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後編

琉安は後宮に入る日を心待ちにしていた。後宮は華やかで皆の憧れの場所だと聞いている。そこに早く行ければいいのにと願ってしまう。

だが、義姉の柚杏は不安そうにしている。馬車の中にいても宿屋の中にいてもその表情は曇りがちで晴れる事がない。どうしたかのかと尋ねてもはぐらかされてしまうので琉安はすっきりする事のない気持ちを抱えてしまうことになる。

そうやってする内にとうとう、長安にたどり着いた。

長安はたくさんの人で賑わい、石造りの家などの町並みが印象に残る。琉安は物見用の窓からそれを見ていた。

「…うわあ、すごいわ。ねえ、あの人なんか顔の彫りが深いわよ。髪が茶色で瞳は青いのね」

「…たぶん、その人は胡人だわ。遠い異国から来たのよ」

姉の柚杏が小声で教えてくれる。琉安は少し離れたところで歩く男性をじっと見つめていた。

だが、馬車の方が進むのは速いため、すぐに見えなくなった。それを名残惜しく思いながら、琉安は窓を閉めた。




その後、一行は後宮の門の前にたどり着いた。琉安が先に下りて、柚杏が出てくるのを手伝う。

二人の侍女達も続いて下りる。その間、御者役の家人や護衛役の者達も待ちながら、周囲への注意を怠らない。門は開かれており、中の様子がよく見える。

「はぐれないようにしてよ。ただでさえ、琉安は落ち着きがないんだから。後、これから、女官の試験があるの。頑張ってよ」

柚杏はしかめっ面で言いながら自身は中へと入っていく。侍女達と琉安は奥には入らず、柚杏だけが先を進んでいった。

彼女の姿が見えなくなると侍女達と一緒に試験会場に急いだ。

門から少し入った所に会場はあった。試験官らしき女性が佇んでおり、周りにはたくさんの若い娘達が整列していた。

それに圧倒されながらも琉安はその列の中に入り込む。侍女達も同じようにしている。

「では、これから女官の入門試験を行います。まずは、礼儀作法から始めて次に舞踊、武芸となります。最後に筆記試験が入ります。これらに及第する事ができれば、めでたく後宮の女官になれますから。皆さん、心してかかってください」

娘達は一斉に返事をした。

琉安は自然と背筋が伸びる思いがした。こうして、入門試験が始まった。




礼儀作法から始めて、これで二十人ほどが落第となる。舞踊も三十人が落第して武芸では四十人となった。筆記試験で残ることができたのは二百人中、百十人ほどに減ってしまっていた。

琉安は幸いにも残ることができた。付いてきていた侍女達もちゃんとこの中に入っている。

柚杏がちゃんと寿王様の元に行けたか気になる。だが、それを確かめる術はない。

琉安は我慢して、試験を受けたのであった。

そして、あれから、早くも二日が経った。柚杏に会えないまま、時間だけが過ぎていく。

(姉様、大丈夫かな。寿王様に会えてたら良いのだけど)

心配をしながらも与えられた床の拭き掃除、つまりは仕事をこなす。黙々と廊下を拭き清めて琉安は立ち上がって汚れた手巾を盥の中の水に浸す。ざっと洗って、水気を絞る。

もう一度、拭き忘れた所がないか確かめて、ないとわかると盥を持って井戸に向かった。

一番下っ端の女官の仕事をやらせて雑務をどれだけこなせるか、見定めるために今みたいな状態になっていた。琉安はその後も掃き掃除などもてきぱきこなして、試験に及第したのであった。

見事、皇帝子息の寿王の妃付きの女官として認められたのであった。




あれから、三年が経ち、柚杏は寿王の妃として扱われるようになっていた。彼女は十四の少女から十七歳の娘に成長していた。子供の頃は目立たない普通の子供だったが。

今では目を見張るほどに美しくなっていた。寿王の寵愛もあり、成熟した女性に変化しつつある。

それを自身の事のように琉安は喜んでいた。柚杏は実は身ごもっていたのだが。

寿王は父の皇帝から、自身の政権を揺るがす存在として警戒されて実子としても長年、認められていなかった。その彼の子が男の子であれば、余計に皇帝の不安を煽る事になる。

その事から、寿王は柚杏の懐妊を極秘にせざるを得なかった。柚杏は寿王の妃になった折に改名しており、玉環と名乗っていた。

「…ね、玉環様。ご気分がよろしくないようですね」

「ええ。つわりがひどくて。でも、この子を無事に産まないと。日の本のお父さんやお母さんに悪いわ。それに、唐の国の父様や母様にも」

今、玉環は日の本の国の言葉で話していた。そう、何あろう彼女は元は日の本の国の生まれで名を泊瀬部若子(はつせべのわかこ)と言った。八歳の頃にこの唐の国に無理に連れてこられて、後に引き取ったのが琉安の伯父夫妻であった。だが、この伯父夫妻は病により、二人とも亡くなってしまう。他の実子であった義理の兄弟達とも離れ離れになり、玉環は一人、今の琉安の両親に引き取られた。

