3-9 無自覚の恋......?
アメリア姫が軽やかに部屋を去り、扉が音もなく閉じられる。残された空気は張り詰めたまま、誰もすぐには口を開けなかった。
「……陛下」
ユリウス殿下が、押し出すように口を開く。
「まさか……姫の申し出を本気で受け入れるおつもりですか?」
「正気とは思えません」
続いたアルベルトもまた、きっぱりとした口調で言い放つ。レオポルト陛下はワインの杯を持ったまま、ゆるやかに息を吐き出した。
「ふむ。正気かと聞かれれば、まあ正直、驚いてはおる。だが……」
そう言って陛下はちらりと俺を一瞥し、手元のワインを静かに揺らす。ゆらゆらと波打つ深紅の液面に、何かを思案する影が落ちていた。
「世の中には、愛のない夫婦など珍しくもない。それを否定はせん。だが裏を返せば、愛がないのならば、別の道を選ぶのもまた一つの在り方であろう。それが国の発展に繋がるのなら、なおさらだ」
小さく一息ついたあと、陛下はようやく視線をこちらへと戻す。
「もしヴォルフと奥方のあいだに愛がないのなら……アメリア姫の申し出を検討する余地はあると、そう思っただけのことだ」
声音は淡々としているのに、その言葉は重石のように俺の胸へ沈み込んでくる。それきり王は何も言わず、椅子から立ち上がった。
「では、儂は政務に戻るとしよう。午後の会議が控えておるのでな」
侍従に軽く目配せを送り、陛下は重々しく部屋を後にする。
「……検討する余地はある、か」
低く呟いたユリウス殿下は、ちらりと俺に視線を投げた。
「なぁ、ヴォルフ。一応聞いておくが──お前、アメリア姫と結婚したいか?」
「なっ、したいわけないでしょうが!?」
唐突な質問に、つい語気が強くなる。
「だよなぁ。だってお前、レゼのこと、好きっぽいし」
「なっ、そ、そんな! ち、違います! 俺は、ただ……!」
言葉の先が出てこなくて、慌てて口をつぐむ。熱が一気に頬へ上っていくのがわかる。
(俺が……テレーゼ嬢を、好き……? そ、そんなわけ……いや、でも……)
ふと、あの夜の記憶がよみがえる。彼女の手を握ったときの感触。白くて、細くて、やわらかくて……なんか、離したくなくて。
(……な、なに考えてんだ俺っ)
慌てて頭を振る。これ以上余計なことを思い出したら、まともじゃいられなくなる。
なのに、目の前のふたりは──なぜかそろって納得顔だ。
「ふむふむ、やっぱり気づいてないパターンか」
「完全に無自覚の恋……ってやつだな」
「おいっ! 勝手に診断するなっ!」
思わず声を荒げた俺に、アルベルトが急に真顔に戻った。
「でも、よく考えたら……さっき陛下は『愛がないのなら』って仰ってましたよね。つまり、『愛がある』なら、問題ないってことでは?」
その言葉に、ユリウス殿下が食いつくように言葉を畳みかける。
「だな! アメリア姫もそこは気にしてたし。ようするに……お前がはっきりさせりゃ済む話なんだよ、ヴォルフ」
「なっ──!」
ふたりの言葉が、じわじわとのしかかってくるようで、思わず喉が鳴った。
「だから、さっさとアメリア姫に言えばいいんだよ。『俺はテレーゼを愛してる』って。な?」
「愛っ……!?」
その言葉を繰り返した途端、顔が熱くなっていくのがわかる。
(そ、そんなの……言えるわけないだろうがっ!)
けれど、そんな俺の様子など気にも留めず、ふたりは好き勝手に話を進めていた。
「てかさ、最初からお前が即それ言ってりゃ済んだ話なんだよな〜」
ユリウス殿下が、わざとらしく肩をすくめる。
「でも、それができないのがこの男なんですよ。何しろ無自覚の権化ですから」
アルベルトは片眉をわずかに上げ、からかうように俺を見る。
「だな〜。しかも仕事と鍛錬のことしか頭にない脳筋だしな〜」
「マジで恋愛方面の処理能力ゼロですしね」
(……こいつらっ!)
