最終幕 ⑤
「――地下室、埋めさせようかしら」
(これが、人間ではなくなるということ――?)
悲しくない。
寂しくもない。
苦しみが、ない。
(いいわ。ちゃんと、成長してる)
アリサの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
(見ていてください。お父様)
「――すみません」
そのときだった。
王の間にもう一人、来客があった。
褐色の肌をして、ベージュの髪を後ろで一つに束ねた、女性のダークエルフだった。
アリサはその顔を見て、思わず声を上げた。
「フレイの、お母さまですか⁉」
「然様でございます」
フレイの母親は、ドアの傍で深々と頭を下げた。
アリサは、フレイから話を聞いてはいたものの、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
「申し訳ありません。今、侍従の者が出払っておりまして、とんだ御無礼を」
最後に会ったのはいつだろうか? と記憶をたどりながら、アリサは今の立場を忘れ、石段を駆け降り、フレイの母親を抱き締めた。
身体は痩せ細っていて、背はフレイより拳一つ低い。アリサと目線がほとんど同じだった。
「この度は、お父様のこと、……ご冥福をお祈りに参りました」
「遠路遥々お越し頂いて、父もきっと喜んでおります。……今日は、お一人ですか?」
「はい。夫は人間界に出稼ぎに行っている身でして、間に合いそうになく……」
「そうでしたか。……でも、お母さまにこうしてお会いできただけでも、うれしいです。別室に果物があるので、よろしければ召し上がりませんか? ダークエルフは魔族と人間、両方の食べ物が平気だと、フレイから聞いています」
アリサは出稼ぎの魔族の待遇が人間界でどうなっているのか? 不遇な扱いを受けてはいないか? という心配が浮かんできたが、顔には笑顔を浮かべる。
果物についても、近頃自分が食べなくなったことで余っているとは言わない。
「お心遣い、感謝致します。ですが、大丈夫です。普段口にできないものは口にせぬようにと、夫から言われておりまして」
「それは、何故なのですか?」
アリサは推測を巡らせながら、聞いてみる。
(暗黒の森は作物が育ちにくいと聞いているから、その類かしら?)
「私たちの故郷は日照りが悪く、食料は狩りで得た肉と魚、あとは野草でして。果物のような高級なものは手に入らないのです。ダークエルフの生活水準がもっと上がれば、そうした物も日常的に食べられるのですが、なにせ、森が魔界の最果てにあるものですから……」
(やはりそうね。地方の問題は山積み)
「そうなのですね。わたしの無神経な発言、お許しください。近いうちに改善できるよう、尽力して参ります……」
とんでもない、と、フレイの母親は手を振る。
「アリサ様がお元気であれば、私たちも頑張れます。これからは、アリサ様の時代。どうかフレイを、今後ともよろしくお願い致します」
フレイに休めと命じた手前、僅かに迷うアリサだが、
「せっかくここまで来られたのですから、フレイに会ってあげてください。わたしが呼んで参りますの
で」
「よろしいのですか?」
「もちろんです。フレイは普段顔には出しませんが、ご両親のことも、妹さんのことも、大切に思っているんですよ? 喜ぶに決まっています」
アリサがそう言い終えるまでの僅かな間で、フレイの母親の表情が硬くなった。
「――? どうか、なさいましたか?」
アリサが培った観察眼は、それを見逃さない。
フレイの母親は、俄かに困惑した様子で、こう言った。
「フレイに、妹はおりませんが……?」
アリサの頭の中で、これまで不可解に浮かび続けていた点と点が、一つの線で繋がる。
真の内通者は、他にいたのだ。
それが、アリサの中に巣くっていた胸騒ぎの正体だった。
♡
アリサは、フレイの母親を王の間に待たせ、タイミングよく階段を上がってきたケインを呼び止めた。
「ケイン。あなた、語学が堪能だったわよね?」
オークにしては知性の高いケインは、人間界と魔界の共通語はもちろん、エルフ語やゴブリン語といった複数の言語に精通しており、先代の魔王にそこを評価され、侍従の仲間入りを果たした経緯があった。
「そうですけど?」
彼の呼気からはカビビールの香りがした。
「エルフ語もわかるわね?」
ケインは頷いた。
「今すぐやってほしいことがあるの。結果がわかったら、すぐわたしに報告して」
♡
アリサは寝室にいたフレイに、母親が来ていることを告げた。すると、フレイは青ざめた表情を浮かべ、足早に【王の間】への階段を昇り始めた。
アリサの深紅の瞳はずっと、彼女の背に向けられていた。
「お母さん⁉ どうしてここに……」
「フレイ。元気にしてた?」
「帰って!」
アリサは腕を組んでドアに肩を預け、二人の様子を観察する。
「ど、どうしたの⁉」
「来てくれたのは嬉しい! でも、ここには恐い魔族や人間が大勢来てるの! だから帰って! 私は元気にやれてるから!」
「フレイ? せっかく遠くから来てくれたんじゃない。そんな態度を取ることないでしょう?」
アリサは、困惑した母親とフレイの間を取り持つ。
「さぁ、お母様。娘さんと親子水入らずの時間をお過ごしください。フレイも、さっき言ったとおり、今日は自由にしていいから、二人でお散歩でもしたら?」
親子の背中を押して、ドアを閉じ、アリサは王の間に一人残った。
「…………」
玉座への石段を昇る途中で、またも頭痛を感じ、その場に座り込む。
(――――っ!)
