第三幕 ⑥
「ねぇ、フレイ? ご本よんで?」
曇り空が覆う昼間。魔王城の中庭。
アリサは、スーツに身を包むフレイの膝元に縋る。
真上を向かないと、フレイの顔は見えない。
「アリサ様……」
アリサは、フレイが魔王に視線を投げかけるのを見た。
「よい。そろそろ昼寝の頃合いであろう。寝る前に読んで聞かせよ」
魔王は右腕たるベルリオーズに隠居を提案していたところで、フレイに頷いた。
「承知しました」
「やったー」
フレイは口を引き結んで目を閉じ、一礼すると、アリサをそっと抱き上げた。
「あの者の働きは、いかがでしょうか?」
フレイの顔を見上げるアリサの脳に、ベルリオーズのテレパシーが届く。
「フレイか? お前が見込んだだけのことはある。アリサはすっかり懐いておるし、このまま専属の護衛と給仕を任せようと考えておる」
「であれば、良いのです」
フレイが城の門の前で振り返り、魔王へ再度一礼する。
アリサはフレイの腕の中で、魔王が片手を上げるのを見た。
ベルリオーズも、巨体に見合わぬ短い腕を曲げ、角張った指をわしわしと動かしている。
意味を直感的に理解したアリサは、二人に向かって小さな手を振った。
「――お話、退屈してしまいましたか?」
アリサの寝室へ続く螺旋階段を昇りながら、フレイは口を開いた。
「うん。お父さまの言ってること、よくわからないもん」
アリサが頷くと、フレイは苦笑い。
「直に、わかる日が来ます。そのときは、アリサ様もご活躍なさることでしょう」
「わたしが、お父さまみたいになるの?」
「魔王の跡継ぎはグレン様です。王位継承第一位ですからね。アリサ様は、グレン様をお支えするのです」
「おうい?」
「はい。この魔界を統べる資格のようなものです」
「ふぅん……」
フレイが寝室のドアを開き、アリサは豪奢な造りのベッドに寝かされた。
「さて、今日はどのお話にしましょうか?」
と、フレイはハードカバーの薄い絵本を数冊、アリサに見せた。
「これがいい!」
アリサが指し示したのは、囚われの王子を武闘派の姫が助けに行くお話。
「承知しました」
魔王の前とは違い、ここでのフレイは柔らかな笑顔で言った。
「フレイのえがお、すてき」
「――アリサ様と、二人きりになれたからです」
今度は、恥ずかしそうに笑うフレイ。
「わたしも、フレイと二人きり、すき」
フレイの目が見開かれ、瞳が瞬いた。
「では、アリサ様に相応しい殿方が見つかるまで、私がお傍におります」
フレイの読み聞かせが終わると、アリサはこう言った。
「いつかわたしも強いお姫様になって、フレイを助けに行く!」
「私を、ですか?」
フレイは意表を突かれたように目を丸くした。
「うん! わたし、フレイがすきだもん」
アリサの言に、フレイはきらきらと潤った目をしていた。
♡
「――アリサ様⁉」
翌朝。フレイの頓狂な声で、アリサは目覚めた。
南東に面した窓から、地平線に覗いた朝日が差し込んでいる。
「おはよう、フレイ」
「た、確か私はソファで……?」
アリサは目を擦りながら、昨夜はフレイの隣で寝たことを思い出した。
「この前はフレイがわたしの寝顔を見ていたのだから、やり返そうと思って」
本当は、純粋に、フレイの傍で安心したかったのだ。
頬を赤らめるフレイ。
「昨日はローラン様を介抱していて、遅くなっちゃってごめんなさい」
アリサは昨夜言えなかった謝罪をした。
「私のほうこそ、寝落ちしてしまってすみませんでした。……その、こういう物言いは失礼かと思いますが、何事もありませんでしたよね?」
侍従であるフレイの立場からしてみれば、主人の身を案じる当然の質問だった。
〝何事も〟の意味を考えるアリサはつい、頬を赤らめてしまう。
そして、ローランと重ねた唇を、思わず触る。
「アリサ様。なんですか、その顔は」
「え? い、いえ別に、何もないわ!」
ずい、と、フレイが顔を近づけてきた。
アリサは額に汗が出ないかと、気が気ではない。
「正直に仰って下さい。怒りませんから」
フレイにじっと見られ、アリサは根負けする。
「彼がその、戻しそうになって、近くの川まで……」
「川⁉」
フレイの声が上ずった。
「声が大きいわ。川で背中を擦って、それから、少しお話したの。それだけよ」
アリサは逃げるようにベッドを降りると、顔を洗うべく洗面所へ向かった。
そんなアリサの目に、昨夜ローランから借りたチーフが映る。
「ッ⁉」
人間離れした反射神経でチーフを掴み取り、ネグリジェのポケットに隠す。
