第三幕 ⑦
(わたし、この年になっても、あのときのままなの? 成長、できていないの?)
アリサはこの数年間、社会勉強で魔界を回り、さらには人間界で陸軍に入り、心身を鍛え、人格を磨いてきた。その証拠に、陸軍では歴代最年少で、大尉にまで昇格した。
挫折とは無縁の、輝かしいキャリアを積み重ねてきた。
――そのはずだ。
「確かに、アリサ様はたゆまず努力し、積み重ねてきたものがあります。もう、立派な大人と言ってよいでしょう。でも、アリサ様はまだ、そこにしか到達していません。世界はあなたが思うよりもずっと広く、深いのです」
フレイは椅子から前に屈み、アリサの顔を覗き込む。
「アリサ様は、その広大な世界を揺るがしかねない、魔王一族の一人。そうである以上、あなたの言動は、あなたが思う以上に、大きな影響と責任が伴うことを、もっと自覚するべきです」
アリサは視線を床に落とし、下唇を噛んだ。
「わたしは今まで、いろいろなことを我慢してきた。酷いことをされても、そういうものだと受け入れて、相手を許し続けたこともある。……けれど、屈辱を感じたことも、挫折を感じたことも、一度だってなかった。やりたいことは全部、やり遂げて来たから」
アリサは眉を吊り上げ、フレイを睨みつけた。
「わたし、生まれて初めて傷ついたわ、フレイ……」
「アリサ、様……?」
アリサの鋭い視線に、フレイは狼狽えたように眉を困らせた。
「フレイなんか、知らない。もう、放っておいて」
「――アリサ様」
アリサは立ち上がり、振り返ることなく部屋を出る。
早朝の陽が射しこむ廊下を玄関へ向かって歩きながら、歯を食い縛る。
(フレイは正しい。悪いのは、わたし)
昨夜は、私情が過ぎた。立場というものを、まるで考えられなかった。
問題なのは、それを素直に受け入れられず、反感を抱いてしまったこと。
大人になりきれない自分が恥ずかしく、許せなかった。
(ましてや、まるでフレイのせいみたいな言い方をするなんて)
川原でローランを押し倒したときの光景が浮かんだ。
アリサはそのとき、まるで経験豊富な年長者のような物言いで彼を諭した。
年はたった二つしか変わらない。
「――どっちが下よ」
アリサは自分に言い放った。
同時に、ローランへの感情を封じなければならないことが悲しく、悔しかった。
視界が滴でぼやけ、アリサはローファーを履いて、外へ飛び出した。
(あの川で、頭を冷やそう)
館の広場を突っ切って、とうもろこし畑へ。
草をかき分け、時折飛び立つ虫に驚くこともなく、アリサはぐいぐいと進む。
「――っ?」
だが、アリサは畑の中で足を止めた。何かの音が聞こえてきたのだ。
「……」
少しの間、じっと耳を傾ける。
それは音と言うより、音色。誰かが奏でる、楽器の音色だ。
(この曲……音楽隊の演奏で聴いた覚えが――?)
アリサは陸軍にいた頃を思い出しながら、さらに進んで、川に出た。
「っ!」
アリサの呼吸が止まる。
斜面を下ったところに、ローランが立っていた。
彼は白のドレスシャツにネイビーのトラウザーズという姿で、手にしたヴァイオリンを鎖骨と顎の間に挟んでいた。
今の音色は、ローランが奏でていたものだ。
彼はアリサを振り向いた。
アリサはさっと、視線を川へ逸らした。
顔が火照り始める。
「おはようございます」
ローランが言った。
「おはよう、ございます……」
ローランの目を見れないまま、挨拶を返すアリサ。
「――昨日は、あの、すみませんでした」
ヴァイオリンを降ろして、ローランは言った。
「い、いえ。わたしの方こそ。……眠れましたか?」
「そ、それなりに」
(気まずい。こんなときに彼に会うなんて)
葛藤に反して、アリサの身体は正直だ。顔は耳まで赤く、鼓動は早まり、その場を動けない。
引き返す選択肢などない。もっと傍に行きたい。と、身体が訴えている気がした。
「き、綺麗な音ですね」
気が付くとアリサは、そう言っていた。
嘘偽りなく、純粋な感想だった。
「ありがとうございます!」
ローランは、ぱっと顔を明るくした。
「昨日、案内して頂いたお部屋に飾ってありまして、さきほどモルテガ卿にお許しを頂いて、弾きに来ていたんです」
「ローラン様は、音楽がお好きなのですか?」
アリサは一歩、また一歩、坂を下る。
「お城でいろいろなことをさせてもらって、唯一続けられたのが、ヴァイオリンなんです」
「そうなのですね!」
アリサには、趣味と言えるほど好いているものはなかった。読書と筋力トレーニングは欠かさないようにしているが、それらはどちらかといえば、習慣のようなものだ。
「もっと、聴かせてくださいませんか?」
アリサはローランのすぐ隣に立つと、両手を後ろで合わせ、彼の顔を覗いた。
ここへ来るまで渦巻いていた負の感情が、ローランの前では幻のように消えていく。
「人様には、まだお聴かせできる腕前じゃありませんが……」
「そんなことありません。とても美しい音色です。だからわたしは、ここに……」
恥ずかしそうに笑うローラン。彼の頬も、ほんのりと赤い。