琉安だけが素っ気なく冷たかった楊家の人々の中で親しくしてくれていた。その事から、自身の国の言葉を教えたくらいに玉環にとっては彼女が大きな支えになっている。

「そうですね。無事に生まれたらいいですね」

「…絶対に無事に産んでみせるわ。それまでは寿王様のお相手、よろしくね」

「……わかりました」

琉安は静かに頷いた。その目には隠しきれない苦悶が浮かんでいた。




夜になると、必ずあの方が訪れていた。琉安があの方を受け入れたのは十四の時であった。玉環が体調が悪い時などは代わりに琉安が夜のお相手をしている。

今夜もそのはずだ。窓を開けて夜空の三日月を見上げた。細いそれは美人の眉のようだということから、眉月というのだと玉環から教えてもらっていた。

「…眉月か。蛾眉という言葉があると言ったら。姉様、笑っていたわね」

昔が妙に懐かしい。琉安はそっとため息をつくと窓を閉めた。

扉が同時に静かに開かれてあの方ー寿王が入ってきた。琉安は居住まいを正してゆっくりと彼に近づき、微笑みかけた。

「…琉安。今日もよろしく頼む」

「……はい。私もそのつもりです」

二人は寝所へと姿を消した。




それから、幾月かが過ぎ、玉環は誰にも知られる事なく一人の御子を産み落とした。だが、残念ながらその子は生まれてすぐに息を引取る。男の子であったが。

翌年も玉環は身ごもり、その年の冬に二人目の子が生まれた。女の子で元気が良く、名を春暁と名付けられた。無事に生まれてきた事に安堵し、寿王と玉環はこれから穏やかな時間を過ごせるはずであった。

が、そんな二人を歴史という名の渦は放っておかなかった。何と、寿王の心強い後ろ盾であった母の武恵妃が亡くなったのだ。

この事から寿王の立場は危ういものとなる。より、皇帝の疑いは強まり、しまいには妃の玉環を無理矢理、自身の後宮に召し上げると告げられた。いわば、人質にすると言われたのと同じであった。

これには寿王も琉安も驚きを隠せなかった。そして、二人は皇帝からいかに玉環と娘の春暁を守るかを考えるようになった。




「…ねえ、母様。どこに出かけるの?」

舌足らずな言葉で春暁は母に尋ねた。が、母の玉環は泣きむせぶばかりではっきりと答えられない。父の寿王も沈痛な表情をしている。

「…これから、母様の国に行くのよ。父様はご用があって行けないの」

「そうなの。わかった」

やっとの思いで玉環が答えると馬車の扉が閉められて動き出した。それを悲しげに見やりながら、寿王は側に控えていた琉安に命じた。

「琉安。わかっているな。今から、そなたが楊玉環だ。父上、玄宗皇帝の妃として後宮に入れ。そなたとは離縁する」

「…かしこまりました。姉様を守るために私が後宮に入らせていただきます」

「そうだ。柚杏は元の日の本の国に帰す。娘も一緒だ。阿部仲麻呂殿の細君に後の事を頼んでおいた」

「そうでしたか。ならば、事を運びやすくなりました」

頼んだぞと言われて琉安は玉環として妖艶な笑みを浮かべた。



そして、十八歳で後宮に入った玉環は玄宗皇帝に気に入られ、この世の栄華を堪能する。が、一人になると今生の別れをした義理の姉や姪の悲しげな顔を思い出していた。

それを振り払うかのごとく、玉環は皇帝に無理難題を申し付けたりした。その事の積み重ねが後に皇帝の周囲の反感を買い、彼女を追い詰めて自滅の最期を辿らせる。

岩の上で微睡んでいたが玉環は目覚めた。彼女は哀しげに笑いながら、眉月を見上げた。

雲がかかり、月の光は弱くなる。それに踵を返して玉環こと琉安は歩きだしたのであった。

眉月に雲はかかりー完ー

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