「アリサ様」
「ひゃっ⁉」
すぐ後ろに、目を見開いたフレイが立っていた。
「私のようなダークエルフは気配を断って移動するスキルで言えば魔界でもトップクラスです。今なにか隠しましたね?」
フレイは低い小声で、それも早口で言う。
「い、いいじゃないの。なんだって!」
「私はあなたの侍従です。改める義務があります」
目を見開いたまま、フレイが片手を差し出した。
「――はい」
アリサは鼻をすすり、チーフをぽんと乗せた。
「これ、ローラン様のですか?」
「はい……」
「私が丁重にお返し致しますので」
「自分で返すわ」
「いいえ、私がお返しします。こうした事は、今後無きように」
アリサはぐっと口を結んだ。
「――もう! フレイのばか!」
アリサはすたすたとベッドに戻り、ぼすん、と腰を下ろした。
細い身体が小さく上下に揺れた。
「馬鹿とはなんですか。お兄様が聞いたら、きっと怒りますよ?」
フレイはアリサの対面――ソファに座る。
「ここにはいないわ!」
「アリサ様がここにいる目的は、魔界のほとぼりが冷めるまで平穏に暮らすことです」
「わかってるわよ!」
「でしたらこれ以上、事を大きくなさらないで下さい。本来の私の立場で言えば、アリサ様が
ローラン様のためにアステラス王国へ行くことも、止めねばならないのですよ?」
「フレイは何が気掛かりなのよ?」
「あなたがローラン様と男女の関係を深めてしまうこと。私情が深く絡み合って、それが行き
過ぎれば道理を外れ、グレン様のご意向に反しかねません」
アリサは出掛かった言葉を呑みこむ。
グレンは今頃、スーパーオークたちが反乱を起こさぬよう根回しをしていることだろう。
もし反乱が起きれば、その矛先はまず、グリバス殺害の実行犯であるアリサに向く。
こうして雲隠れしていれば、スーパーオークたちは行動を起こしたくても起こせず、そこへグレンが働き掛ければ、怒りは静まり、やがて矛も収められる。
しかし、アリサがあまりにも目立つ行動を続けてしまえば、それが風の噂となって魔界にも伝わり、反乱の熱に拍車を掛けかねないのだ。
フレイの言葉にはそうした含みが込められていた。
「アステラスでの証言を許可してくれるなら、ローラン様と仲良くなるくらい、構わないでしょう? フレイさえ黙っていてくれれば、わたしとローラン様だけの話なんだから」
アリサの言に、フレイは肩を落とした。
「アリサ様。ローラン様とどんなお話をなさったのかわかりませんが、お顔の赤らみといい、その怒り方といい、何か特別な感情を抱いておいでなのがバレバレです。理屈に則った考え方を欠いている状態と言えます。それは、良くありません」
つまり、アリサとローランを見る人が見れば、その心中を見抜かれ、噂として広まる。
アリサはそう受け取った。
「万が一、復讐の刃がアリサ様に向いたとき、ローラン様も一緒だったら、どうなると思いますか? それも考えて下さい」
「で、でも、お父様は馬車の中でわたしに言ったのよ? 結婚相手を探せって」
「そ、それは、魔王がアリサ様の幸せを第一に考えて――」
「なら、今回のことも許してくれるわよね?」
「魔王がそう仰った後で、状況は大きく変わりました。アリサ様の将来は斯くあるべきかもしれませんが、今は優先順位が――」
フレイはここで瞳を揺らがせ、アリサの発言が意味することを整理するかのように閉口した。
「……まさか、ローラン様のことをそのように見ているのですか⁉」
「そ、そういうわけじゃないけれど、……まだよくわからないの!」
「これは、私の大きな失態です。やはり、アリサ様を一人にすべきではなかった……」
「いつまでも子供扱いしないで。昨日のことは、わたしがそうしたくてやったこと。責任くらい取れる!」
「殿方一人と、たったの一晩接しただけで赤面するようなお方が、何を仰いますか!」
「なによその言い方! フレイだって、そういう経験したことないくせに!」
「――いい加減にしなさい!」
フレイの強い口調に、アリサは肩を震わせた。
アリサは、長い間見ることのなかったフレイの怒気で、自分の過去を思い出す。
アリサが絵本に興味を持ち始めた頃、彼女の母親が亡くなり、三日三晩、遺体の傍を離れようとしなかった時のことだ。
魔王が何度言い聞かせても、アリサは泣きじゃくって首を横に振るばかり。
フレイはそのときも、魔王の罰を覚悟したうえで、強い口調で諭したのだ。
『泣くのをやめて、前を向きなさい! それが、この世界に残されたあなたの使命です!』