2-1 嫁入り初日、さっそく大収穫ですわ!
「では、テレーゼ様はこちらの客間をお使いくださいませ」
マチルダさんに案内されたのは、陽の光がやわらかく差し込む、清潔感のある一室だった。掃除の行き届いた木の床に、淡いブルーの絨毯。壁際にはシンプルながらも品のある家具が整然と並んでいて、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。
(素敵だわ……)
気づけば頬がふわりとゆるんでいた。貴族の屋敷にしては飾り気がなく派手さもないけれど、その分、住む人の人柄が滲み出ているような空間だった。
「ありがとうございます。とても素敵なお部屋ですわ!」
丁寧にお礼を告げると、マチルダさんは安堵したように微笑んだ。
「お荷物は……あとからセシルさんがお持ちになるのでしたっけ?」
「ええ。着くのは夜になるかもしれませんが」
「わかりました。ハロルドにも伝えておきますね。……食事の支度も、セシルさんがいらっしゃる頃に合わせましょうか?」
「いえ、お構いなく。せっかくのですもの、ヴォルフ様のお食事のご様子も拝見してみたいですわ」
「まあ……ふふっ、そう仰っていただけると、ルーディも張り切りますわね」
和やかなやり取りのあと、マチルダさんは「それでは失礼します」と丁寧に一礼して、いったん部屋を出て行った。
……と思ったら。すぐに扉がほんの少しだけ開いて、ひょいと顔を覗かせた。
「……ユリウス殿下のご確認が取れて、坊っちゃまが腹を括った際には、改めてご夫婦の寝室をご用意いたしますからね」
そう言って、いたずらっぽくパチリとウインクする。そして今度こそ、扉は静かに閉じられた。
(ふ、夫婦の寝室……)
その言葉が頭の中でぐるぐると回る。
(ま、まだ来たばかりですのに……っ)
とはいえ——
(……でも、いずれは……そういう日も……)
自分で考えておいて、顔がぽっと熱を帯びる。
「……きゃっ、もうっ♡」
思わず、両手で顔を覆ってしまった。
(……まったく、マチルダさんったら!)
火照る顔をなんとか鎮めようと、ふうっと息を吐いた。気持ちを落ち着けるように、私は部屋の中央にある椅子へと歩き、そっと腰を下ろす。静かな部屋に、自分の鼓動だけがやけに大きく響くようだった。
「……まさか、こんな形で嫁ぐことになるとは……ですわ」
ぽつりと漏らした言葉が、空気に溶けていく。けれどその響きには、ため息よりも、少しだけ弾んだものが混じっていた。
あのあと——
『……とりあえず、俺が明日ユリウス殿下に確認してくるから』
ソファに崩れ落ちたままのヴォルフ様が、どこか諦めたような声音でぼそっと呟いた。
『今日のところは……俺たちの……け、結婚は保留で頼む。今日はこの邸に泊まってくれて……構わないから』
(あの言い方……真面目すぎて、逆に可愛らしいんですもの)
私は満面の笑みで、即座に答えた。
『わかりました! では今日は、夫婦(仮)ということですわね!』
『もう嫁ぐ気で来てしまいましたので、お言葉に甘えて泊めていただきますわ』
そして、いたずらな笑みを浮かべながら、もう一言だけ添えた。
『でもユリウス様の確認が取れたら……私たちは正式な夫婦ですわね』
その時のヴォルフ様の顔といったら。まるで苦虫を噛み潰したような眉間の皺に、真っ赤になった耳。どちらが本音なのか見分けがつかないくらい、あべこべで。
(……でも、そういうところ、好感が持てますわ)
ふっと息をついて、私は椅子の背にもたれた。まだ何も始まっていないけれど、何かが確実にすぐそこまで来ている予感がする。
(よし。まずは、ヴォルフ様のことを色々教えていただかなくては!)
意気込んだその瞬間、窓の外から、シュッ、と何かが鋭く空気を切る音がした。
「……何の音かしら?」
不思議に思って立ち上がり、カーテンの隙間から窓の下をのぞくと——
(ヴォ、ヴォルフ様が……剣を振ってらっしゃる!?)
中庭の一角。広い敷地の真ん中で、ヴォルフ様がひとり、黙々と剣を振っていた。
陽の光を受けて浮かび上がる、鋼のような腕。引き締まった背中。足の運び、重心の乗せ方、そのすべてが洗練されていて、思わず見とれてしまう。でも……でも!
(ああもうっ……尊い筋肉が、あんなに遠くに……!)
(ど、どうしましょう……! 見に行っても……いいかしら!?)
思わず手を握りしめ、急激な胸の高鳴りを押さえ込む。
(でも、さすがに覗くのは……でもでもっ!)
私の脳内が急にバタバタと忙しくなった。
(いいえ、『覗き』ではないわ! これはもう、ヴォルフ様のことを知るための『必要不可欠』ですわよね!?)
そう自分に言い聞かせながら、私はカバンの中から紙と鉛筆を取り出すと、扉に向かってそっと一歩を踏み出した。
足音を忍ばせながら廊下を抜ける。邸の裏手へ回り込み、中庭が見渡せる植え込みの陰に、しゃがんで身を潜めた。
(あ、見えましたわ!)
陽の光に濡れたヴォルフ様の額に、汗がきらきらと光を帯びて滑り落ちるのが見える。隆起する胸筋が呼吸に合わせてわずかに上下し、張り詰めた肩と二の腕は、まるで石像のようにどこまでも硬質だった。
(ち、近い……! さっき窓から見た時より……ずっと、ずっと迫力がありますわ……っ!)
気づけば私は、夢中で紙に鉛筆を滑らせていた。息づかい、汗の香り、剣を振り下ろすたびに鳴る布のきしむ音。そのすべてを写し取りたくて。
(これは……! 次の画集は大ヒット間違いなしですわっ!!)
*
(……見られて……る?)
中庭で剣を振る俺の視界の端に、ふわりと揺れるプラチナブロンドが入り込んだ。あれは……テレーゼ嬢?
(な、なんであんなとこに……)
そっと横目で確認すると、彼女は植え込みの陰にしゃがみ、何やら紙に向かってペンを走らせている。
(何か書いてる? いや、描いてる?。……まさか、俺を、か……!?)
思わず手が止まりかけたが、すぐに思い直してそのまま剣を振り下ろす。急に止める方が、むしろ不自然だ。
(なぜ……俺なんかを……)
意識すればするほど鼓動が速まる。集中しろ、集中。いつも通りの鍛錬だ。ただの素振り。そう、これは日課。
俺は、しばらく無心で剣を振った。何事もなかったように。
(……まだ見てるな)
俺はもう一振りする。
(……いつまで見てる気だ……?)
さらに一振り。
(そろそろやめたかったんだが、ここでやめたら気まずいだろ……!)
ちら。
(……ああ、やめどきが……わからんっ!!)
俺は震える手で剣を握り直し、渾身の3000回目を、力任せに振り下ろした。
そしてその日の夕飯時。
「坊ちゃま、今日はなんだか、やけにぐったりされてませんか?」
マチルダが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……なんでもない。放っといてくれ」
言い捨てるように答えたが、あの、熱のこもった視線を思い出すたび、なぜか顔がじわじわ熱くなってくる。
(……くそ、なんなんだ、ほんとに……)




