します。坊ちゃまがまだ幼い頃からお仕えしておりますの。どうぞよろしくお願いいたします」
「まあ、そんなに昔から……! こちらこそ、よろしくお願いいたします、マチルダさん」
私が笑顔で返すと、彼女はどこか誇らしげに微笑んだ。
「こちらは執事のハロルド。この屋敷のことはすべて把握しておりますので、何かお困りのことがあれば、彼にお尋ねくださいませ」
マチルダさんがそう紹介すると、背筋の伸びた老紳士が、静かに一礼する。
「それから……こちらが、料理担当のルーディ。まだ若造ですが、味はなかなかよろしいんですよ」
「うっ、紹介の仕方が雑ぅ……!」
ぶつぶつ文句を言いながらも、ルーディさんは前に出てぴょこっと頭を下げた。
「ルーディと申します! 料理担当です! よろしくお願いしますっ」
「ふふっ、よろしくお願いいたしますわ。楽しみにしていますね」
私が微笑むと、ルーディさんの耳が真っ赤に染まった。
すると、マチルダさんがぽんと彼の背を叩いて、にっこりと笑う。
「この子、坊ちゃまの筋肉に合うメニューを考えるのが趣味なんですよ」
「っっっ! すごいですわルーディさんっ!」
私はパァァッと顔を輝かせて、ルーディさんを見た。
「ちょ、マチルダさん、それいつも怒るじゃないですか! これ以上坊っちゃんの筋肉を育てるなって!」
「お黙りなさいっ!!」
マチルダさんが、ぴしっと一喝する。
「テレーゼ様が筋肉好きだとわかった以上、これからは坊ちゃまの筋肉を全力で育てなければなりません!」
「お、おぉ……っ! 筋肉育成、全力でやらせていただきます!!」
ルーディさんが感極まったように叫んだその時、私は「はっ」と小さく息を呑んだ。
「……あら、そうだわ」
ふと我に返って、私はヴォルフ様の方へ向き直る。
「ヴォルフ様。実は、ひとつお願いがあるのですけれど」
彼は筋肉話に当てられてぐったりしていたところから、顔を上げた。
「わたくし、付き添いの侍女を一人連れてこられたらと思いまして。セシルという子で、とても気の利く娘なんですの。ご迷惑にならなければ、こちらに住まわせていただいてもよろしいかしら?」
するとマチルダさんが、まさに天からの助けでも得たかのようにパッと声を上げた。
「まあ、それは助かりますわ! 坊ちゃまはメイドをご所望だったのに、テレーゼ様が来られたわけですから……もう一人、若い子を雇わなきゃと思っていたところでしたの」
私が「セシルは、元はメイドでしたので、お掃除も得意ですのよ」と微笑むと、マチルダさんの目がさらに輝いた。
「完璧じゃありませんの! ぜひぜひ、そのセシルさんとやら、すぐにでも! ね、いいですよね? 坊っちゃま!」
その勢いに押されて、ヴォルフ様は小さく「……ああ」とだけ返事をした。
私は満足げに頷くと、あらためて全員をぐるりと見渡し、にっこりと微笑んだ。
「それでは、みなさま。これからどうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
そう言って頭を下げた瞬間、
「お、お奥さまってお呼びしてもいいですかっ!?」
ルーディさんがキラキラした目で尋ねてきた。
「ま、まあっ……もちろんですわ」
頬を染めて微笑む私の隣で──
「待てっ! 待ってくれっ!」
突然、ヴォルフ様がソファから勢いよく立ち上がった。
「い、いや……なあ君。落ち着け。そもそも、俺たちの結婚って……ほんとに成立してるのか? あの書類だって、正式に登録されてるかどうか、確認して──」
「坊っちゃま、ご自分でサインなさったくせに、往生際の悪い」
いつの間にか背後にいたマチルダさんが、ため息混じりにぼやく。
「いや、だって! 俺はメイドの契約書だと……!」
「『女性を紹介してほしい』なんて言うからですよ」
「ぐっ……」
ヴォルフ様は言葉を失い、口を開いたまま固まっている。じわじわと赤くなっていく耳元に、私はそっと口元を緩めた。
「では」
私はにっこりと微笑んで、言葉を返す。
「それほどまでおっしゃるのなら、ユリウス様に確認していただいても構いませんわよ?」
「……そ、そうか……」
ヴォルフ様は、どこか安心したように力なく答え、もう一度ソファに崩れ落ちた。
*
翌日。俺は朝一番にユリウス殿下の執務室へ駆け込んだ。
「へ? メイドを頼んだつもりだった?」
机に向かって書類に目を通していた殿下が、手を止め、キョトンと俺を見上げる。
「だってお前、結婚誓約書にサインしただろ?」
さらりと放たれた言葉に、俺の顔が引きつる。ユリウス殿下の整った顔が、こてんと軽く傾いた。
「そ、それは……っ」
言い淀みながら、俺は目をそらす。情けなくも、声が震える。
「たしかに、読まずにサインした俺が悪いんですけど……まさか、あの場で結婚誓約書が出てくるなんて思わないじゃないですか……!」
消え入りそうな声でそう訴えると、殿下は小さく息をつきながらも、どこか楽しげに口角を上げた。
「でもあれ、正式な書式だぞ?」
そして隣に控える男へと視線を送る。
「なあ、アルベルト。あの書類、今どうなってる?」
名を呼ばれたアルベルトは、何でもないことのように淡々と答えた。
「もう、王宮経由で役所に提出済みです。あとは受理を待つだけですね」
……終わった。
「ま、俺が言えば……破棄できないことも、ないけどな?」
ユリウス殿下がちらりとこちらを窺うように言葉を濁す。
「ぜ、ぜひ! ぜひともお願いします、殿下のお力で……っ!!」
すがるように食い下がる俺に、殿下はあくまで冷静に、だがどこか楽しむかのように問い返した。
「で? レゼは、どう言ってる?」
「……その、彼女は……かなり、乗り気でした」
俺が絞り出すようにそう返すと、
「──んじゃ、そのままで!」
間髪入れずにユリウス殿下がグッと親指を立てた。
「ちょっ、殿下!!」
「継続、決定〜!」
──くそ、この王子、完全に話を終わらせにかかっている。
その隣で、アルベルトがにこりと笑う。
つかつかと俺の側にやって来ると、俺の肩をぽん、と軽く叩いた。
「よろしくな、弟よ」
(…………終わった)