自分の、声にならない声。
ここまで酷い頭痛は、初めてだった。
前屈みに、両手で頭を抱える。
次第に鼓動が激しくなり、目には涙が溢れてきた。
(わたしの傍には、誰も、いてくれないの?)
アリサはネクタイを解き、ジャケットを脱いだ。
胸が、苦しみで張り裂けそうだった。
「はぁ、はぁっ! あぁあああッ!」
シャツを強引にこじ開け、ボタンが吹き飛ぶ。
苦しみは消えない。
(わたしには、苦しみだけなの⁉)
「ぁあああああああああああああああああああああああああああッ‼」
アリサは右の五指を、左胸に思い切り突き刺し、内部で掴んだものを握り潰した。
「がはッ――っ⁉」
アリサは口から、黒紫色の血を吐き出す。
一瞬息が止まり、アリサはすべての感覚から解放された。
しかし次の瞬間には、潰れたそれは再生し、変わらぬ現実が再び時を刻み始めた。
「……そんなの、とっくにわかっているでしょう? 単純なこと」
無意識に、アリサは自分自身に語り掛ける。
アリサの瞳から最後の涙が落ちる。それはガラスのように輝き、床に当たって砕ける。その音と共に、彼女の瞳の光は潰えた。
部屋の空気が一瞬凍りつき、アリサの周りの色彩が失われていく。彼女の唇が僅かに動き、微かな笑みを浮かべる。それは氷のように冷たく、そして美しい。
乾いた笑いが、王の間に響き渡った。
♠
葬儀の後の宴は慎ましく行われ、主教の結びの祈りで幕を閉じた。
何事もなく葬儀が終わり、内心安堵した者も多いであろうと、集まった誰もが思った。
水面下で起きた、グレイスとサラマンダーの件は、数名の侍従を除いて、誰も勘付いていなかった。勘付いたとしても、その場で説き伏せれば良いだけであった。
「本日は、ありがとうございました」
客人たちを城門の前で見送るアリサの下へ、ケインが戻ってきた。彼は剣呑な表情でアリサに耳打ちし、指示を待つかのように姿勢を正した。
アリサは帰り行く客人への会釈を止め、じっと足下を見つめていたが、ふと我に返ると、ケインの肩に手を置き、耳打ちを返した。
♠
(危ないところだった。下手をすれば、すべてが終わっていた)
母親を送り出したフレイは、心の中でそうつぶやきながら、城の階段を昇る。
「フレイ、魔王がお呼びだぜ? 母親の前で取り乱した理由が知りたいそうだ」
ケインにそう言われてのことだった。
(今の状況でなら、いくらでも誤魔化せる)
フレイは呼吸を整え、王の間の扉をそっと開けた。
瞬間、フレイは、これまでたったの一度も感じたことのない違和感を抱いた。
王の間の照明が、すべて消えている。中は暗闇が支配していた。
「アリサ様?」
一歩、足を踏み入れた。
とたん、背後にケインの気配がして、彼の手でドアが閉じられた。
「っ⁉ アリサ様? いったいどうなされたのですか?」
鼓動が僅かに早まるフレイは、暗闇の遠くにそれを見出した。
深紅の瞳が、瞬くことなく、暗闇の中に浮いていた。
「――フレイ?」
と、瞳は声を発した。
フレイの鼓動がさらに早まる。
何かが違う。と、得体の知れぬ不快感が、眼前の闇から壁の如く押し寄せてくる気がした。