「ぼくは、昨日のことが忘れられなくて、頭を冷やしに来たんです。これを弾けば、冷静になれるかと思って……」
そう言われ、アリサは頬を赤らめたまま、上目でローランを見た。
考えることがこうも同じな人間に、アリサは出会ったことがない。
(ああ、だめだ。どうしようもないくらい、わたしはローランのことが――)
「な、なにを弾きましょうか?」
明後日の方向に目を向けて、ローランは言った。
「ローラン様のお任せで」
「で、では、最近弾けるようになった曲を!」
ローランも真っ赤な顔のまま、ヴァイオリンをあてがい、おもむろに目を閉じた。
暖かな風が吹き、とうもろこし達がそよいだ。
アリサも目を閉じ、ローランが奏でる音色に聴き入った。
繊細ながらも暖かく包み込むような、心地の良い旋律でいて、どこか儚く、神々しい。
言葉だけでは表せない、そんな尊さを纏った曲だと、アリサは思った。
(彼の音を、もっと聴いていたい。そして叶うなら、共に奏でたい)
そんな思いが心を満たし、アリサは確信する。
『アリサ、お前は魔界と人間界の橋渡しとなれるやもしれぬ。一度の刃も交えることなく、共に繫栄するための要だ。そうした可能性もあるからこそ、儂はお前に、人間との繋がりを持ってほしいのだ』
と、馬車で聞いた父親の言葉が蘇った。
(お父様。わたしは、お父様の言うとおり、人間との繋がりを持ちました。そして、わたしにとっての幸せも見つけました)
演奏が終わり、どこかから鳥の飛び立つ音がした。
アリサの拍手が、宙へと溶けていった。
「い、いかがでしたか?」
「――好きです。とても」
アリサが微笑むと、ローランも眉を開いた。
「良かった! 気に入ってもらえて」
彼の嬉しそうな笑顔に、アリサの心は跳ねた。
アリサは、ローランと同じように笑い、喜びを共有したいと思った。
「なんという曲なんですか?」
「【主よ、御許に近づかん(Nearer My God to Thee)】という讃美歌で、人間界で有名な曲なんです」
「わたしも、練習すればできるでしょうか?」
「できますよ! アリサ様ならきっと、すぐに!」
目を輝かせるローラン。
「わたし、これといった趣味がありませんでしたが、ローラン様の演奏のおかげで、ヴァイオリンをやってみたくなりました!」
「ほんとですか⁉」
ローランは目を瞬かせ、川の方を見遣り、それからもう一度アリサを見た。
「ぼ、ぼくでよかったら、お教えします!」
「ぜひ、お願いします」
アリサは自然と、笑みが零れた。
(フレイには、あとで謝ろう。そうしたうえで、もう一度話し合ってみよう。――フレイならきっとわかってくれる)
アステラス王国での役目を終えたら、モルテガ卿の館で、ローランと一緒に音楽に興じる。
そんな日々を想像して、アリサは身が引き締まる思いだった。
(なんとしても、わたしがローラン様を救わなければ!)
「持ってみますか?」
と、ローランがヴァイオリンを差し出す。
「――ありがとうございます」
アリサはヴァイオリンを受け取り、さきほどのローランの構え方を真似てみる。
「こう、ですか?」
「親指の腹と、人差し指の付け根のあたりで軽くネックを支えて、肩の力を抜いて――そんな感じです」
ローランがアリサの後ろに立って、そっと腕を回す。
早朝の涼やかな空気の中、ローランの温かな感触がアリサを包み込む。
水面に反射した光が、二人を照らしている。
「いいですか? 指先ではなく、指の腹で弦を押さえるんです」
ローランの指がアリサの指を、上から優しく押さえる。
人間の男の子はオークと違って、汗のにおいが薄い。
それどころか、ローランからは石鹸の香りがした。
「ヴァイオリンの音は、押さえ方で大きく違ってきます。力まずに、……そうです。それから右手で弓を――」
アリサは、ローランの声と自分の鼓動が同時に聞こえた。
ローランの手とアリサの手が重なり、川のせせらぎのような、優しい音が奏でられた。
アリサは、二人の身体が一つになったような気がした。
「お上手です。アリサ様」
耳元からローランの声。
「ローラン様が、手を貸してくれましたから……」
今ここで振り向けば、ローランの顔はすぐ傍。
(だめ! 今のわたし、ぜったい顔が赤い!)
アリサは――振り向けない。
身体の力が抜けそうだった。
胸が張り裂けそうなほどに高鳴り、ともすればアリサはまた、抑えようのない衝動に駆られ、力任せに彼を押し倒してしまうかもしれなかった。
「あ、ありがとうございます、ローラン様」
アリサは堪らず、しかし自然な動きで、ゆっくりとローランを振り解き、彼に向き直る。
「わたし、ヴァイオリン、始めてみます! ……だから」
アリサは持ったままのヴァイオリンを見降ろし、上目をローランに向ける。
「これからも、教えてくれませんか?」
ローランの目がはっと、見開かれる。
仄かに強い風が拭きつけ、二人の髪を撫でた。
「――はい。喜んで」
アリサはローランに近付き、ヴァイオリンを手渡す。
水面に映る二人の影が、一つに重なった。