(そもそも失言して話をややこしくしたのは殿下だろうがっ!)
(なのに、いつの間にか俺が……あ、愛してることになってるし!)
「……おまえらなぁっ!」
さすがに抗議の声を上げかけたその時。コン、コンと扉を叩く音が響いた。
「失礼いたします」
控えめな声とともに扉が開き、侍従が姿を現す。
「アメリア殿下は、先ほどヴォルフ様のご自宅に向かわれたとのことです」
「は?」
思わず、三人とも動きを止めた。
(アメリア姫が、俺の屋敷に?)
(な、なにしに……って、テレーゼ嬢に会いに行ったのか!?)
(やばいっ! 何を言う気だあの人!? 頼むから、話をややこしくするようなことはやめてくれっ!)
心の中で大絶叫しながら、そわそわしだす俺を見て、ユリウス殿下が手をパタパタと振ってみせる。
「ほら、早く行ってやれよ。今日は姫の護衛もないんだし、別にいいだろ」
「す、すみません! 失礼しますっ!」
言われるが早いか、俺は踵を返し、ほとんど駆け出す勢いで部屋を飛び出した。
背後からは、ふたりの呟きが聞こえてくる。
「……やっぱ、愛、あるよなぁ?」
「……ありますねぇ」
「じゃあまあ、心配ないか」
*
馬を駆けさせて屋敷に戻ってきたとき、まず最初に感じたのは──妙な静けさだった。
昼下がりの邸宅とは思えない。門番の姿はあるし、玄関の扉も開いている。だが、普段ならあちらこちらで聞こえるはずの雑談や食器の音、使用人の足音すら、まるで隠されているかのように、聞こえてこなかった。
(……なんだ、この空気)
邸に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がぞわりと揺れる。玄関ホールに誰一人出迎えがないことに気づき、思わず眉をひそめた。
そのとき──
「おかえりなさいませ、ヴォルフ様」
廊下の奥から、ハロルドが静かに姿を現す。いつもと変わらぬ丁寧な口調だが、その声音には微かだが、確かに冷えたものが混じっていた。
「ただいま。……アメリア姫は?」
口にしてからしまったと思う。これではまるで、自分が姫を追って帰ってきたみたいじゃないか。
「すでにお帰りになられました」
ハロルドは相変わらず表情ひとつ動かさずに、淡々と答えた。
「そうか。それで……テレーゼ嬢は?」
問いかけながら、心のどこかで願っていた。外出していて、アメリア姫とは鉢合わせしていない──そんな奇跡があれば、と。
「テレーゼ様はお部屋に籠もられました」
その言葉に、小さな落胆が心をかすめた。同時に、心臓をひと突きされたような痛みが走る。
(……傷つけた)
足取りが途端に重くなる。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。アメリア姫が彼女に何を告げたのか──それはもはや二の次だ。今この瞬間、彼女がどんな思いでいるか。それだけが気がかりでならなかった。
(……とにかく、会いたい)
俺は足早に、テレーゼ嬢の部屋へと向かう。
(ユリウス殿下の言う通りだ。最初からアメリア姫にはっきり断ればよかった)
(全部、俺のせいだ)
後悔、苛立ち、情けなさ。すべてが自分の中で渦を巻いて、胸の奥でぐしゃぐしゃに絡み合う。何もかもが遅すぎた気がして、無性に腹が立った──自分自身に。
静まり返った廊下。屋敷の空気すら、やけに重たく感じられる。
そして彼女の部屋の扉の前に立ち、軽く、ノックをする。
「……テレーゼ嬢」
返事はない。
もう一度、今度は少しだけ強くノックする。
「……話がしたい。少しだけでいい。顔を……見せてくれないか」
それでも、扉の向こうからは何の音も返ってこなかった。




