最終幕 ⑦
フレイは、恐る恐る、グラスに口を触れ、林檎酒を舐めた。
「フレイ。わたしの質問はこれが最後。わたしがわからないのはね? あなたに指示を送っていた黒幕の正体。……誰なの? 誰に命令された?」
アリサは足を解き、両膝を揃えて前に屈むと、俯くフレイの顔を、じっと、覗き込む。
「どうしたの? 何も恐がる必要はないわ。わたし達、ずっと一緒だったでしょう? 数え切れない思い出があるじゃない? わたしにはもう、あなたしかいないのよ? そんなわたしが、自ら望んで、独りぼっちになると思う?」
「う、うぅ……」
フレイは嗚咽を溢した。アリサの言には、フレイを許すかのような響きが含まれていた。
助かるという安堵感。嘘をつき続けてきた罪悪感。アリサの、心の広さへのありがたみ。そうした諸々の感情が涙となって溢れたのだ。
「大丈夫だから」
アリサのひんやりとした細い手が、フレイの背を擦る。
「フレイにこんなことをさせた黒幕は、誰? 名前を教えて?」
フレイは涙を呑みこんで、まっすぐに、アリサと向き合った。
深紅の瞳は、変わらずそこにあった。
「勇者です」
フレイは嘘偽りない、真実を言った。
フレイの背中を擦るアリサの手が止まり、離れた。
「…………」
アリサの瞳が僅かに揺らいだかに見えたが、彼女の心中は、やはりわからない。
「…………そう」
しばしの沈黙のあとで、アリサは吐息交じりに言った。
深紅の瞳が、フレイから床へと逸れた。
そのとたん、フレイの全身から力が抜け、漂っていた恐怖が薄れた。
「質問が増えた。あなたは勇者になんと言われたの? こんなことになった経緯を聞かせて?」
フレイは林檎酒を一気に飲み干した。
「私が勇者と出会ったのは、ここへ来る前。――暗黒の森でした。彼は私に、父親と同様、出稼ぎに出てみないかと、話を持ちかけてきたんです。私の家は、果物どころか、最低限の食糧の確保がやっとの、貧しい状況でした。私は、家族のためにと、勇者に従う道を選びました」
「それで?」
「私は暗黒の森を訪れていた魔王の使い――ベルリオーズ卿に志願して、魔王城で働くことになりました。それが勇者の指示だったからです。そうして私は、生まれたばかりのアリサ様に出会い、専属の侍従としてお仕えすることになり、今に至ります」
「……続けて」
「最初のうちは、自分は勇者の部下で、家族のためにここにいるという気持ちでした。でも、月日が流れる内、私は次第に、アリサ様の笑顔を見ることが幸せに感じるようになり、純粋にアリサ様にお仕えしたいという気持ちが、強くなっていったんです」
アリサは沈黙を守り、先を促した。
「それからの私は、勇者の指示にも、それがアリサ様のためになるか否かをまず考えてから従うようになりました。今回の一連の出来事も、すべてはアリサ様のために、断腸の思いでやったことです」
フレイはグラスに視線を落とす。
「ずっと黙っていたのに、今さらすべてを打ち明けるのは、卑怯者のすることだとわかっています……」
アリサは小さく頷いて、フレイの手からグラスを取り、ケインに渡す。
「――それなりの事情があったのはわかった。けれど、結果としてあなたは、わたしに酷いことをした。その事実は変わらない」
「はい……」
「それに、あなたは勘違いをしてる。わたしのためだって話だけれど、そうじゃない。あなたは自分のためにやったのよ」
魔王城へ来て、初めて魔王の深紅の目を見たとき、フレイは、すべてを見透かすかのような目だと感じた。
フレイはその記憶を、アリサの目を見て、思い出した。
そして、すべてを見透かすのは本当なのだと思った。
「金輪際、嘘だけはついちゃダメ。嘘は、このわたしを侮辱することになる。いいわね?」
「わかりました」
「あなたの処分を言い渡します。当分の間、魔王城の仕事からは外れてもらうわ。生活費は支援してあげるから、暗黒の森に帰って、お母さまのお手伝いでもしていなさい? 勇者から新たに連絡があった場合は、包み隠さずわたしに伝えること。いい?」
「はい……」
フレイは、身の安全が確実なものとなったことで、より強い安堵感に包まれた。同時に、当分の間、アリサの可愛らしい笑顔が見られないことを、心の底から残念に思った。
そして、己の心の奥底に潜む本心が掘り返された。
(アリサ様の言う通り、私は単に、アリサ様の笑顔を自分だけのものにしたかった。自分にだけ、微笑んで欲しかったんだ)
それは、一種の支配欲とも言えた。
「……それじゃあ、仲直りよ?」
アリサはフレイの前に右手を差し出した。その人差し指には、魔王の象徴たる金の指輪。
「魔王、我が君。私の魂を、あなたに捧げます」
フレイは頭を下げ、そっと、指輪に口づけした。
「よろしい」
アリサは静かに言って、立ち上がった。
ケインに促され、フレイも立つ。
「城門広場でベルリオーズを待たせてある。彼に送り届けてもらいなさい」
「……アリサ様。私がいなくて、本当に大丈夫ですか? 髪のお手入れとか――」
「わたしはもう、子供じゃないのよ?」
ドアを指差し、首を傾げるアリサ。
「はい……」
フレイはケインに付き添われ、ドアから廊下へ出る。
「……っ!」
フレイは嗚咽を堪えて口を引き結び、去る前にもう一度、王の間を振り返る。
石段の前にアリサの背中が見え、ドアが閉じられた。
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「……フレイ。あなたも、魔族だものね」
背後でドアが閉まり、アリサはつぶやく。
「ごめんね? わたしは、あなただけのものではないの」
石段を昇ったアリサはおもむろに、玉座に立て掛けてあったヴァイオリンを手に取る。
松明が照らす中――王の間の中央へ降り立ったアリサの脳裏に、ローランと過ごした川原が蘇った。
玉座を見ると、馬車の中に座る父親が見えた。
「ローラン様、お父様。わたしにとっての幸せは、誰かと繋がることではありませんでした。わたしは気付いたのです。なぜ辛くて、悲しくて、寂しいのか。そして、その対処法を見つけました。そうした先に、本当の幸せを見出したのです」
王の間に、アリサの声だけが響く。
アリサは、ヴァイオリンを構えた。
「――これで、お別れです」
奏でるは、【主よ、御許に近づかん】。
アリサの音色は、優しくも切なく、力強くも、どこか悲しい響きを孕んでいた。




